治承二年の正月がやってきた。宮中の行事はすべて例年の如く行われ、四日には、高倉帝が院の御所にお出でになり、新年のお喜びを申し上げた。こうして表面は、いつもながらの目出度い正月の祝賀風景が繰りひろげられていたが、後白河法皇の心中は、内心穏やかならぬものがあった。成親はじめ側近の誰彼が、殺されたり流されたりしたのは、つい去年の夏のことである。その生々しい光景はまだ、昨日のできごとの様に、まざまざと心に
一方、清盛の方でも、
正月七日、突如、東方の空に
清盛の娘で、当時中宮であった建礼門院は、病床に伏していたが、秘法、妙薬の甲斐もなく、病状は一向はかばかしくなかった。国中あげて、病気回復を祈っていたが、これが、やっと妊娠のためだとわかったのである。時に天皇十八歳、中宮は二十二歳、もちろん初産である。平家一門の喜び方は大変だった。
「これで、皇子誕生となれば万々歳じゃ」
とまるで既に皇子が誕生でもしたかのように、勇み立っていたし、世間でも、
「勢に乗ってる平家のことじゃ、皇子誕生も間違いなかろう」
というのが、一般の噂であった。
ご懐妊の事実がはっきりしてくると、今度は前以上に、国の全力を挙げて皇子誕生の祈祷が行われることになった。
ありたけの高僧貴僧が呼び集められ、秘法の限りを尽すことになった。星を祭り、仏や
月が進むに従い、中宮の苦しみ方は、傍のみる目も痛わしかった。一度び笑えば
ところで悪いことには、悪いことが重なるもので、唯でさえ衰弱している中宮に、またしても
清盛は即座に沙汰を下すと、崇徳院には、追号を捧げ、崇徳天皇とし、頼長には、贈官贈位で太政大臣の贈位をし、勅使として
その他さまざまの怨霊慰撫が行われたが、このことを聞いて、
「中宮の御産のため様々のお祈りをなされていると聞きますが、何と申しましても、特赦にまさるものはないと思います。中でも、鬼界ヶ島の流人をお召し寄せになったらいかがでしょうか?」
重盛も
「門脇の宰相が逢うたびにいろいろお嘆きになるので、気の毒なのですが、何でも近頃、中宮に物の怪がおつきになったとか、中には成親卿の死霊もあるとか聞いております。就きましては、死んだ者の霊を慰めるためにも、生きている少将を呼び返してやるのが、一番かと思います。父上、人の思いをかなえてやれば、自分の願いも達するとよく申すではありませんか、人の願いを聞き届けてやれば、必ず我らの望み通り皇子ご誕生間違いなしと思いますが」
さすがにいつもの清盛にも似ず、重盛の言葉に一々うなずいていたが、言葉も柔らかく聞き返した。
「お前のいう所はわかった。だが俊寛と康頼はどうする?」
「それも同じことでお許し下されるのが至当でしょうな。一人でも残したら、かえって罪作りなことと思いますが」
「さよう、康頼はまあよかろう、しかし俊寛は」
いままで穏かであった清盛の言葉が、次第に激しい口調に変ってきた。
「きゃつはいかん、断じていかん、あいつは、わしの手で一人前にしてやったのに、それでいて、しゃあしゃあと裏切りおった。自分の山荘に人を集めて謀叛を企んだ憎い男だ。何かにつけて、人をあざむこうとした恩知らずだ。あの男を許すことなぞ、駄目だ。どうあっても駄目だ」
これ以上説いても無駄なことだと知った重盛は、そのまま黙って前を引き下ると、早速宰相にこの嬉しい知らせを告げた。
「どうやら、少将はご赦免になりそうですよ」
「えっ、それは本当?」
早くも宰相は涙声であった。
「あの子が島に行く時も、これしきのことで、何故、申し請けできないのかと言いたげに、私を見て泣いていた顔が忘れられないのです。それにしても何と嬉しいお知らせ」
「子は誰しも、可愛いものですよ。とにかく父にはよくよく申しておきましょう。もうご心配にならない方がよろしいでしょう」
と重盛は慰めるのであった。
鬼界ヶ島流人赦免のことは正式に決まり、清盛から
大赦の御使、
「都から流された平判官康頼入道、丹波少将殿はおらるるか」
供の者もこれに和して、口々に尋ねたが、しばしは波の音がこれに応えるばかりであった。
というのも、康頼と少将の二人は例の熊野詣に行っていたからであったが、ただ一人俊寛は小屋のほとりに寝そべったまま、一人京の街をおもい、故郷の寺の山々に思いをはせていた。人の声もまれで、耳にするのは、風の音、波の音、時折り島を渡る海鳥の叫びぐらいで、近頃物音に無関心になっている俊寛の耳に、海辺から人の叫び声が伝わって来たのである。
「これは夢にちがいない。寝ても覚めても京の都のことばかり思いつめていたための
と一人わななきながら
俊寛が使いの丹左衛門尉基康の姿を認めるのと、流された俊寛は私だ、と叫ぶのと同時であったが、彼自身、現にあることが、事実か幻か、判別出来ぬ有様だったのである。
漸く落ちついた俊寛の前に、清盛の大
「重罪は今までの流罪によって許す。都に早く帰ることを考えよ。このたび、中宮の安産のお祈りによって、大赦を行なう。故に鬼界ヶ島の流人、少将成経、康頼法師の両人赦免」
だが俊寛の名はどこにもなかった。目を血走らせた彼は、赦文の包み紙をひったくるようにして見た。やはり彼の名はなかった。半狂乱になって赦文を隅々まで探したが、求める二字はなかったのである。今こそ俊寛は、これが幻であれと心の中で叫んだであろう。
やがて姿を見せ、ことの成行きを承知して喜色を浮べた幸運の二人、少将、法師の姿も俊寛には見えなかった。彼の欲したのは、ただ二つの文字、俊寛の名前だけであった。同情した二人が共に俊寛の名前の空しい捜索を手伝ったが、結果は同じことであった。何より彼を絶望させたのは、後の二人に縁者から手紙言づけの類が山程あったのに、彼には全くなかったことである。
夢から覚めた、いや現実からさめた俊寛の胸には、おれの親類縁者は一人も都にはいないのかという思いが湧き上がってきた。やがて、すべてに見離されたと知った俊寛の口から絶望の声がもれたのである。
「一体、この三人は同じ罪なのだ。流された所も同じなら、罪の重さも同じはずだ。おれ一人ここに残すというはずはないのだ。平家が思い忘れたか、赦文を書いた役人の書き間違いか、これはどういうことなのか、おれにはわからん」
狂ったように泣く俊寛の両手には、浜のぬれた砂がつかまれた。
