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現代語訳 平家物語

第三巻

尾崎士郎訳





 治承二年の正月がやってきた。宮中の行事はすべて例年の如く行われ、四日には、高倉帝が院の御所にお出でになり、新年のお喜びを申し上げた。こうして表面は、いつもながらの目出度い正月の祝賀風景が繰りひろげられていたが、後白河法皇の心中は、内心穏やかならぬものがあった。成親はじめ側近の誰彼が、殺されたり流されたりしたのは、つい去年の夏のことである。その生々しい光景はまだ、昨日のできごとの様に、まざまざと心によみがえってくる。その事をおもい出すごとに、法皇の胸には、清盛に対する、いや平家に対する憎悪の念が、いやましにひどくなってゆくのである。諸事万端、物憂く、政事まつりごともつい投げやり勝ちな日が続いていた。

 一方、清盛の方でも、多田蔵人ただのくらんど行綱の密告をうけてからというもの、ぬかりなく法皇の周囲に対する監視を怠らなかった。表面だけ鷹揚おうように構えてはいるが、どうして、どうして、清盛の鋭く光る目は、院の御所に向ってひときわ、きびしい光を見せるのであった。

 正月七日、突如、東方の空に彗星すいせいが現れ、十八日には、光が一段と増した。

 清盛の娘で、当時中宮であった建礼門院は、病床に伏していたが、秘法、妙薬の甲斐もなく、病状は一向はかばかしくなかった。国中あげて、病気回復を祈っていたが、これが、やっと妊娠のためだとわかったのである。時に天皇十八歳、中宮は二十二歳、もちろん初産である。平家一門の喜び方は大変だった。

「これで、皇子誕生となれば万々歳じゃ」

 とまるで既に皇子が誕生でもしたかのように、勇み立っていたし、世間でも、

「勢に乗ってる平家のことじゃ、皇子誕生も間違いなかろう」

 というのが、一般の噂であった。

 ご懐妊の事実がはっきりしてくると、今度は前以上に、国の全力を挙げて皇子誕生の祈祷が行われることになった。

 ありたけの高僧貴僧が呼び集められ、秘法の限りを尽すことになった。星を祭り、仏や菩薩ぼさつには、皇子誕生のことばかりを祈願した。六月一日は、岩田帯の儀式があった。

 仁和寺にんなじ御室みむろ守覚しゅかく法親王が参内、孔雀経くじゃくきょうの法で祈り、天台座主覚快かくかい法親王も揃って祈祷した。これは変成男子へんじょうなんしの法という秘法で、胎内の女児を男児に変成するものである。

 月が進むに従い、中宮の苦しみ方は、傍のみる目も痛わしかった。一度び笑えば百媚ひゃくび生ずといわれた美貌も、すっかりやつれ果て、長い黒髪をがっくり横たえて、頭を上げるのもやっとというその姿は、まさに、梨花りか一枝いっし春雨はるあめぶ、という風情であった。

 ところで悪いことには、悪いことが重なるもので、唯でさえ衰弱している中宮に、またしてもものがとりついたのである。童子に物の怪を乗り移らせて占ってみると、多くの生霊、死霊が、取りついていたことがわかった。とりわけその内でも執念深いのは、去る保元の乱に讃岐に流された崇徳院すとくいんの霊、同じく首謀者、左大臣頼長、新しい所では、新大納言成親、西光、それに鬼界ヶ島の流人の生霊などであった。

 清盛は即座に沙汰を下すと、崇徳院には、追号を捧げ、崇徳天皇とし、頼長には、贈官贈位で太政大臣の贈位をし、勅使として少内記惟基しょうないきこれもとが派遣された。

 その他さまざまの怨霊慰撫が行われたが、このことを聞いて、門脇かどわき宰相さいしょうは早速重盛を訪ねた。

「中宮の御産のため様々のお祈りをなされていると聞きますが、何と申しましても、特赦にまさるものはないと思います。中でも、鬼界ヶ島の流人をお召し寄せになったらいかがでしょうか?」

