「どういうおつもりで、義仲を討とうとおっしゃるのですか。貴方は、東八カ国を従え東海道から、私は、東山、北陸道よりと、目的は同じ、一日も早く平家を滅したいということである筈、それを、ここで、貴方と私が仲違いし、同志討ちしたとあっては、今までの苦心も水の泡です、平家の者どもから嘲笑を買うことも目に見えております。確かに、貴方と仲の悪い十郎
これに対する頼朝の返事は、
「今はそう申しているが、確かに貴殿が、この頼朝を討とうという
といって取り合わなかった。その上、
義仲は、東山道、北陸道をあらかた従え、旭日昇天の勢いで、都を目指して攻めのぼる気配であった。
平家の方でも、去年から、今年は戦があるからと予告しておいたので、山陰、山陽、南海、西海から雲霞のごとき軍勢が集ってきた。東山道からは、近江、美濃、
義仲を討った後、頼朝を平げようと、北陸に向けて平家の諸将が下向することになった。
大将軍に、小松
北国へ向けて進軍を開始した平家の一門のうち、経正、忠度、知度らはひと足遅れ、近江国
「あれは何という島か?」
「あれこそ、名高い
「ほう、あれがそうだったのか、それならば事のついでだ、参詣いたそう」
経正は、有教ほか五、六人の供を連れて、島に渡った。丁度四月も半ばすぎて、春もようやく、盛りを過ぎようとしている頃である。
経正は、竹生島明神の前にひざまずくと、しばらく心をこめて祈念をこめた。そのうちにいつしか、あたりに夕闇がたちこめてきた。折しも昇ってきた陰暦十八夜の月が湖上を昼間のように照し出した。月の光に
「よい折でござります、かねてよりご名声の高い琵琶を是非お聞かせ下さい」
住持が寺にあった琵琶を差し出したので、元々好きな道でもあり、興ものっていたので、経正は喜んで弾き始めた。秘曲といわれる
経正は、あまりのうれしさに、感激の涙を流しながら一首の歌を詠んだ。
ちはやぶる神に祈のかなえばや
しるくも色の現われにけり
しるくも色の現われにけり
信濃国にあって、全軍の指揮をしている木曽義仲は、越前国に
火打城を守っていたのは、
平家の兵がこれを取って早速、大将軍の前に持ってきた。
「かの湖は天然の湖水ではなく、山の川をせきとめて人工的につくったものです。夜に入ってから、そっと水をせきとめている柵を切って落せば、たちまちの内に水の引くことは確かです。さすれば、馬の足場も良いところ故、急いでお渡り下さい。城内よりご加勢いたしましょう、かく申す私は、平泉寺の長吏斎明威儀師にございます」
平家方は、その夜のうちに、ひそかに足軽に命じて柵を切らせた。たちまちのうちに水の引いたところで、平家の軍勢は、どっとばかりに、ときの声をあげて、城に殺到した。多勢に無勢の木曽勢は、奮戦むなしく一刻ごとに、敗色深くなるところへ、更に斎明の裏切りも手伝って総崩れとなった。大将格の稲津、斎藤、富樫らの面々は、加賀国を目ざして退却した。
平家は、なおもこれら残党を追って加賀国に追撃、林、富樫、両人の城を焼き払って気勢をあげた。
勝利の知らせは、直ぐ都に伝わったが、一門の喜びようは大変なものであった。
続いて、加賀国
越後の
平家の軍勢の様子をうち眺めた義仲は、おもむろに口を開いた。
「平家は大軍じゃから、恐らくは礪並山を越え、広い場所で正面から戦を挑むつもりであろう。しかし、そうなっては、無勢の我が方の不利、それよりも、旗差し物を何十本かつくり、源氏の白旗を一時にさしあげよ。すると、平家方は、源氏方は定めて大勢の様子、のこのこと広い場所に出ていってとりこめられては敵わない、それよりもこの山は、要害堅固の地だから、暫く休息していても大丈夫であろう、と思ってきっと山中で一時の休息をいたすであろう。その間、こちらは、ほどほどにあしらっておき、夜に入ってから、平家方を一挙に、