やおら身をおこした俊寛は、丹波少将の
「俊寛がいまこんな有様になったのも、あなたの父の謀叛からじゃ。あなたも知らぬ顔はできぬはずじゃ。頼む、許されぬとあらば都とまでは言わぬ、せめてこの船で日向か薩摩の地まで連れて行ってくれい。あなた方が島にいればこそ、時には故郷のことも伝えきくことができた。今わし一人になったら、それもできなくなるのじゃ」
俊寛は少将の袂をつかんで離さぬ。袂が島と本土とむすぶただ一つの橋のように、彼は両手でつかんでいた。俊寛に口説かれた少将は、もともと気性の優しい人だけに涙ぐみながら、何んとかこの男に希望を与えようとして懸命に慰めた。
「まことにご尤もの話しと思います。われら二人が召し帰されるのは嬉しいが、あなたを見ては行くに行かれぬ気持です。お言葉通り、船に乗せてお連れしたいが、上使の方が、それはだめじゃと、それ、さきほどからくり返して申しておらるる。許されもしないのに三人一度に島を出たと知れたならば、こんどはひどいお
言葉をつくした少将の慰めも、俊寛の耳には入らなかった。何んとしても帰りたい一心の彼は、船に飛び乗って、京に帰るのじゃ、と叫んだかと思うと、波打際に飛び降りては、潮を浴びたまま、連れて行ってくれいと号泣するのであった。
帰京の喜びに出発の準備も弾む少将、法師も、さすがに哀れに思わざるを得なかった。乏しい持物の中から、二人は形見を残してやった。少将は夜具、法師は「法華経」である。
やがて船出の時が来た。ともづなが解かれ、船は押し出された。一行をのせた船は漕ぎ出された。
だが、俊寛はともづなから離れなかった。綱とともに海に入った俊寛の腰から胸へと波が洗っても、彼は船とともにいた。人びとの制止の声にもかかわらず、背が立たなくなれば、泳いで船にすがりついた。そして血を吐くような声で皆に頼んでいた。
「どうしてもわしを見捨てるのか。お願いじゃ、都とは言わぬ、九州のどこへでも連れて行ってくれい。日頃の情をかけて下され」
俊寛の叫びに耳をおおうようにした一行は、船にとりつく彼の手を払いのけて、ようやく漕ぎ出すことが出来た。
汀にもどったまま打ち倒れた俊寛は、泣き叫びながら、足ずりした。幼児が母親を慕って泣くように、俊寛は足を砂浜にすりつけて、
「わしを乗せてくれい、どうか連れていってくれい」
このくり返された叫び声は、白波を跡に沖へ漕ぎ出す船を何時までもとらえていた。
立ちあがって、船を探した俊寛の目は涙にくもって、何も見えなかった。
夢中で島の小山の頂に走った彼は、波のあいだに小さく消える船を見つけた。今や声もかれ、涙も果てた俊寛は、ただ両手を何時までも船に向って振りつづけるのだった。船が暮色の海に溶けるように薄れて消えると、鬼界ヶ島を夜が包んだ。一人になった俊寛には、今日一日のことが幻の様に思われる。抱きつづけていた夢が残酷な現実となった。打ちのめされた彼のさまよう足取は、何時しか運命の水際にきた。一人で苦しむより、むしろ、思いきって死のう、海に身を投げて命を捨てようと何度も考えた彼を、思いとどまらせたのは、かねてから優しい心をみせていた少将に僅かな希望を託した言葉であった。思いやりのある彼のことだ、京に帰れば有力者も身内に多いのだから、入道にも頼みこんでくれるにちがいない。そしておれも遅くとも来年には、などと、夜の浜に打ち伏したまま、星夜の中に京へのなつかしいおもいをたどるのである。
鬼界ヶ島を立った丹波少将らの一行は、肥前国
十一月十二日未明、中宮が産気づかれた。このうわさで京中はわき立ったが、御産所の六波羅の
これまでに、
中宮は、安産の
中宮の兄に当る小松大臣重盛は、良いにつけ、悪いにつけ、騒ぎ立てぬ性格であったが、今度の御産のときでも、大騒ぎが一段落してから、長男少将維盛以下の子息の車を続けて御産所に送られ、御衣四十かさね、銀剣七ふり、馬十二頭に引かせてこられた。
なお伊勢大神宮を始め、安芸の厳島神社など七十カ所余りに、神馬を寄進し、宮中にも御馬数十匹を奉った。
一方、有名な寺の高僧たちは、安産のためあらゆる秘法を動員して、最後の努力をはらっていた。すなわち、
ところで中宮の御産は、陣痛は続くのだが、難産である。なかなかご誕生にならない。つきそっていた入道清盛や奥方は、ただ胸に手を押しあてたまま、おろおろするばかりで、頼りにならぬことおびただしい。人びとが、うかがいを立てても、
「どうかうまくやってくれ、よいように急いでやってくれ」
と声をふるわすばかりであった。戦場なら、こんなみじめな思いはしないと、後程人に話したが、人の親清盛の
このご難産に、殿中でお祈りする者は、
「たとえ、どんな悪霊でも、この老法師がここにいる以上近づくはずはない。いまとりついている物の怪は、何れも皇恩で人となったのだから、物の怪に報恩の心はなくとも、
といわれると、今まで荒れ狂っていた物の怪もしばしはしずまったのである。さらに、
「女人の難産にも、心をこめて
と、水晶の数珠を取りだして押しもむと、中宮はご安産であったばかりでなく、産れたのは皇子であった。
「ご安産です。皇子ご誕生ですぞ」
とみすの中から躍るように出て来て、喜び声で高らかに告げたのは
清盛は嬉しさのあまり、声を立てて泣いたという。
「天を父とし、地を母と定め給え。ご寿命は不老長寿の仙人のように保ち給え。御心には天照大神入らせ給え」
そして古式に従って桑の弓に
乳母には、平大納言時忠の奥方が選ばれた。これは後に
法皇はやがて、御所へ還御になったが、清盛は余りの嬉しさに、お土産にと、砂金一千両、富士綿二千両を進呈したのは、今までに類のないことだけに、人々に異様な感じを与えたようである。
今度の
一番面白かったのは、清盛の日頃に似合わぬあわて方であった。重盛は、例によって、少しも騒がないところは立派だったが、気の毒だったのは、宗盛が奥方を難産で失い、職を一時やめて引こもってしまったことである。この奥方は、最初、皇子の乳母になる予定の人であっただけに、突然の逝去は惜しまれた。
面白い話では、七人の
とにかく今度のお産には、その他いろいろ不思議なこともあったが、その時はたいして気にもならなかったことが、後から考えると、成るほどと思うことが多かった。