 重盛ももっともなことだと思ったから、直ぐ清盛の前にまかり出た。

「門脇の宰相が逢うたびにいろいろお嘆きになるので、気の毒なのですが、何でも近頃、中宮に物の怪がおつきになったとか、中には成親卿の死霊もあるとか聞いております。就きましては、死んだ者の霊を慰めるためにも、生きている少将を呼び返してやるのが、一番かと思います。父上、人の思いをかなえてやれば、自分の願いも達するとよく申すではありませんか、人の願いを聞き届けてやれば、必ず我らの望み通り皇子ご誕生間違いなしと思いますが」

 さすがにいつもの清盛にも似ず、重盛の言葉に一々うなずいていたが、言葉も柔らかく聞き返した。

「お前のいう所はわかった。だが俊寛と康頼はどうする?」

「それも同じことでお許し下されるのが至当でしょうな。一人でも残したら、かえって罪作りなことと思いますが」

「さよう、康頼はまあよかろう、しかし俊寛は」

 いままで穏かであった清盛の言葉が、次第に激しい口調に変ってきた。

「きゃつはいかん、断じていかん、あいつは、わしの手で一人前にしてやったのに、それでいて、しゃあしゃあと裏切りおった。自分の山荘に人を集めて謀叛を企んだ憎い男だ。何かにつけて、人をあざむこうとした恩知らずだ。あの男を許すことなぞ、駄目だ。どうあっても駄目だ」

 これ以上説いても無駄なことだと知った重盛は、そのまま黙って前を引き下ると、早速宰相にこの嬉しい知らせを告げた。

「どうやら、少将はご赦免になりそうですよ」

「えっ、それは本当?」

 早くも宰相は涙声であった。

「あの子が島に行く時も、これしきのことで、何故、申し請けできないのかと言いたげに、私を見て泣いていた顔が忘れられないのです。それにしても何と嬉しいお知らせ」

「子は誰しも、可愛いものですよ。とにかく父にはよくよく申しておきましょう。もうご心配にならない方がよろしいでしょう」

 と重盛は慰めるのであった。

 鬼界ヶ島流人赦免のことは正式に決まり、清盛から赦文ゆるしぶみを貰った使者の一行は都を立っていった。宰相は余りの嬉しさに、自分の使いも一緒に旅立たせた。夜を日についで急ぎの旅を続けたが、何しろ道は遠いし、七月下旬に都を出て、島に着いたのは九月も半ばを過ぎていた。



 大赦の御使、丹左衛門尉基康たんざえもんのじょうもとやすとその供のものをのせた船は、目指す鬼界ヶ島についたが、荒漠とした孤島のさまは、都より訪れた人々に、おそろしく激しい印象を与えた。船が島につくや、波にぬれた浜に一気に飛び下りた基康は、大声をあげた。

「都から流された平判官康頼入道、丹波少将殿はおらるるか」

 供の者もこれに和して、口々に尋ねたが、しばしは波の音がこれに応えるばかりであった。

 というのも、康頼と少将の二人は例の熊野詣に行っていたからであったが、ただ一人俊寛は小屋のほとりに寝そべったまま、一人京の街をおもい、故郷の寺の山々に思いをはせていた。人の声もまれで、耳にするのは、風の音、波の音、時折り島を渡る海鳥の叫びぐらいで、近頃物音に無関心になっている俊寛の耳に、海辺から人の叫び声が伝わって来たのである。愕然がくぜんとして身を起した俊寛はわが耳を疑った。だが、熊野詣の二人を呼ぶ島人ならざる人の声は、確かに聞えた。