義仲の予想はうまく的中した。平家は案の定、礪並山の山中、
一方義仲は、
義仲は、すぐ、地理に詳しい者を呼び、
「あれは何の宮じゃ、何の神を祭ってあるのか?」
と尋ねた。
「あれは八幡様でございます。このあたりは、八幡の御領なのでございます」
義仲はその返事をきくと直ぐに、書記として連れていた
「きくところによれば、八幡宮の側近いようじゃ。義仲は、唯今より合戦に臨むにあたり、後代のため、また勝利の祈祷のため、願書を書いて納めたいと思うがどうじゃ?」
「まことに結構なことでございます」
といって覚明は馬から下りたって願書を書く用意にかかった。覚明はその日、

覚明は、儒家の出身で、
その昔、神功皇后の新羅征伐の時も、味方の勢が弱く今にも破れそうな時、皇后が天に祈りを捧げると、三羽の霊鳩がとんできて、戦はたちまち逆転、皇后の勝利となったことがある。又、義仲の祖先、源頼義が、
義仲はこれらの先例を思いだすと、急いで馬から下り、兜を脱ぎ、うやうやしく鳩を伏し拝んだ。
やがて、いつかあたりも暗くなり、人の姿も定かには見えなくなった頃、北南より廻った
慌てたのは平家である。
「確かに囲りは岩石ばかりで、搦手から廻られるとは思ってもみなかったのに」
とぼやいたところで後の祭であった。
腹背に敵をうけて逆上した平家の軍勢は「帰せ、帰せ」という、必死の下知も何のその、もう命が惜しいばかりに、後へ後へと泡を
七万余騎の平家勢の内、辛うじて助かったのが二千余騎、大将維盛、通盛も、漸く命だけは助かって加賀国に逃げのびた。
翌くる日義仲の許へ、奥州藤原秀衡のところから、駿馬を二頭送ってきた。一頭は黒白毛、一頭は
倶利迦羅谷の一戦に大勝を博した木曽勢は志保山に廻った。十郎蔵人の軍の様子が気にかかったので、四万余騎の中から、特にえりすぐった二万余騎を引連れて、援軍にかけつけた。途中、
志保に着いてみると、行家の軍は、平家側に散々てこずって疲労の色が甚しく、一息入れているところだった。義仲は、新手二万余騎を、平家の三万余騎の真中へ突入させた。
先刻からの激戦で疲れている上に、新手の敵の勢に、平家方も、ここを先途と戦ったがついに空しく攻め落された。
平家の大将、三河守知度は、この戦で討死した。
義仲は、そのまま志保山を越え、能登の
治承四年の石橋山合戦の際、平家に味方し頼朝に弓を引いた者たち、
「近頃の世の有様をみていると、どうも源氏の方に運が強く、平家はどうやら落ち目らしい。このまま平家についていても、面白くない。いっそ木曽殿に味方しようと思うがどうじゃ?」
一座の者は、実盛の意外の言葉に、急に言葉もなく、「そうだのう」というあやふやな返事をするばかりであった。翌くる日、再び寄合が、今度は浮巣三郎の家であった。すると実盛は、又昨日と同じ様に一膝のり出すと、
「昨日、わしの言ったこと、各々方、どのようにお考えじゃ?」
と尋ねた。再び一座がしんとしていると、俣野五郎が進み出た。
「我々一同は、とにかく東国では一応、名も知られた者、旗色の良い方にばかりついて尾をふるのは、余りにもみっともない。
すると実盛は、笑いながら、
「実は、わしは各々方の気を引いてみたまでの事じゃ、わし自身は、今度の戦で立派に討死をするつもりで、二度と生きて都の土は踏むつもりはないと、
一同は、もちろんこの言葉に同意して、同じ決心を固めていた。その約束通り、その座にあった者は残らず今度の北国の
志保山、倶利迦羅谷で手痛い打撃を蒙った平家は、加賀国篠原に陣を敷き、人馬の休息をしていた。
義仲は、五月二十一日の午前八時、
平家方からは、
「何者じゃ、名を名乗れ」
「越中国住人、
兜の下からのぞいている若々しいひとみを見出したとき、判官は思わず
「去年失った、わしの息子も、今生きておれば、そなたと同い
判官は、入善を馬から下し、自分も下り立って暫く休んでいた。