公卿殿上人は続々お産のお祝に、清盛邸へ集り、その時不参の人々も後からもれなく、お祝に集ったようである。
中宮
中宮の体も、ようやく元通りになったので、中宮はふたたび六波羅から内裏に帰られた。
中宮に皇子が生れることは、中宮の入内当初からの清盛夫婦の夢であった。
「いつか、皇子が誕生し、御位におつきになったそのときは、外祖父、外祖母じゃ、どうか早く皇子がお生れにならんものかのう」
この願がかなって、目出度く男子出生したのも日頃信心深い厳島の賜物かも知れなかった。平家の厳島信仰の始りは、清盛が安芸守時代にさかのぼる。まだ鳥羽院の御時、高野の大塔の修理を仰せ付けられ、六年がかりでそれを完成した。清盛が、大塔を拝み、奥の院に行くと、どこからともなく、眉の白い俗人離れのした老僧が現れ、暫く話をするうちにこんなことを言った。
「この山は、真言密教の聖地として連綿として続いておる名山じゃが、安芸の厳島、越前の
そのまま、すたすた歩きだした老僧を不思議な事をいう人かと思って、跡をつけていくと、忽ち見えなくなってしまった。
「さては、弘法大師であったのか」
いよいよ不思議な念に捉われた清盛は、高野山の金堂に
都に帰った清盛は、事の次第を早速、報告した。鳥羽院もひどく感動され、清盛の任期を延長して厳島の修理に当らせた。
鳥居を立て替え、社を新築し、百八十間の廻廊も造った。修理が済んで、清盛が厳島に参籠していると、ある晩、御宝殿の戸が開いて美しい少年が現れ、
「大明神の使いで参った者ですが、この剣をもって全国を鎮め、朝廷をお守りするようにとのお告げです」
と銀の
「いつぞや、老僧を以て言わせたことを忘れるではないぞ、但し御身に悪行あらば栄華は一代限り」
というのであった。以来、厳島は平家一門の護り神の様にされているのである。
白河院がまだご在位の時、関白藤原
「賢子の中宮の御腹に皇子誕生を祈祷してくれまいか、願いのかなった暁は、恩賞は望み次第じゃ」
「お安いご用でござります」
頼豪は三井寺に帰ると、百日の間、心をこめて祈り続けた。やがて百日の内に、中宮にご懐妊の徴候が現れ、
主上の喜びは殊のほかで、早速頼豪を招いた。
「そなたのお陰で、皇子が生れた。約束通り恩賞をとらそう、何なりとも望みの物を申せ」
「ほかに望みはございませんが、山門にある
「何? 戒壇と? それだけは以てのほかのことじゃ、高位高官は望みのままとらそうと思っていたが、そのことばかりは許されぬ。皇子ご誕生を願ったのも、やがて朕のあとをついで即位し、世の中が今迄通り平和にという思惑からじゃ。それをそなたのいうように、三井寺に戒壇を建立いたさば、山門の憤りは火を見るより明かである。やがては、両門の合戦に及び、世は騒然として、天台の仏法も滅びるようなことがあっては困るのじゃ」
といって遂に許されなかった。
頼豪は口惜しがって、飢死をする覚悟で、三井寺で断食を始めた。これには主上も驚かれて、かねて頼豪とは師弟関係を結んでいた、
匡房が頼豪の断食の場所に行ってみると、うす汚れた持仏堂の中から、頼豪の陰にこもった恐ろしい声が聞えてきた。
「天子の言葉には戯れはないと聞いておった。一度び口に出した言葉は二度と戻らぬことをご存じか? それ程の望が叶えられないというのなら、わしの祈りも今では無駄じゃ。わしが祈って生まれ出た皇子なら、もう一度、連れ戻すのもわしの勝手、皇子は頂戴して、私も魔道にいくつもりじゃから、帰ってその様にお伝え申せ」
といったまま、とうとう逢おうとしなかった。頼豪は、予定通り飢死したので、主上はどうなることかと気をもんでいるうちに皇子は病の床に就いてしまった。お祈りも様々にさせてみたが、いつでも、皇子の枕元に白髪の老人が
主上の嘆きは、またひとしおであったから、今度は、後に山門の座主になった
「折角授かった皇子を、頼豪のために失ってしまったが、何かよい思案はないか?」
「そもそも三井寺にお頼みになったのがまずうございました。始めから山門にお頼み下されば、こんな事にもなりませんでしたのに、
といって比叡山に帰り山王大師に百日祈願したところが、再び中宮はご懐妊、お生れになったのが堀河天皇である。
このように、
同じ年の十二月八日、皇子は東宮に立ち、東宮輔佐は小松内大臣重盛、東宮大夫は池中納言頼盛が任ぜられた。
宰相の領国鹿瀬庄で、暫く休養していた成経は、ようやく体力も元通りになり、そろそろ気候もよくなってくるので、都に帰る事を思い立った。治承三年正月下旬、肥前鹿瀬庄を海路出発した。早春とはいえ、まだ海は荒れ模様で、島伝い浦伝いの航路を続けて、備前の児島に着いたのが、二月の十日頃であった。父成親ゆかりの場所、有木の別所は、ここから程近い。今は遺跡となった住家を訪ねてみると、障子や唐紙には、成親がつれづれのままに書き記したあとが残っていた。
安元三年七月二十日出家、同二十六日、
又、側の壁には、「
「これ程ありありと、当時を偲ばせてくれる形身があるであろうか、もし父上が書きおいて下さらなければ、何もわからなかったかも知れない」
ありし日がそのまま
成親の墓は、およそ墓というには余りにも貧弱な、唯少しばかり土が盛られてあることでそれと知られるだけであった。
少将は堪えられなくなって土の上に膝をつくと、まるで成親が傍らにいるでもするかの様に語りかけるのであった。
「都を離れた所で、帰らぬ人になってしまわれたことは、風の便りで聞きましたが、何せ自由にならぬ島暮し、直ぐにもお傍に急ぎはせ参じたいと思いつつ、とうとう、これまで打ち過ぎてしまいました。この度どうにかこうにか生き長らえて、再び都の土を踏むことになった嬉しさは格別ではございますが、父上が生きておいでで、お目にかかれると思えばこそ、命を長らえていたわけでございますが、この様なおいたわしいお姿になってしまっては、私も、都へ急ぎ上ろうという気もなくなってしまいました。それにしても、余りに情ないことでございます」
さめざめと涙を流し、いろいろにかき口説くのだが、
年月は経っても忘れられぬものは、年頃、育ててくれた父母の恩であり、今更に、夢、幻の如く思い出され、尽きぬ恋しさばかりが残るのである。