「これは夢にちがいない。寝ても覚めても京の都のことばかり思いつめていたためのまぼろしの声だ。悪魔がおれの心を惑わそうというのか。とても現実とは思えん」

 と一人わななきながらつぶやく俊寛の足は、飛ぶように声のする海辺へ向った。俊寛は走っているつもりではあったろうが、その形は殆んど倒れながら転がるにも似ていた。

 俊寛が使いの丹左衛門尉基康の姿を認めるのと、流された俊寛は私だ、と叫ぶのと同時であったが、彼自身、現にあることが、事実か幻か、判別出来ぬ有様だったのである。

 漸く落ちついた俊寛の前に、清盛の大赦文ゆるしぶみをしたためた赦文が差し出された。ふるえる手つきでこれをあけた俊寛は一気に読み下した。

「重罪は今までの流罪によって許す。都に早く帰ることを考えよ。このたび、中宮の安産のお祈りによって、大赦を行なう。故に鬼界ヶ島の流人、少将成経、康頼法師の両人赦免」

 だが俊寛の名はどこにもなかった。目を血走らせた彼は、赦文の包み紙をひったくるようにして見た。やはり彼の名はなかった。半狂乱になって赦文を隅々まで探したが、求める二字はなかったのである。今こそ俊寛は、これが幻であれと心の中で叫んだであろう。

 やがて姿を見せ、ことの成行きを承知して喜色を浮べた幸運の二人、少将、法師の姿も俊寛には見えなかった。彼の欲したのは、ただ二つの文字、俊寛の名前だけであった。同情した二人が共に俊寛の名前の空しい捜索を手伝ったが、結果は同じことであった。何より彼を絶望させたのは、後の二人に縁者から手紙言づけの類が山程あったのに、彼には全くなかったことである。

 夢から覚めた、いや現実からさめた俊寛の胸には、おれの親類縁者は一人も都にはいないのかという思いが湧き上がってきた。やがて、すべてに見離されたと知った俊寛の口から絶望の声がもれたのである。

「一体、この三人は同じ罪なのだ。流された所も同じなら、罪の重さも同じはずだ。おれ一人ここに残すというはずはないのだ。平家が思い忘れたか、赦文を書いた役人の書き間違いか、これはどういうことなのか、おれにはわからん」

 狂ったように泣く俊寛の両手には、浜のぬれた砂がつかまれた。なぎさに打ち伏したまま泣き叫ぶ姿に、誰も声が出なかった。

 やおら身をおこした俊寛は、丹波少将のたもとをむずとつかんで、哀訴した。かつての傲然たる面影は全くない。あるのは、都に帰りたい執念が一時に爆発した一人の男がいるだけである。

「俊寛がいまこんな有様になったのも、あなたの父の謀叛からじゃ。あなたも知らぬ顔はできぬはずじゃ。頼む、許されぬとあらば都とまでは言わぬ、せめてこの船で日向か薩摩の地まで連れて行ってくれい。あなた方が島にいればこそ、時には故郷のことも伝えきくことができた。今わし一人になったら、それもできなくなるのじゃ」

 俊寛は少将の袂をつかんで離さぬ。袂が島と本土とむすぶただ一つの橋のように、彼は両手でつかんでいた。俊寛に口説かれた少将は、もともと気性の優しい人だけに涙ぐみながら、何んとかこの男に希望を与えようとして懸命に慰めた。

「まことにご尤もの話しと思います。われら二人が召し帰されるのは嬉しいが、あなたを見ては行くに行かれぬ気持です。お言葉通り、船に乗せてお連れしたいが、上使の方が、それはだめじゃと、それ、さきほどからくり返して申しておらるる。許されもしないのに三人一度に島を出たと知れたならば、こんどはひどいおとがめがあるかも知れぬ。今やとるべき道はただ一つ。わたしが京に帰り、人にも相談をして、入道殿のご機嫌もうかがって、何んとか取りなすつもりです。その上で、お迎えの人をさし上げたいと思うのです。それまで、どうかご辛抱頂きたい。たとえ、今度の赦免でもれていても、そのうち必ずお許しがあるはずです」

 言葉をつくした少将の慰めも、俊寛の耳には入らなかった。何んとしても帰りたい一心の彼は、船に飛び乗って、京に帰るのじゃ、と叫んだかと思うと、波打際に飛び降りては、潮を浴びたまま、連れて行ってくれいと号泣するのであった。