「助けて貰ったが、何としても立派な敵、どうにかして首級を挙げたい」
そう思っている入善の心中も知らず、判官は、すっかり心を許していろいろ話しかけたりした。そのすきをねらっていた入善は、あっと思う間に判官の内兜に刀を突きさした。「しまった」と思ってももう遅い。更に運悪く入善の郎党もかけつけて来る。大力の判官も深傷には勝てず、遂にそこで討たれたのである。
平家方の
斎藤別当実盛は、その日、赤地の錦の
「天晴れ見事なる装い、味方の落ちゆく中を唯一人、残られたは、一体
「そういう貴殿は何者じゃ」
「手塚太郎光盛」
「これはよい相手、わしはちとわけがあって名乗りたくないのじゃ、いざ参れ」
と、光盛の傍らに寄ろうとすると、光盛の郎党が、主人の一大事とばかり、二人の間に割って入り、実盛にむずと組付いた。
「天晴れな奴め、そなたは、日本一の剛力者に組みつこうというのか?」
実盛は、郎党の首を
光盛は、首級を持って義仲の前に出ると、
「おかしな男を討ち取ってございます。唯の侍かと思うと錦の直垂などを着け、大将軍かと思えば後に続く侍もなく、名乗れといっても名乗りたがらず、それに声は
「うーん、これは実盛のようじゃが、わしが幼い頃の記憶では、既にその時、白髪混りだったと覚えているが、この首の
樋口次郎は、実盛を一目見るなり即座に、
「これは確かに斎藤別当でござります」
と、いいながら、はらはらと涙を流した。
「しかし、それにしてはおかしい。鬢も鬚もまだ黒々としておるわい。もし実盛ならば、もう七十一のはずじゃ」
「それだからでございます。あまりにもあわれで、つい涙をこぼしたのですが、実盛は常から、六十歳過ぎて戦場に出るときは、鬢、鬚を黒く染めて、年より若く見せようと思うといっておりました。若者達にまぎれて先駆けするのも大人気はなし、さりとて老武者と侮どられるのも口惜しいからじゃと申しておりましたが、やっぱりその通りにしたものと見えます。とにかく洗ってみれば、はっきりいたします」
実盛の首を洗ってみると、白髪頭の老人であった。これには、座にある一同、深く感銘したのであった。
大将軍でもないのに、錦の直垂を着て出陣したのには、こんな話がある。
出陣の暇乞いに宗盛のところに赴いたとき、
「実盛、かねがね、例の富士川で、水鳥の羽音に驚いて逃げ帰ったことを残念に思っておりましたが、この度は、北国征伐に加わることができ、老いの身の本望、この上は立派に討死して果てたいと存じまする。就きましては、私は元越前国の者、昔から故郷には錦を着て帰れといわれております。私に錦の直垂をお許し願えないでしょうか?」
宗盛は、実盛の心掛けにひどく感服して、錦の直垂の着用を特に許したのであった。
四月中旬、都を立つ時は十万余騎の軍勢が、一月経って京に戻ったときは、僅か二万余騎という有様で、夫を失い、子を失った人々の嘆きの声、念仏の声が、あちこちから聞えて来た。
越前の
「山門を滅ぼしたために、悪運尽きて都を落ちようという平家を倒そうとする義仲が、これまた、山門に刃向うというのでは、平家の二の舞も同然、しかし、近江を通って都へ入ろうという義仲を、やすやすと通す山門でもないと思うし、
大夫房覚明が、一歩進み出た。
「山門の衆徒と申せば、その
義仲も、覚明の意見を尤もと思い、直ぐに牒状を書かせた。
「保元、平治以来の平家の悪逆無道振りは、目に余るものありと覚え候。去る治承三年には、法皇を鳥羽殿に押し籠め奉り、又、四年には、高倉宮、
山門の大衆は、この義仲の手紙によって動揺した。源氏に味方しようという者、長年の恩義に依って平家を見捨てるべきでないという者、意見は全く二つに分れたかに見えた。するうちに老僧が立って、