それにしても、これ程迄に父を想う少将の心が、亡き成親の霊に通じないはずはあるまい。
「まだまだ、念仏もいたし、お側にもおりたいのですが、都には、母上始め待つ者も多くございますので、又必ず参ることにいたします」
と、そこにある人の如くに暇を告げると、泣くなく出立したのである。
三月十六日、少将は鳥羽に着いた。ここには、成親の山荘である
苔むした庭園は、人の訪れもないらしい。池のあたりを見廻すと、折柄春風に小波が立ち、
庭のそこここにはまだ春の花が乱れ咲いていた。主人の留守の間にも、花だけは、春を忘れず咲き誇っていたのであろう。ふと少将は知らずしらずのうちに、古い詩歌を口ずさんでいた。
ふる里の花の物言う世なりせば
いかに昔の事を問わまし
いつまでも名残尽きぬ荒れた邸に、いつか月が昇ってきていた。破れ果てた軒の間から、月の光はいたるところに射しこんでくるのである。離れ難い思いが少将の心をとらえるのだった。しかし都では、迎えの乗物を持って待ちわびている家族たちがあった。少将は名残惜しさに泣くなく洲浜殿を出て都に向った。都が近づくにつれて、さすがに喜びはかくせなかった。と同時に康頼との別れも近づいている。康頼にも迎えの乗物が来ているのに、康頼は少将の車から中々降りようとしなかった。七条河原迄来ても、まだついてきた。花の下で遊んだ半日の客、月夜の宴で一夜を語った友、雨宿りに立ち寄った一樹の下の友、そんな短い友情でさえ別れる時は何かと名残り惜しいものなのに、康頼と少将は、二年間、それも荒れ果てた孤島で、うれしいにつけ、悲しいにつけ、同じ罪業を背負って暮した仲間である。別れ難いのも
少将は、
「あれは?」
と尋ねた。すぐさま六条が、
「あの方こそ、御下向の時」
といったまま、袖に顔を押しあててあとが続かない。少将も漸く気がついて、
「あの時、腹にいた、そういえば奥がひどく苦し気で、気がかりであった」
といってやっと思い出した。
「よくぞ丈夫で大きくなったものじゃのう」
と又ひとしお感慨深げであった。
少将は再び院に仕え、宰相中将に上った。康頼は、東山
ふる里の軒の板間に苔むして
思いしほどはもらぬ月かな
思いしほどはもらぬ月かな
都に帰ってからの康頼の所感である。
たったひとり、鬼界ヶ島に取り残された俊寛が、幼い頃から可愛がって使っていた有王という少年があった。鬼界ヶ島の流人が大赦になって都入りをするという話を伝え聞いた有王は、喜び勇んで鳥羽まで出迎えにいった。「どんなにおやつれになってお帰りだろう、随分辛いことだったろうなあ」
あれこれ考えているうちに、鬼界ヶ島の流人らしい一行が到着した。見送り人のごった返す中で、有王は、俊寛の姿を探し求めたが、それらしい人の姿は見当らなかった。有王は次第に不安と焦燥を覚えながらも、「そんなはずはない、そんなバカなことはない」と自分にいい聞かせながら、一人一人の顔をのぞきこむようにして探した。何度探しても結局は、無駄であった。俊寛らしい人の影はみえないのである。
「もし、一寸お尋ねいたします」
思い切って有王は、人に尋ねてみようと決心した。
「今日ご大赦のあった鬼界ヶ島流人のうちの一人、俊寛僧都のご消息をご存じではありませぬか?」
「あの方はな、まだ罪が許されずに、島に残されたという話じゃよ」
「それは、真実のことでございますか?」
「お前様には気の毒なようだが、本当のことらしい。係りの役人もそういっておったようでのう」
有王は、すっかりがっかりして、疲れた足を引きずって京に戻ってきた。
それから有王の六波羅通いが始まった。もしやご赦免のお沙汰でもないかと、六波羅の邸のあたりをうろうろしたり、人の話に聞耳をたてたりした。しかし、一向に赦免の様子もなく、日が過ぎていった。
ある日、有王は決心した。「このまま、べんべんと六波羅の許しを待っていたのでは、いつになるかわからない、ひとつ、自分が訪ねて行ってみよう」
思い立つと、有王は直ぐに、俊寛の娘が一人でそっと隠れ忍んでいるところにいって、自分の決心を語った。
「この度のご大赦には、何とも残念な事、僧都お一人お許しが出ず、その後もいろいろ調べてみましたが、当分ご赦免の様子もありませぬ、そうとなれば、私が、何とかして島に渡り、お行方をお尋ねして参りたいと思います。就きましては、姫君自らのお文を頂戴できれば、どんなにかお喜びになりますことか」
姫の手紙をしっかり
四月の末であった。
苦しい旅路を続けて、どうやら
「もしや、このあたりに都から流された
法勝寺だの、執行だのといっても、馬の耳に念仏で、ぽかんとして、みんな有王をみていた。島の人の一人が、それでも漸く話が解ったらしい。
「さあてねえ、そんな人は三人いたようだがなあ、何でも二人は都へ
とそれだけ教えてくれた。
今は有王が独力で探す以外に方法がなかった。有王は、山から山、峰から峰へと渡り歩き、終日、俊寛の姿を尋ね求めた。しかし影すらも見当らない。再び浜辺に戻ってきた有王は、暫しぼうぜんと沖の方を眺めてはため息をついた。ここまで尋ねてきて、逢わずに帰るのは、何としても残念であった。たとい、今はこの世の人でなかろうと、有王は一目、俊寛の姿をみたいと思ったのだ。人の姿も恐れずに砂浜に遊びたわむれる、鴎や沖の浜千鳥でもいいから、俊寛の行方を知らせてはくれまいか、有王はつくづくそう思ったのである。
ある朝であった。有王は来る日も来る日も、まだ諦め切れずに俊寛を求めて探し歩いていたのだが、磯のあたりを、よろよろしながら歩いている、かげろうのようにやせ細った人影に出逢った。頭の具合からみると昔は坊主だったのかも知れないが、髪の毛は伸び放題に伸び、藻くずだか、それとも、ごみだかわけのわからぬものが一杯ついている。着ている物といったら、絹か布かの区別どころか、ようよう身を掩っているという感じで、骨と皮ばかりのたるんだ肉体が、ところどころからのぞいている。片手にはあらめを、片手には魚を下げて、歩いているとはとてもみえない。よろよろと地上をはうようにしてやってくるのである。
「都で、ひどい乞食はいろいろ見たことがあるが、こんなにひどいのは始めてじゃ、まさか、餓鬼道へ迷って来たわけでもないのに」
有王は、その乞食をやり過そうとして、ふと思い直した。「こんな者でも、もしかして、お