 帰京の喜びに出発の準備も弾む少将、法師も、さすがに哀れに思わざるを得なかった。乏しい持物の中から、二人は形見を残してやった。少将は夜具、法師は「法華経」である。

 やがて船出の時が来た。ともづなが解かれ、船は押し出された。一行をのせた船は漕ぎ出された。

 だが、俊寛はともづなから離れなかった。綱とともに海に入った俊寛の腰から胸へと波が洗っても、彼は船とともにいた。人びとの制止の声にもかかわらず、背が立たなくなれば、泳いで船にすがりついた。そして血を吐くような声で皆に頼んでいた。

「どうしてもわしを見捨てるのか。お願いじゃ、都とは言わぬ、九州のどこへでも連れて行ってくれい。日頃の情をかけて下され」

 俊寛の叫びに耳をおおうようにした一行は、船にとりつく彼の手を払いのけて、ようやく漕ぎ出すことが出来た。

 汀にもどったまま打ち倒れた俊寛は、泣き叫びながら、足ずりした。幼児が母親を慕って泣くように、俊寛は足を砂浜にすりつけて、わめき叫んだのである。

「わしを乗せてくれい、どうか連れていってくれい」

 このくり返された叫び声は、白波を跡に沖へ漕ぎ出す船を何時までもとらえていた。

 立ちあがって、船を探した俊寛の目は涙にくもって、何も見えなかった。

 夢中で島の小山の頂に走った彼は、波のあいだに小さく消える船を見つけた。今や声もかれ、涙も果てた俊寛は、ただ両手を何時までも船に向って振りつづけるのだった。船が暮色の海に溶けるように薄れて消えると、鬼界ヶ島を夜が包んだ。一人になった俊寛には、今日一日のことが幻の様に思われる。抱きつづけていた夢が残酷な現実となった。打ちのめされた彼のさまよう足取は、何時しか運命の水際にきた。一人で苦しむより、むしろ、思いきって死のう、海に身を投げて命を捨てようと何度も考えた彼を、思いとどまらせたのは、かねてから優しい心をみせていた少将に僅かな希望を託した言葉であった。思いやりのある彼のことだ、京に帰れば有力者も身内に多いのだから、入道にも頼みこんでくれるにちがいない。そしておれも遅くとも来年には、などと、夜の浜に打ち伏したまま、星夜の中に京へのなつかしいおもいをたどるのである。



 鬼界ヶ島を立った丹波少将らの一行は、肥前国鹿瀬かせしょうに着いた。宰相教盛は使いをやって、「年内は波が荒く航海も困難であろうから、年が明けてから、京に帰るがよい」といわせたので一行はここで新年を迎えることにした。

 十一月十二日未明、中宮が産気づかれた。このうわさで京中はわき立ったが、御産所の六波羅の池殿いけどのには、法皇が行幸されたのをはじめとして、関白殿以下、太政大臣など官職をおびた文武百官一人ももれなく伺候しこうした。

 これまでに、女御にょうごきさきの御産の時に大赦が行なわれたことがあったが、今度の御産の時も大赦が先例に従って行なわれ、多くの重罪の者も許された。こうしたなかで、鬼界ヶ島の俊寛が、ただ一人許されなかったのは気の毒なことであった。

 中宮は、安産の願立がんだてを行なわれ、皇子がお生れになったら、八幡、平野、大原野などへ行啓になるということであった。神社は大神宮をはじめ二十四カ所、仏寺は東大寺以下二十カ所で安産が祈られた。安産読経の御使には、中宮の侍の中でも官位あるものがえらばれ、何れも平紋ひょうもん狩衣かりぎぬに帯剣、お経の施物、御剣ぎょけん御衣ぎょいを捧げ持ち、次々に東のたいより南庭を渡り、西の中門へ静かに出て行くさまは、まことに壮厳で美しかった。

 中宮の兄に当る小松大臣重盛は、良いにつけ、悪いにつけ、騒ぎ立てぬ性格であったが、今度の御産のときでも、大騒ぎが一段落してから、長男少将維盛以下の子息の車を続けて御産所に送られ、御衣四十かさね、銀剣七ふり、馬十二頭に引かせてこられた。