「つまるところ、我々は、唯、国家の安泰と天地の長久をお祈りすることが義務であって、政治的な恩義は何一つ受けておらぬはず、平家は天皇の御外戚でもあり、その繁昌を祈るのは当然なれど、余りにも悪行が多過ぎ、今や権威も地に落ちた感がある。それに引き替え、源氏の勢は、あなどり難い。勝運の波に乗っている源氏に背むいて、落ち目の平家に味方して、何の益があろう。そのため、山門の滅亡を招くがごときことあれば当山建立の精神にも反する。平家長年の恩義は恩義じゃが、この際、源氏にお味方するのが当然じゃ」
この言葉には、山門の一同も尤もなことだとうなずき合い、直ぐその趣旨に従って、義仲に返牒を送った。
平家の方は、義仲と山門の間に、こんな盟約の交わされたことは夢にも知らなかった。
「興福、園城の両寺とは、いろいろ因縁のある間柄故、とても味方はしまいが、山門は未だ当家に怨もないはず、山王大師に祈誓して、三千の衆徒を味方につけよう」
と、一門の公卿十人が、連署の願書を書いて山門に送った。
「山門は、
天台
平らかに花咲く宿も年経れば
西へ傾く月とこそみれ
西へ傾く月とこそみれ
しかし、今となっては既に手遅れであった。源氏同心の決意を固めた衆徒にとっては、山王大師の憐れみも、天台座主の祈りも、無駄であったのだ。平家は、既に運に見放されていたのである。
鎮西の反乱を鎮めに西下した肥後守
すると、二十二日の夜半、俄かに六波羅のあたりが騒がしく、人馬の往来が激しくなり、家財道具などをあちこちへ運び隠している様子で、まさに敵が京に乗り込んできたかのようであった。
翌くる朝になって、事の真相がわかった。美濃源氏、
二十二日の夜、その男が六波羅に駆けつけてきて、
「木曽義仲、既に五万余騎にて攻めのぼり、比叡山東坂本まで来ております。又
この突然の知らせに、平家一門は
「此の上は、何処までも一緒になって、どうにでもなろうという意見が、平家の大勢を占め、方々に差し向けられた討手一同を再び都に呼び返し、都落ちの用意をすることになりました」宗盛は、建礼門院のいる六波羅
「今となっては、どのようにでも貴方のいう通りにいたしますよ。それにしても余りに情ない世の中になりましたね」
と、さめざめとお嘆きになるご様子に、宗盛もこれからの暗澹たる未来を思って、首をうなだれるのであった。
法皇は、平家の計画を、いつかお気づきになったものらしい。
その日、法住寺殿の宿直をしていたのは、平家の侍で、
「法皇はどこへゆかれたのでしょう」
「お姿が先程から見えませぬ」
などという声が聞えてきた。
季康が慌てて六波羅へ注進すると、宗盛もどきっとして、
「まさかさようなことがあろうとも思われぬ、||何かの間違いであろう」
と、いうが早いか、すぐ法住寺殿へかけつけた。確かに、法皇だけがもぬけの
法皇の
「宝剣、神鏡、
平大納言の声がかかったが、何しろ、ごたごた騒ぎの最中で忘れる物も多く、そのとき御座所にあった
しかし、ようやく出発の準備が整った。平大納言をはじめ、
摂政
いかにせん藤 の末葉 の枯れゆくを
ただ春の日にまかせてやみん
ただ春の日にまかせてやみん
何事も春日大明神にまかせよというご神意であろうか? 基通は、供の進藤左衛門尉高直をかえりみて、
「どうも世の中の様子をみると、主上の行幸はあっても法皇のお行方はわからぬし、この先は不安じゃのう、そなたはどう思う?」
と、暗に西国落ちに参加したくないことを仄めかすようにいったので、高直も直ぐに主の気持を察し、車の牛飼に目くばせした。牛飼も心得たもので、都落ちの方角とは反対に、都を北へとひた走りに走り、北山の
三位中将維盛には、過ぐる鹿ヶ谷事件で憤死した新大納言
桃の花びらのように可憐な面ざし、風になびく柳のように長く美しい髪の毛、何年間かなれ親しんだ奥方との別れは殊に辛いものだった。