「一寸お尋ねしたいのですが」
「何事?」
「もしや、都から流されてきた法勝寺執行、俊寛僧都のお行方をご存じありますまいか?」
聞きもやらず、乞食は、まじまじと有王の顔をみつめた。
「おれじゃ、おれじゃあ、俊寛は」
途端に彼は、手に持っていた物を投げ捨てるとその場に倒れ伏してしまった。
さすがに、有王も
「有王でございます。有王が来たのです。はるばる苦しい旅を続けながら、貴方さまに逢いたいばかりにやってきたというのに、どうか、お気を確かにして下さい。この有王を見て下さい」
暫くして、次第に生気を取り戻した俊寛は、もう一度、有王の顔を
「本当だろうか、本当にお前が来てくれたのだろうか、毎日毎夜、都のことばかり思いつめて、今では恋しい者の面影が、夢かうつつか、わからなくなってしまったのだよ。お前の来たのは夢ではないのか? 本当にお前が来たのか? 夢であったら覚めた後がどんなに辛い事か」
「僧都様、これは本当でございますよ。決して夢ではありませぬ。それにしても、よくこうやって生き長らえておいでになりました」
「まったくそうなんだ、お前のいうとおりだが、恥ずかしい話、わしは少将が島を去る時、よしなに取計うから待てといった言葉が忘れられなかったのじゃよ。おろかなものでのう、その一言に、もしやと頼みの綱をかけ、一日一日を生き伸びていたのじゃ、何せ、ここは食い物のないところで、わしも丈夫な折は、山にのぼって
「家?」
有王は思わず聞き返しそうになるところを、ごくりとつばをのみこんだ。この有様で家を持っているというのが、どうしても信じられなかったのである。
しかしやがて、松林の中に案内されて、家の前に立った時は、余りのみすぼらしさに胸が一杯になってしまった。
家とは名ばかりの、竹を柱とし、葦を横木にわたし、床と屋根を松葉で覆った、それだけの住居であった。これでは、雨や風は吹き放題漏り放題、どうやって雨風をしのいでいるのかと思われた。それにしても、かつては、法勝寺の事務職で八十余カ所の荘園を管理し、四、五百人の家来に取りかこまれて、気ままな生活を楽しんでいた人のなれの果てにしては余りにもみじめであった。
しかし、俊寛も漸く、有王の来訪を現実の事と覚って少しずつ話しを始めた。
「去年、少将や康頼入道に迎えの来た時にも、わしの所には、便りが一本もなかった。今、お前がこうやって訪ねてきてくれたのに、誰からも言伝てがないのか」
有王の顔が次第に曇って、みるみるうちに涙が一筋、二筋と、頬を伝わって流れ落ちてきたが、とうとううつ伏せになったまま泣き伏してしまった。俊寛は暗然たる面持ちで有王を眺めていた。一言も聞かぬ先から、彼は既に何事かがあったことを知ってしまったのである。有王は、暫くして涙を押えながら、途切れがちに話しはじめた。
「貴方様が、西八条にお召し捕られてあと、それは恐ろしゅうございました。直ぐに追手の役人共が参り、ご家来の方々はほとんど捕われ、いろいろに責めさいなまれ、
語る有王も、今は涙を拭おうともしなかった。俊寛は、じっとうなだれたまま、時々肩をふるわせている。
「姫御前お一人は、ご壮健にて、奈良のおば上の許においでで、この度もお文を頂いてまいりました」
有王が
「三人流されたうちのお二人はお戻りになったというのに、何故お父上はお帰りにならないのでしょう? 私が女の身でなかったら、とっくに父上のおられる島にまいりますのに、どうぞ有王をお供に一日も早くお帰り下さい」
まだ幼い筆跡の中にこめられた願が、痛々しかった。
「有王、どうじゃ、この文の子供っぽいこと、お前を供に早く帰って来いといいおるわい。わしの自由になる身ならば、何もわざわざ、こんな島に三年も暮しはせぬ。今年は確か十二になるはずだと思うが、こんなに聞き分けがなくては、行末が案じられるのう、これで人の妻にもなり、宮仕えもできるのだろうか?」
こんな逆境にあっても、やはり人の子の親である。娘の身を気遣う親心の悲しさである。
「この島に流されて、暦もないまま、自然の移り変りを数えて
俊寛は以来、それまでも少量しかとらなかった食事をぱったりやめてしまった。
毎日を念仏だけを称えながら、やがて有王が島に来てから二十三日目、三十七歳で世を去った。
有王は、死骸に取りすがって、嘆き悲しんだが、
「後世のお供もいたしたいのですが、姫君の事も気にかかりますし、後世を弔う人もござりませんから、暫く生きてご菩提を弔いましょう」
と庵を焼いて、なきがらを

早速、姫君の所に行き、始めからのことをこまごまと話した。
「貴女様のお文は、くり返しくり返し読んでは、涙を流しておられ、一層、恋しい想いをつのらせていられたようで、お返事もどんなにかお書きになりたかったことと思いますが、
姫君は有王の話に、唯もう泣き伏して、声を立てて泣くのであった。
姫はそのまま、十二歳という幼ない年で尼になり、奈良の法華寺で念仏
有王は俊寛の骨を高野の奥の院に納めたあと、出家し、主人の菩提を弔うため、全国修行の旅に上った。
治承三年五月十二日の正午、京都につむじ風が起った。
東北の方から、西南の方角に吹いて、屋根や門は、四、五町から十町も吹きとばされ、
家屋の損失ばかりか、人畜にも多数被害があり、まさに地獄のつむじ風であった。
これは唯事でないと早速占いをたてたところ、
「高位の大臣に災難あり、ひいては天下の大事となり、兵乱
というご託宣であった。
その頃、丁度熊野に参詣した重盛は、一晩中、何事かを祈願していた。日頃から、平家の行末に、暗い予感を感じている重盛にとって、それは一身をかけた重大な祈りであった。
「父の清盛入道は、何かと悪逆無道を働き、法皇の心を悩まし、息子としては、精一杯諫言いたしておりますが、我が身が至らぬため思うようにまいりません。この様子では、父清盛一代の栄華さえ案じられる状態でございます。ましてや、子孫が相次いで繁栄などは以ての他の事かとも思われます。ここに至って私の思いますには、なまじ高位高官に列せられ、世の浮沈をなめるよりは名誉を捨て、官を退き、この世の栄誉を捨てて、来世の極楽往生を願った方がどんなに良いかとも思うのですが、凡夫の悲しさ、中々実行できません。願わくは、南無権現、金剛童子、清盛入道の悪心を柔らげ、子孫繁栄、朝廷にお仕えしていついつまでも天下に平和をもたらしめて下さい。もし又それがかなえられず、清盛入道一代の栄華に終るならば、この重盛の命をお取り上げになって、来世の