 なお伊勢大神宮を始め、安芸の厳島神社など七十カ所余りに、神馬を寄進し、宮中にも御馬数十匹を奉った。

 一方、有名な寺の高僧たちは、安産のためあらゆる秘法を動員して、最後の努力をはらっていた。すなわち、仁和寺にんなじ御室みむろ守覚しゅかく法親王は孔雀の法、天台座主覚快かくかい法親王は七仏薬師ぶつやくしの法、三井寺の円慶えんけい法親王は金剛童子の法、そのほか五大虚空蔵ごだいこくうぞう、六観音から、普賢延命ふげんえんめいにいたるまで、ありとあらゆる秘法が行なわれたのである。このため、護摩ごまの煙は御所中にもうもうと立ちこめ、振る鈴の音は地を這い天にまでのぼる始末、修法の声は身の毛もよだつようにとどろく有様で、これでは、どんな物の怪も退散すると思われた。

 ところで中宮の御産は、陣痛は続くのだが、難産である。なかなかご誕生にならない。つきそっていた入道清盛や奥方は、ただ胸に手を押しあてたまま、おろおろするばかりで、頼りにならぬことおびただしい。人びとが、うかがいを立てても、

「どうかうまくやってくれ、よいように急いでやってくれ」

 と声をふるわすばかりであった。戦場なら、こんなみじめな思いはしないと、後程人に話したが、人の親清盛の狼狽ろうばいぶりは想像にあまりあるものがある。

 このご難産に、殿中でお祈りする者は、房覚ぼうかく性運しょううんの両僧正、俊尭しゅんぎょう法印、豪禅ごうぜん実全じつぜん両僧都などで、何れも僧伽そうがの句などをくり返し読み秘法をつくした。中でも法皇は、この時、熊野御参詣の前でご精進中であったのだが、わざわざ中宮の帳の近くに坐られて、千手経を声高く読経されたのであった。

「たとえ、どんな悪霊でも、この老法師がここにいる以上近づくはずはない。いまとりついている物の怪は、何れも皇恩で人となったのだから、物の怪に報恩の心はなくとも、たたりをなすことが出来ようか、悪霊共よ、速かに退散せよ」

 といわれると、今まで荒れ狂っていた物の怪もしばしはしずまったのである。さらに、

「女人の難産にも、心をこめて大悲呪だいひじゅを称えれば、鬼神退散、安産疑いなし」

 と、水晶の数珠を取りだして押しもむと、中宮はご安産であったばかりでなく、産れたのは皇子であった。

「ご安産です。皇子ご誕生ですぞ」

 とみすの中から躍るように出て来て、喜び声で高らかに告げたのは中宮亮重衡ちゅうぐうのすけしげひら卿、法皇を初め、関白太政大臣以下の公卿たち、下々しもじもにいたるまで、どっと歓びの声をあげた。歓声は御所から門外に、そして京の街々を包んだ。

 清盛は嬉しさのあまり、声を立てて泣いたという。

 小松大臣こまつのおとどは、金銭を九十九文、皇子の枕元において心から祈った。

「天を父とし、地を母と定め給え。ご寿命は不老長寿の仙人のように保ち給え。御心には天照大神入らせ給え」

 そして古式に従って桑の弓によもぎの矢をつがえ、天地四方を射たのであった。



 乳母には、平大納言時忠の奥方が選ばれた。これは後に帥典侍そつのすけと呼ばれた人である。

 法皇はやがて、御所へ還御になったが、清盛は余りの嬉しさに、お土産にと、砂金一千両、富士綿二千両を進呈したのは、今までに類のないことだけに、人々に異様な感じを与えたようである。

 今度の御産ごさんにあたっては、変ったことがいろいろあった。その第一は、何といっても、法皇が、自ら祈祷者として、祈られたことだったろう。その二には、きさき御産の行事として、御殿の棟からこしきを落す習慣があり、皇子の時は南、皇女の時は北と決まっていたが、この時には間違って北に落してしまい、慌てて落し直すという珍事ちんじがあった。悪い前兆でなければよいが、と思った人もいたらしい。