「日頃からそなたも存じておらるるように、此のたびの戦局は我が一門に不利なことばかり、一先ず西国に落ちてその上で、再び旗を挙げようという宗盛卿のお言葉じゃ。依ってわたしも一緒に一門と運命を共にするつもりじゃ。何しろ、行く先々で敵を迎え討ちながらの都落ち故、わたしの身に万一のことがあろうかも知れぬ。もし維盛討死の知らせを耳にしても、決して髪を下して尼などに身をやつすではない。そなたはまだ若く美しい身空、情をかけてくれる人もあろうから、その人にすがって幼い者たちを大事に育ててくれよ」
維盛の心からの慰めも、今の北の方には一言も耳に入らないらしい。唯、頭から衣をかぶって泣き伏しているばかりである。そのうちに時間も迫ってきて、維盛も気が気ではない。後髪をひかるる思いで立ちあがると、泣き伏していた北の方が、漸く頭をもたげて維盛の袂をしっかとおさえると、
「父成親がこの世を去って以来、私はまったくの天涯孤独の身の上、貴方に捨てられたら一体誰を頼りに生きてゆけばよろしいのですか、それをまた、他の人に縁づけなどと、あまりにもつれないお言葉でございます。夫婦の縁は前世のちぎり、貴方様以外にまみえる気はございませんのに、夜半のむつごとにも、どこまでも一緒に、生きるも死ぬるも一緒、野原の露でも、水の底の
「私が十五の時に十三のそなたと知りあって以来の縁、私とても、火の中、水の中までも連れて行きたい心は山々なれど、このたびの西国落ちは戦も同然、行く先きざきで、どんな辛い目が待っているかわからぬくらいじゃ、それを思うと、私にはどうしてもそなたたちを連れてゆく気がしないのじゃよ。その上、今度は余りの不意の出立で、用意も何一つできてはおらぬ。この上は、先ずわが身一人先に行き、どこの浦でも、あるいは島でも、仮の宿を決めたところができたらば、直ぐに迎えを寄越そうと思う。せめて、それまで辛抱していてくれぬか」
維盛の声涙あふるるばかりの嘆願も、今は北の方の嘆きの声にかき消されがちであったが、維盛ももはやこれまでと決心をすると、中門から馬に乗ろうとした。ところへ邸の内から幼い若君と姫君が、ぱたぱたとかけ出してきて、
「いずこへお出ででございます、私も行きとうございます」
「父上、お連れ下さいませ」
と口々にいいながら、
「いかがなされた、あまりに遅いので案じて参りました。行幸が遅れますぞ」
その声に、維盛は気を取直し、幼い者の手を優しく離すとひらりと馬にまたがったが、不図思い返し、弓の
「各々方、ご覧下されい、彼ら幼き者たちが余りに慕いまするので、あれこれなだめすかしているあいだに、気になりながらも遅れをとりました」
この言葉に並みいる一同は、鎧の袖を拭うばかりであった。
維盛の家来に斎藤五、斎藤六という二人の兄弟があった。例の北国の戦でいさぎよい討死を遂げた実盛の息子であったが、兄は十九、弟は十七の若侍で、この日も馬の手綱に取り付いて維盛の供を願った。
「そなた達の志は嬉しいが、父実盛が、北国の戦にそなたら二人を残したのも、今日あることを予想してのことと思う。その志をうけついで、今度だけは邸に留まって、か弱い者達の力になって呉れよ、頼む」
こうまでいわれては仕方なく、兄弟は涙を呑んで邸に残った。維盛の馬が門を出て、次第にひづめの音も遠去かってゆくのを聞きながら、北の方は、
「長年連れ添っていたが、あれほど強情な夫とは思わなかった。これからはどうやって暮していけばよいのか」
と、唯もう泣き伏すばかりで、若君姫君の父を慕う声、女房達の泣き叫ぶ声は、遠く西国の空にも響くかと思われるばかりであった。
平家は都落ちの際、後顧の憂いを絶つために、一門にゆかりのある邸宅、宿所、家屋などをすべて焼き払った。
代々、聖主臨幸の地であった京都も、今や全く灰に帰そうとしていた。御所を始めとして、かつては華やかなりし后妃達が遊び