重盛が一心に祈っている最中、灯籠の火のようなものが、重盛の身から発したかと思うとぱっと消え失せた。見ていた者は多かったが、気味の悪さに誰も口には出さなかった。
参詣の帰りに岩田川を渡った時、嫡子維盛始め
「何で又、喪服めいた浄衣などお召しなのですか? 縁起でもない、お召し替えなされませ」
というと、重盛が軽く制して、
「私の願いが聞き届けられたのだろう、着替えるには及ばぬ」
といって、熊野にお礼の奉幣使を送った。人々は何の事かよくわからずに、おかしなことだと思っていた。
熊野から帰ると間もなく、重盛は病の床に就く身となった。もとより覚悟の前であるから、療治もされず祈祷も許さなかった。
その頃、宋から、名医といわれる医師がやってきて京都に滞在していた。福原にいた清盛は、使者を遣わして、この名医の診察をうけるようにとすすめさせた。
重盛は、使いの
「わざわざ、医療のためのお使い有難く思っておりますと、お伝えしてくれ。それから、もう一ついうことがある。それは醍醐天皇のことだ。醍醐天皇は、あれ程の賢主であったけれども、異国の人相見を都にお引き入れになったのは、大へんなお心得ちがいだったといわれている。まして、重盛ごとき凡人が、異国の医師を自分の屋敷の内に入れることは一門の恥ではなかろうか? 漢の高祖が
盛俊は、清盛に事の次第を言上した。すると清盛も重盛の志には感じ入ったらしく、
「これほどに国の恥を思う大臣は、未だ前例を知らぬのう。まして末世末代にあるべきはずはなし、この日本には不相応な立派な大臣じゃから、今度はきっと死なれるにちがいない」
といって急ぎ都にのぼった。
重盛は、七月二十八日、出家した。法名は
「入道相国が無茶なことをしても、この人のおかげで、何とか無事におさまってきたのに、これから先きはどうなることやら」
京の人たちは、みんな、ひそひそとつぶやき合ったという。
都の上も下も、一様に重盛の逝去を悲しんでいる中で、ひとりほくそ笑んでいたのは、前右大将宗盛の身内の人たちである。
「いよいよ、うちの殿様の天下じゃ」
と彼らは内心の喜びをかくせなかった。
重盛は、未来を予見する不思議な能力を持っていた。これは生前の話であるが、ある夜、重盛は夢を見た。場所ははっきりとはわからないが、どこかの浜辺を歩いていると、道の傍に大きな鳥居がある。「これは、どこの鳥居だろうか?」と道ゆく人に聞いてみると、春日大明神の鳥居ですと答えた。鳥居の周辺には、何やら人が集って騒いでいる。よくみると、その中に、坊主頭の首を高々とさしあげている男がいた。あの首は、一体誰のか、といって尋ねると、「これは、平家の清盛公の首じゃ、あまりにも悪行が過ぎ、当社の大明神によって、召し捕られたのじゃ」と答えるものがあった。その声に重盛が、はっと思ったとき、目が覚めたのである。しかし考えれば考えるほど、近頃の平家一門の思いあがり振りが気になって、中々寝つかれない。そこへ、ほとほとと、忍びやかに戸をたたく者があった。こんな夜更けに一体誰が来たのかと思って尋ねると、それは、
「今時分、一体何の用で?」
「されば、唯今、不思議な夢をみたもので、どうにも夜の明けるまで待っていられず、深夜と知りつつ参上仕りました。何卒お人ばらいを」
兼康の真剣な顔つきから、何事かを感じとった重盛は、人ばらいをしてから、彼が見た夢の話を残らず聞いた。それが驚いたことには、重盛が見た夢と寸分も違わぬものであった。重盛は、今更に平家の行末に思いをはせて深いため息をついたのである。
翌朝重盛が、院の御所へ出勤する維盛を呼び寄せると、
「親の欲目ということがあるが、そなたは、わが息子どもの中では、とりわけできのよい子じゃ、ゆくゆく、人に抜きん出て出世もいたすであろう。しかし近頃の世の中の様子では、この先どんなことがあるかもわからぬのう、そなたも苦労するであろう、こら誰かおらぬか貞能はいないか? 少将に酒を」
といって酒が運ばれてくると、重盛が三度うけ、続いて少将も三度飲み乾そうとしたとき、重盛が、
「少将への引出物をこれへ」
といった。重盛の言葉に、貞能がつと立って錦の袋に包んだ
「そんなに怒るものではない、それは貞能が悪いのではない。この私の心遣いなのじゃ、そなたも一目でおわかりのはずじゃが、これは大臣葬の時用いる無文の太刀じゃ。清盛公に万一の時があったら、この重盛が着用に及ぶつもりで、持っていた物じゃ。今、入道殿に先立つ身の私としては不必要な品、これをそなたに譲ろうと思うのじゃよ」
人生の宿命を観じとった父重盛の言葉に、維盛は返す言葉もなく涙ぐんでいた。
このことがあってから、熊野詣でがあり、重盛は間もなく帰らぬ人となったのである。
生前から、来世の幸不幸を案じていた重盛は、東山の麓に四十八
安元の頃、重盛は、九州から
「お前の正直を信頼して頼みがある。ここに大枚三千五百両の金がある。五百両は、そなたの使いに対するほんの志じゃ、あとの三千両を持って宋へ渡り、一千両は
妙典は、忠実に重盛の言葉を守り、宋に渡ると、育王山の方丈、仏照禅師徳光に逢い、重盛の言葉をつたえた。禅師は、はるばる万里の波濤を越えてやってきた奇特な信仰心に感激し、二千両を皇帝に奉り、事の子細を奏上すると、皇帝も喜んで、五百町の田地を育王山に寄進した。今日でも、育王山では未だに、日本の大臣、平重盛の後世を弔っているという。
重盛に先立たれて以来、清盛は福原の別邸に引きこもったまま、世間に姿を見せなかった。何かというと、清盛の行動を邪魔立てするうるさい重盛であったが、心の底から清盛のことを親身に考えている息子でもあった重盛が、遠く帰らぬ人となってみると、清盛には、彼のえらさ、立派さがつくづくわかるように思われてならぬのである。おのれとはまるで、異質の息子であり、考え方も随分と違っていた。しかし、親と子の間をつなぐ強い絆だけは、しっかりと結びついている。人の死など何とも思わない清盛が、重盛の死だけはよほど身にこたえたものらしかった。