 一番面白かったのは、清盛の日頃に似合わぬあわて方であった。重盛は、例によって、少しも騒がないところは立派だったが、気の毒だったのは、宗盛が奥方を難産で失い、職を一時やめて引こもってしまったことである。この奥方は、最初、皇子の乳母になる予定の人であっただけに、突然の逝去は惜しまれた。

 面白い話では、七人の陰陽師おんようしが呼ばれて、千度のおはらいをした際のことだったが、中に掃部頭時晴かもんのかみときはるという老人がいた。供も少く人の群を、かきわけかきわけ進む内に、右のくつを踏み抜かれてしまった。あわててまごまごしている内に、冠までも落されてもとどりがむき出しになってしまった。きちんと礼装をつけた老人が、冠をとられてまごついている格好はどうにもおかしく、見ていた公卿殿上人はわあっと笑い出してしまった。

 とにかく今度のお産には、その他いろいろ不思議なこともあったが、その時はたいして気にもならなかったことが、後から考えると、成るほどと思うことが多かった。

 公卿殿上人は続々お産のお祝に、清盛邸へ集り、その時不参の人々も後からもれなく、お祝に集ったようである。



 中宮御産ごさんの際、ご祈祷に精進した者たちには上から下までもれなく恩賞があって、その労をねぎらった。

 中宮の体も、ようやく元通りになったので、中宮はふたたび六波羅から内裏に帰られた。

 中宮に皇子が生れることは、中宮の入内当初からの清盛夫婦の夢であった。

「いつか、皇子が誕生し、御位におつきになったそのときは、外祖父、外祖母じゃ、どうか早く皇子がお生れにならんものかのう」

 この願がかなって、目出度く男子出生したのも日頃信心深い厳島の賜物かも知れなかった。平家の厳島信仰の始りは、清盛が安芸守時代にさかのぼる。まだ鳥羽院の御時、高野の大塔の修理を仰せ付けられ、六年がかりでそれを完成した。清盛が、大塔を拝み、奥の院に行くと、どこからともなく、眉の白い俗人離れのした老僧が現れ、暫く話をするうちにこんなことを言った。

「この山は、真言密教の聖地として連綿として続いておる名山じゃが、安芸の厳島、越前の気比けひの宮も共に、この山には由緒のある所じゃ、気比の宮は栄えているが、厳島はみるかげもなく荒れ果てておる。次には是非奏聞して、厳島を修理されるがよい、すれば、貴方は天下に肩を並ぶ者のない身分になること間違いなしじゃ」

 そのまま、すたすた歩きだした老僧を不思議な事をいう人かと思って、跡をつけていくと、忽ち見えなくなってしまった。

「さては、弘法大師であったのか」

 いよいよ不思議な念に捉われた清盛は、高野山の金堂に曼陀羅まんだらを書いて贈った。西曼陀羅は、常明じょうみょう法印という絵師にかかせたが、東曼陀羅は自分でかき、何のつもりか大日如来の宝冠は、自分の首の血で書いたといわれる。

 都に帰った清盛は、事の次第を早速、報告した。鳥羽院もひどく感動され、清盛の任期を延長して厳島の修理に当らせた。

 鳥居を立て替え、社を新築し、百八十間の廻廊も造った。修理が済んで、清盛が厳島に参籠していると、ある晩、御宝殿の戸が開いて美しい少年が現れ、

「大明神の使いで参った者ですが、この剣をもって全国を鎮め、朝廷をお守りするようにとのお告げです」

 と銀の蛭巻ひるまきした小長刀を枕辺に置いて、姿を消した。気がついてみるとそれは夢であったが、枕元をみると確かに、その小長刀が置かれていた。その後再び大明神のご託宣があり、