ところで、治承四年七月、大番のために上洛し、そのまま平家方に仕えることを余儀なくされていた一群の東国武士があった。すなわち、畠山庄司
「面倒だ、どうせ彼らは東国のもの、即刻、首を斬れ」
という意見も多かった。その中で、新中納言知盛だけは、首を横に振っていった。
「たとえ彼らの首を百人千人斬ったところで、
宗盛も、知盛の言葉に動かされて、彼らを放免することにした。思いがけぬ助命の言葉から、遂には暇までくれた寛大な思いやりに、彼らも嬉し涙を流しながら、
「治承より今日まで、お命を助け下されたご恩に対しても、われらは、どこまでもご一門と行を共にいたしとうございます」
としきりに願ったが、宗盛は、
「いや、いや、言葉ではそう申しても、誰しも生国はなつかしいもの、そなたたちの魂は東国にあり、ぬけがらばかり西国へ連れて参っても無駄だからのう」
といって聞き入れなかった。
いったん一門といっしょに都を後にした薩摩守忠度は、何を思ったか、もう一度京に取って返した。総勢七騎という僅かな人数で、五条の
「誰方かお出でになりませぬか、薩摩守忠度でございます」
と声をかけると、そら「平家の
「お案じ下さいますな、決して乱暴をするために帰ってきたのではないのです。実は、一言だけ、三位殿に申しあげる事を思い出し、わざわざ途中から引き返し参りました。後にご迷惑になっても相済みませぬ、門は開かなくとも結構でございます。唯、この門の傍近く三位殿にお出でになっては頂けますまいか?」
この口上を聞いて、俊成卿は
「薩摩守だと? その方ならば遠慮は要らぬ、中へお通し申せ」
「長年、和歌の道には一方ならぬお教えを承っておりますが、ここ二、三年ばかりは、戦乱兵乱打ち続き、とかく世の中が騒がしく、心ならずも、ご無沙汰を重ねております。しかしこのたびは、主上も都を捨てて、西国へお下りになるという重大な事態、一門の運命も今や風前の
忠度は鎧の引き合せから、大事そうに巻物を取り出すと俊成に渡した。
俊成はそれを押し戴いて、中を開いた。日頃から詠んだ歌の中で、特に秀歌と思われるもの百余首が、ずらりと記されていた。そのゆかしい志に、ともすると、涙がにじんで来るのを押えながら、
「かように貴重な忘れ形身をお預りして、俊成これほど嬉しいことはございません。ゆめゆめ疎略にはいたしませぬ。それにしても、この一巻のため、混乱の最中をわざわざ戻っておいでになったとは、あわれを知る人にしてこそ始めてできる行ない、俊成この年にして感涙を押えることができませぬ」
「それほどまでにいって頂いて、忠度今は何一つ思い残すことはございません。今はいさぎよく西海の波に沈むこともできます。さらば、お暇いたしまする」
忠度は、にっこりと笑うとひらりと馬に乗り、
俊成は、名残惜しくて、いつまでも、いつまでもと門の外にたたずんでいるうちに、忠度の声らしく、高らかに漢詩を口ずさむのが聞えてきた。
「
二度と再び相逢うことのできぬ悲しみをこめたその歌の文句が、俊成の心を深く突き刺すのであった。
これは後日談になるが、後に千載集の選にあたり、俊成は約束通り、形見の巻物の中から一首を
さざ浪や志賀の都は荒れにしを
昔ながらの山桜かな
昔ながらの山桜かな
門の前で馬をおりると経正は、
「此のたび、武運つたなく、都落ちをいたすことになりましたが、この世に思い残すことといっては、唯、八つのときから十三のときまで、お仕え申しましたわが君さまのことだけでござります。病気以外は、決してお離れしたこともなかったのに、今後は、西海千里の波を枕に、いつ帰るとも知れぬ戦の道でござります。今一度、拝顔の栄に浴したくは思いまするが、何分
経正の口上を聞かれた御室は、
「構わぬ、そのままでよいから参れ」
といわれたので、経正はそのまま門に入り、お庭先に控えていた。
この日経正は、
親皇がお部屋の
「先年、私に賜わりました