十一月七日の夜、地震があった。不気味な地鳴りが鳴りやまず、人々は恐ろしさに身の縮む思いであった。
「この度の地震は、天下に大事の発生する前兆で、それも年内かこの月のうち、又もしくは今日のうちという切迫した事態でございます」
と言上した。内裏じゅうはこの予言に色を失い、あわてふためいていた。若い殿上人の中には、
「何をあのへぼ
などとあざ笑うものも多かった。
安倍泰親は、陰陽師として名声を博した晴明の子孫で、その予言の適確なことでは定評のある人だったから、彼のいうことに間違いがあるはずはなかった。
続いて十四日、
「清盛入道が数千騎をひきいて、朝廷に攻め寄せてくるそうじゃ」
という流言が京の町にひろがっていった。まことしやかなこの噂の出所はハッキリしなかったが、人心の動揺はいちじるしいものがあった。
関白基房も日頃平家には弱味がある身なので、この噂におびえた一人である。彼は早速参内して、
「このたび、清盛入道上洛の一件は、この基房を滅す計画のようでございます。どんな目に逢いますことやら、主上のお身の上も気がかりになってかけつけて参りました」
主上も、この基房の奏上には驚かれたらしい。
「そなたがひどい目に逢うのは、結局、朕の身を傷めつけることと同じじゃ、はてさてどうしたものかのう?」
とはらはらと涙を流されたのであった。
法皇にもこの清盛反乱の噂は耳に入っていた。うそにせよ、まことにせよ、現在の情勢で、清盛と対等に物がいえるのは、法皇一人ぐらいのものだったのである。法皇は、側近の
「最近の内外の情勢は、未だ予断を許さず、人心の不安は、いよいよ拡大する傾向にある。朝廷では世間の成行きすべてに就て、いろいろと心を悩ましているが、何くれと頼りにもし、力と頼んでいるのは、その方一人である。それが近頃は、天下の平和を心掛けるどころか、朝廷に向って弓を引くという噂さえあるのは、一体何事であろうか?」
清盛は、しかし使いの浄憲法印を、朝から夕方まで、待たせっ放しで逢おうともしないので、しびれを切らした法印は、使いの趣を
すると、「法印を呼べ」という清盛の声がかかったのである。清盛は法印を前に置いて
「法印御坊、わしのいい分も聞いてくれ、重盛の身まかったことぐらい、わしの心に打撃を与えたものは未だかつてなかったくらいだ。そなたもこの清盛の心持を察してくれるであろう。保元、平治の乱と、うち続いた天下の乱れが漸く治ったのも、実は重盛の
そこで清盛は一段と声を張りあげて、じろりと法印をにらみつけた。
「例の鹿ヶ谷の陰謀は、何と申し開きなされる。あれは単なる私事の
時には、かっと腹立たしげに顔を紅潮させ、時には又、ほろほろと涙を流して、かき口説く清盛を見ていると、法印は恐ろしさと同時に哀れさを覚えるのである。
浄憲は、鹿ヶ谷の会合にも、法皇のお供でしばしば出席していたこともあり、今又目の前でそのことを言われた時は、さすがに首筋がひやりとするほどの恐ろしさを感じ、このまま、あの事件の片割れとして、なわを打たれでもするのではないかとさえ思ったが、もとより豪気な気性の法印は、気を持ち直して清盛にいった。
「お言葉よくわかりました。しかし貴方様の功労の大なることは、法皇も常にお認めになっておられるところです。しかし、鹿ヶ谷の陰謀に法皇が荷担しておられるとは、これは全く、空々しい
おもねることなく、悪びれることなく、天下の勢力者、清盛の面前で、堂々と意見を開陳した法印の勇気は、後々までも賞賛の
法印からの話を聞かれた法皇は、もうそれ以上は何事も
十六日になって、突然関白基房始め四十三人の公卿殿上人に、追放の命令が下った。これは、かねがね清盛が考えてもいた事で、世間では当然予測されていたのだが、さすがに実際の命令が下ってみると、いささか無理押しの感じは免れなかった。
関白基房は、
「こういう世の中では、こんな目に逢うのも仕方がないことじゃ」
いさぎよい諦めの言葉にも、どこか割切れない淋しさが残っていた。年はまだ三十五の男盛り、礼智に長け、公平な物の観方で政治に臨んできた態度には、各界から異口同音の同情が寄せられた。基房の落着いた先は、備前国
大臣が流罪に処せられた前例は、今迄に六人程はあるが、現職の摂政関白で流罪となった例は今回が始めてであった。
基房の後任には、清盛の婿に当る二位中将基通が、破格の昇進で、大、中納言をさしおいて関白に任ぜられた。これ迄にもそのような事はままあったけれども、余りにも情実の見えすいた清盛独断の人事には、人々は苦い顔をしていた。
太政大臣師長は尾張国へ流罪と決まった。師長は、去る保元の乱にも土佐に流されており、その後、流された四人兄弟の内たった一人残って許されて帰京したのである。それからあとは、調子良く昇進を重ね、太政大臣の高位にまで上った人である。詩歌管絃、いずれおとらぬ風流人であったから、尾張国に流されても、専ら、月を友とし、風に心をうたい、琵琶を弾いたりしては、のどかな日々を楽しんでいた。
ある時、熱田明神に参詣し、熱心に琵琶を
名手の弾く琴には魚も躍りあがり、歌人の歌うを聞けば塵さえも動くといわれるが、師長の弾く琵琶にはまさにそのように、天地、大自然をも動かすほどの響きがこもっているのであった。
次第に夜も更けゆく中で、琵琶の音はますます冴えわたるばかりである。今は唯、我を忘れて秘曲を弾き続ける楽人、石像のように押し黙ったまま指一つ動かさず聞きいる村人たち、||この微妙な雰囲気はまさに絶妙といいたいほどで、とうとう、しまいには、宝殿がぐらぐらと震動したといわれている。やっと我にかえった師長は、
「平家のために流罪にならずばこの
と感激の涙をもらすのであった。
都では、免官される者も多く、重だったものでは、
関白基房の家来、
六波羅からは、源大夫判官季貞、摂津判官盛澄らが、武装兵三百騎を引き連れて押し寄せてきた。江大夫は縁に立ちはだかると、群がる敵をはったとにらみつけ、
「各々方、この場の様子、とくと六波羅に報告いたせ」
といい放つと、矢庭に館に火を放ち、親子揃って従容として腹かき切ったのであった。
多くの犠牲者を出し、四十余人もの人々が憂目を見た今回の事件も、発端はごく些細な出来事で、関白になった