「いつぞや、老僧を以て言わせたことを忘れるではないぞ、但し御身に悪行あらば栄華は一代限り」

 というのであった。以来、厳島は平家一門の護り神の様にされているのである。



 白河院がまだご在位の時、関白藤原師実もろざねの娘、賢子けんしの中宮をひどく寵愛されていた。かねがね、この御腹に、一人皇子が欲しいと望んでいられたが、当時、その道では聞えた三井寺の頼豪阿闍梨あじゃりを呼び出した。

「賢子の中宮の御腹に皇子誕生を祈祷してくれまいか、願いのかなった暁は、恩賞は望み次第じゃ」

「お安いご用でござります」

 頼豪は三井寺に帰ると、百日の間、心をこめて祈り続けた。やがて百日の内に、中宮にご懐妊の徴候が現れ、承保しょうほう元年十二月、目出度く皇子が誕生した。

 主上の喜びは殊のほかで、早速頼豪を招いた。

「そなたのお陰で、皇子が生れた。約束通り恩賞をとらそう、何なりとも望みの物を申せ」

「ほかに望みはございませんが、山門にある戒壇かいだんを三井寺にも建立こんりゅうする事をお許し頂ければ」

「何? 戒壇と? それだけは以てのほかのことじゃ、高位高官は望みのままとらそうと思っていたが、そのことばかりは許されぬ。皇子ご誕生を願ったのも、やがて朕のあとをついで即位し、世の中が今迄通り平和にという思惑からじゃ。それをそなたのいうように、三井寺に戒壇を建立いたさば、山門の憤りは火を見るより明かである。やがては、両門の合戦に及び、世は騒然として、天台の仏法も滅びるようなことがあっては困るのじゃ」

 といって遂に許されなかった。

 頼豪は口惜しがって、飢死をする覚悟で、三井寺で断食を始めた。これには主上も驚かれて、かねて頼豪とは師弟関係を結んでいた、大江匡房おおえのまさふさを呼んで、頼豪を説得するように頼んだ。

 匡房が頼豪の断食の場所に行ってみると、うす汚れた持仏堂の中から、頼豪の陰にこもった恐ろしい声が聞えてきた。

「天子の言葉には戯れはないと聞いておった。一度び口に出した言葉は二度と戻らぬことをご存じか? それ程の望が叶えられないというのなら、わしの祈りも今では無駄じゃ。わしが祈って生まれ出た皇子なら、もう一度、連れ戻すのもわしの勝手、皇子は頂戴して、私も魔道にいくつもりじゃから、帰ってその様にお伝え申せ」

 といったまま、とうとう逢おうとしなかった。頼豪は、予定通り飢死したので、主上はどうなることかと気をもんでいるうちに皇子は病の床に就いてしまった。お祈りも様々にさせてみたが、いつでも、皇子の枕元に白髪の老人が錫杖しゃくじょうを持ってたたずんでいて、決して退散しない。そのうちに、とうとう亡くなってしまった。

 主上の嘆きは、またひとしおであったから、今度は、後に山門の座主になった良真りょうしん僧都を呼び出した。

「折角授かった皇子を、頼豪のために失ってしまったが、何かよい思案はないか?」

「そもそも三井寺にお頼みになったのがまずうございました。始めから山門にお頼み下されば、こんな事にもなりませんでしたのに、冷泉れいぜい院ご誕生の時も、山門の慈慧じえ大僧正に九条右丞相くじょうのうじょうしょうがお頼みなされた先例もございます」

 といって比叡山に帰り山王大師に百日祈願したところが、再び中宮はご懐妊、お生れになったのが堀河天皇である。

 このように、怨霊おんりょうというやつは昔からたちの悪いもので、今度の門院の御産に大赦が行われたけれども、俊寛一人が残されたことは何としても後味が悪い気もする。

 同じ年の十二月八日、皇子は東宮に立ち、東宮輔佐は小松内大臣重盛、東宮大夫は池中納言頼盛が任ぜられた。



 宰相の領国鹿瀬庄で、暫く休養していた成経は、ようやく体力も元通りになり、そろそろ気候もよくなってくるので、都に帰る事を思い立った。治承三年正月下旬、肥前鹿瀬庄を海路出発した。早春とはいえ、まだ海は荒れ模様で、島伝い浦伝いの航路を続けて、備前の児島に着いたのが、二月の十日頃であった。父成親ゆかりの場所、有木の別所は、ここから程近い。今は遺跡となった住家を訪ねてみると、障子や唐紙には、成親がつれづれのままに書き記したあとが残っていた。