と涙を流していった。親皇も、その心根に感じて一首の歌をおよみになった。
あかずして別るる君が名残をば
後の形見に包みてぞおく
後の形見に包みてぞおく
経正にも
呉竹の筧 の水はかわれども
猶すみあかぬ宮の内かな
猶すみあかぬ宮の内かな
暇を告げて外に出ようとすると、稚児を始め侍僧達が、袖に取りすがって名残を惜しむのであった。
その中でも、経正の幼友達であった大納言法印
あわれなり老木 若木も山桜
おくれ先だち花は残らじ
おくれ先だち花は残らじ
経正も直ぐに、
旅衣よなよな袖をかた敷きて
思えばわれは遠くゆきなん
思えばわれは遠くゆきなん
と答えた。
行慶とも別れた経正は、今はと、持っていた赤旗をさっと高く打ち振った。ここかしこで経正の帰りを待っていた家来たちはすわこそと集ってきた。それが百騎ばかりになったところで経正は、一門の後を追って行くのであった。
この
村上天皇の時だった。その夜は丁度中秋の名月であった。主上は、玄象を手にして、暫し独りで楽しんでいらっしゃると、影のようなものが御前にしのび寄り、気高い声で歌を和し始めた。主上は、弾く手をやすめ、
「誰じゃ、一体どこから入ってきたのじゃ」
と尋ねられた。影が答えるには、
「私は昔、
いい終るとすぐ立てかけてあった青山をとり、調子を変えて、秘曲を弾き始めた。今伝わる上玄右上がこれである。このことがあって、主上始め誰も青山に手を触れるのを怖れたので、仁和寺の御室にお預けになった。その青山を、御室はご寵愛の深かった経正に又お預け下されたのである。
経正は、琵琶の名手であったが、十七の年、宇佐八幡宮に勅使として下向した際、この青山を持って、八幡宮の御殿で秘曲を弾いた。日頃、琵琶の音など聞いた事もない神官が涙を流したほど、その腕の冴えは見事だった。
青山という名のいわれは、夏山の峰の緑の木の間から、有明の月のさしのぼるすがたをいう。玄象と共に、当代の琵琶の二名器といわれている。
池大納言頼盛は、
「ご覧になりましたか? いくら忘れ物と
と申し出た。宗盛も、この様子をさっきからみていたが、
「日頃のご恩を投げすて味方を裏切るような奴じゃ、捨てておけ」
といまいまし気にいい放ったので、盛次もそれ以上は何もいわずに引き下った。
「ところで、小松殿の
その宗盛の問いに、傍らに控えていた知盛が無念そうに口をゆがめた。
「未だ一人も参りませぬ。それにしても、都を出て一日も経たぬうちにこの有様、人の心のうつろい易さは何としたことでござりましょう、この分では行く末が思いやられます。どうせのことなら都の中で、とあれほど申し上げたのに」
彼は宗盛の顔を口惜しそうに見あげた。
池大納言が、平家を見捨てて都に留まったのには、こんなわけがあった。というのは、戦乱が始ってからも、彼は頼朝から何度も書状を貰っていたのである。池大納言の母は、頼朝の命乞いをした池禅尼で、頼朝にとっては命の大恩人であったのだ。だから平家追討の者にも「決して池殿の侍に弓を引くな」と固く戒めているのであった。
最後の際まで迷いに迷い抜いた池大納言は、とうとう、どたん場になって、頼朝の情にすがろうと思いついたのであろう。頼盛は、妻の宰相の縁故を頼って、八条女院がしのんでおいでになる仁和寺の
「万一の時は、お助け下さい」
と頼盛がいうと、女院は、
「昔ならばとにかく、今の世の中では
と頼りないお言葉であった。一門とは離れ、敵中唯一人、頼朝の好意ばかりを頼りにしている頼盛は、どっちともつかぬ不安な気持であった。
維盛を始めとする小松殿の兄弟六人が、千騎ばかりで一門に追いついたのは、淀の
「今まで何をしておいででした?」
「それが、幼い和子たちが、仲々離さぬのでいろいろなだめておりますうちに遅れてしまいました」
「又どうして、お連れにはならなかったので?」