「清盛入道の心は天魔に魅入られたのだろう」
「これからどんなことが起ることかのう?」
京の上下は恐れおののいているのである。
ところでここに
「はてさて、わからぬのう、このわしが十余年間何もしなかったことは確かじゃが、ひょっとすると、人の
考えれば考えるほど、突然の清盛の呼び出しは彼にとって謎である。北の方らも、
「どんな目にお逢いになりますことやら」
と袖を押えて、行くことをとめる始末だった。しかし清盛の呼出しが二度三度と重なってきては断わり切れなかった。行隆はやむなく決心すると、人から車を借りて西八条に赴いた。
不安な想いで、西八条の門をくぐった行隆は、思いもかけず丁重な扱いをうけ、待つ間もなく清盛にじきじきの目通りを許された。
「お父君には、清盛もいろいろ大事、小事を相談いたしたものじゃったが、そなたのことも決して忘れていたわけでなく、長年、官を離れていることも気になっておったが、法皇のご政務中は中々そうもいかなかったのだ。しかし、今は遠慮は不要じゃ、明日からでも出仕して下されい、官職のことは追って手配しましょう」
おだやかな顔に微笑まで含んでそういわれたときは、一瞬自分の耳を疑った。まるで夢を見るような思いで行隆は、とぶようにして家に帰った。
とても帰らぬと思っていた行隆が、生きていたばかりか、嬉しい知らせを持って帰ってきたので、家中は唯嬉し泣きに泣くばかりであった。
続いて清盛は、源大夫季貞を使者として、以後、支配する荘園を示させ、更に当座のまかないにと、馬百匹、金百両、米などを贈り、出仕の仕度にと、牛車、牛飼、
「夢ではないのか、夢ではないのか」
彼は、くりかえしつぶやいていた。翌日には、五位の
治承三年十一月二十日、清盛の軍勢は法皇の御所を取り囲んだ。
「平治の乱の時と同じように、御所を焼打ちするそうだ」という流言が広がって、御所の中は、上を下への大騒ぎとなった。
その混乱のさなかに、平宗盛が車をかって御所へやってきた。
「急いでお乗り下さい。お早く」
単刀直入の宗盛の申し入れに法皇も驚かれた。
「一体何事が起ったのじゃ、わしに何か過失があったとでもいうのか、成親や俊寛のように遠国へ流すつもりなのだろう? わしが政務に口を出すのは、まだ天皇が幼いからじゃ、それもいけないというのなら、以後、政治には関りはもたぬことにしよう」
「いや、そのことではないようでございます。とにかく、世の中が
「それならば、そなたが、そのまま
法皇の言葉に一瞬たじろいだが、それでも彼は供奉しようとはしなかった。この様子を見た法皇は、改めて亡き重盛の忠誠を思い浮べるのであった。
「やはり重盛とは格段におとった兄弟じゃわい。先年も、かような目に逢うところを、重盛の一身を賭しての諫言で、事なく済んだものだが、今や諫める者もいなくなれば、清盛の勝手だからのう」
とつぶやかれたのであった。
法皇は車に乗られたが、お供とは名ばかりで、数人の北面の武士と、
鳥羽殿に着くと、どうやってまぎれ込んだものか、
「何か、今夜あたり殺されそうな気がしてならぬのじゃ、ついては、行水などして身を清めておきたいのだが」
といわれた。唯でさえ、今朝からの出来事で気の転倒していた信業だが、法皇の仰せを有難くうけ給わると、早速、そのへんの垣根を壊して薪を作り、釜に水をくみ入れて、即製の行水をつくった。
一方、法皇の近臣の一人、例の浄憲法印は、臆する色もなく一人で西八条の邸に出かけ、
「法皇が鳥羽殿へ行幸と伺いましたが、聞けば、人一人御前にはおらぬとのこと、余りのことと思いまする。私ひとりがお傍にいても別に差し障りがあろうとは思えませぬ。是非、お側にまいりたいと思いますが」
といった。
法印にはかねがね好感を抱いていた清盛は、
「貴方ならば誤ることもないわ、早く行きなさい」
と異例のお供を許したので、法印は鳥羽殿に飛んでいった。
法皇は、乳母の二位殿を横に坐らせて、お経を読んでおられたが、読みながらも、とめどなく涙を流しておられる様子に、法印もつい貰い泣きをしてしまった。
二位の尼御前が、
「法印殿、法皇様には、昨日の朝、御所でお食事を召し上ってからは、夕べも今朝も召し上らず、夜分もお休みにならず、これではお命にかかわること故、心配いたしておりますのじゃ」
と心細そうにいった。
「いやいや、平家も楽しみ栄えて二十余年、そろそろ限りのくる頃と思えます。まして、天照大神、正八幡、ましてや、ご信仰厚い
と面に誠を現して慰める法印の言葉に、法皇の顔にも、漸くほっとした思いが立ち戻られた様子であった。
主上は、関白の流罪からこの方、引き続いた多くの殿上人の災難をひどく気に病んでおられたところへ、法皇が鳥羽殿にお移りになったと聞いて以来、食事もろくろく
夜になると、臨時のご神事と称し、清涼殿でひたすら法皇の無事を祈られるのであった。
その頃
「かような世になりましては、天皇の位にあっても何の意味がありましょうか? むしろ宇多法皇、花山法皇の例にもならい、出家して山林流浪の行者にでもなろうかと思います」
法皇はこれに対して直ぐお返事をおつかわしになった。
「余りそのようにはお考えにならない方がよろしいでしょう。貴方がそうやって御位に即いていられるのも、私にとっては一つの頼みなので、
主上は法皇の返書を顔に押しあてて、涙ぐまれるのであった。
ご信任厚い公卿殿上人も、今は、死んだり殺されたりして、古くからお仕えする人で残っているのは、
二十一日、天台
ようやく思い通りに事も運び、関白には娘婿が就任し、後顧の憂いなしと見た清盛は、
「政務は主上のよろしいように」といって福原に引きこもってしまった。
宗盛がこの事を主上に言上するために参内すると、主上は、
「法皇自らがお譲り下されたものなら、喜んで政務も見ようが、そうでもないものには関りは持ちたくない。関白とお前とで好きなようにやるがよかろう」
という素気ないご返事であった。
雪の降りつもった庭には訪れる人もなく、水の[#「水の」はママ]張りつめた池には鳥の羽ばたきも聞えなかった。
何かにつけて思い出すのは、盛んなりし頃のいろいろのお遊び事、ご参詣の行事、又
そんな明け暮れのうちに、いつしか治承三年も暮れて、新しい年がやってきた。