「つらつら思うに、世の行末も、余り頼もしいとは思われず」
と暗然として言葉を濁した。
この日都を落ちゆく面々は、前内大臣宗盛、平大納言
その勢ざっと七千騎、東国北国の戦で、漸く一命を長らえた人たちであった。
平大納言時忠は、主上の御輿を山崎
「南無帰命頂礼八幡大菩薩、願わくは君を始め、我等一同、再び都に帰れますように」
出て来たばかりの都の空を眺めやると、空はぼうっとかすんで、ところどころに、煙が一すじ二すじ立ち昇るのが見えるだけである。
教盛は思わず一首をくちずさんだ。
はかなしな主は雲井に別るれば
宿はけぶりと立ちのぼるかな
宿はけぶりと立ちのぼるかな
経盛も続いて、
末もけぶりの浪路をぞ行く
肥後守
貞能は馬からとび下りると、宗盛の前にかけ寄った。
「一体どこへ行こうとなされるのです? 西国へおいでになったら、落人として、あちこちで討ち散らされ、寄る辺のない身の上におなりになりますぞ。それよりも、どんなことになろうとも都においでの方がよいと思いまするが」
「そちは聞かなかったか、木曽勢、五万余騎は既に叡山東坂本まで到着いたしたという話じゃ。昨夜から法皇もどこかに姿をかくしてしまわれた。もちろん、われらばかりであれば、都の内にて一戦も試みたいと思っていたが、女院や二位殿に辛い目をおあわせするのも心苦しい。とにかく一度西国に落ちた上で、陣容を立て直して、再び捲土重来を期そうと思うのじゃよ」
「それなれば、貞能、一先ずお暇を賜わり、自由の身になって、とくと考えまする」
「それはそなたの勝手じゃ、よいようにいたせ」
貞能は、手勢五百騎の内、大半を小松殿の公達にと残し、自分は三十騎で都に帰っていった。
貞能、都に帰る、という知らせを聞いて、青くなったのは、池頼盛である。大方、自分を討ちに帰ってきたのだと、彼は小さくなって震えていた。
貞能は、西八条の邸跡に幕を引かせて、一夜を明かしたが、誰一人、戻って来る者もいないので、翌くる日、重盛の墓を掘りおこし、源氏の馬の蹄にはかけたくないと、骨を取り出し高野山に送り届け、あたりの土は賀茂川に流した。その上で、これ以上、平家に味方しても無意味と覚ったらしく、かつて、貞能が宇都宮を預り、手厚くもてなししたよしみを頼り、宇都宮のもとに落ちていった。
平家の一門は、維盛以外は、大臣以下、妻子同伴での都落ちであったが、身分の低い者はそうもいかず、いつの日再会することも覚束ないままに、愛する妻子や恋びとを都に見捨てたまま、西国に落ちて行ったのである。
都を後にした一同は、憶い出のふかい福原に着いた。ここで宗盛は、数百人の重立った侍を呼び集めた。
「平家の一門、このたびは、ご運も尽き果て、神明からも見放され、君からも見捨てられるという事態に立ちいたった。今後、都を後に、仮寝の夢を結ぶ旅客の身の上、まことに頼りないことじゃ。そなたたちは祖先伝来の家人として、家代々平家の重恩を蒙ってきたものじゃ。今こそ、恩にむくいずして何といたそう。我々は主上を頭と仰ぎ、三種の神器をたずさえて参った。どうじゃ、野の末、山の奥まで、行幸の御供を仕る気はないか」
宗盛の赤裸々な言葉に一同は深く感動していた。
「鳥や獣さえも恩に報いる心は存じております。まして私共は人間でござります。何でその道に背きましょうか、二十余年間、妻子を育て一家を支えてまいったのも、ひとえに平家のご恩でござります。まして弓矢とる身に二心はあるはずはござりませぬ。雲の果て、海の果てまでもお供いたしまする」
と異口同音に申し出るのであった。
その日は福原の旧都に一夜を明かすことになった。丁度月の明るい夜で、眠られぬまま、人々は三年間留守にした、なつかしい都のあたりをあちこちと歩き廻った。
春の花見の岡の御所、秋の月見の浜の御所、
翌日は、福原の内裏にも火を放ち、主上以下一門は、そこから船で更に西へ落ちていった。