 安元三年七月二十日出家、同二十六日、信俊のぶとし下向とあるところで、少将は始めて源左衛門尉信俊がここを訪ねたことを知った。

 又、側の壁には、「三尊来迎さんぞんらいこう便りあり、九品往生くほんおうじょう疑なし」ともかかれていて、今更に父が最後の時まで、欣求浄土ごんぐじょうどの念を捨てなかったことも知った。

「これ程ありありと、当時を偲ばせてくれる形身があるであろうか、もし父上が書きおいて下さらなければ、何もわからなかったかも知れない」

 ありし日がそのままよみがえってくるような筆の跡を、何度も何度も読み返しては、少将も康頼も涙を拭うのであった。

 成親の墓は、およそ墓というには余りにも貧弱な、唯少しばかり土が盛られてあることでそれと知られるだけであった。

 少将は堪えられなくなって土の上に膝をつくと、まるで成親が傍らにいるでもするかの様に語りかけるのであった。

「都を離れた所で、帰らぬ人になってしまわれたことは、風の便りで聞きましたが、何せ自由にならぬ島暮し、直ぐにもお傍に急ぎはせ参じたいと思いつつ、とうとう、これまで打ち過ぎてしまいました。この度どうにかこうにか生き長らえて、再び都の土を踏むことになった嬉しさは格別ではございますが、父上が生きておいでで、お目にかかれると思えばこそ、命を長らえていたわけでございますが、この様なおいたわしいお姿になってしまっては、私も、都へ急ぎ上ろうという気もなくなってしまいました。それにしても、余りに情ないことでございます」

 さめざめと涙を流し、いろいろにかき口説くのだが、こけの下からは答える者もなく、松風の響きだけが、静かな山の空気を震わせるだけであった。その夜は一晩じゅう、墓の廻りで念仏して、成親の霊を慰め、翌くる朝からは、新しく土を盛り、柵を作り、前には仮屋まで立てて、どうにか墓所らしい体裁を整えた。その中で七日七晩、念仏し、経を書き、満願の日には大きな卒都婆を建て、「過去聖霊かこしょうりょう出離生死しゅつりしょうじ証大菩提しょうだいぼだい」と書き、年号月日の下には孝子成経と署名した。

 年月は経っても忘れられぬものは、年頃、育ててくれた父母の恩であり、今更に、夢、幻の如く思い出され、尽きぬ恋しさばかりが残るのである。

 それにしても、これ程迄に父を想う少将の心が、亡き成親の霊に通じないはずはあるまい。

「まだまだ、念仏もいたし、お側にもおりたいのですが、都には、母上始め待つ者も多くございますので、又必ず参ることにいたします」

 と、そこにある人の如くに暇を告げると、泣くなく出立したのである。

 三月十六日、少将は鳥羽に着いた。ここには、成親の山荘である洲浜殿すはまどのがある。かつて美しかった邸宅も、今は住む人もなく荒れるに任せていた。

 苔むした庭園は、人の訪れもないらしい。池のあたりを見廻すと、折柄春風に小波が立ち、紫鴛しえん白鴎はくおうが楽しげに飛び交いしている。昔、この景色の好きだった父、ああ、あの頃は、この開き戸をこういう風にお出入りになっていたっけ、あの木は確かお手ずからお植えになったものだった。||一つ一つの思い出が、ある事ない事、ぼうっとうかんできて、少将のやるせない慕情を一層激しくかきたてるのであった。

 庭のそこここにはまだ春の花が乱れ咲いていた。主人の留守の間にも、花だけは、春を忘れず咲き誇っていたのであろう。ふと少将は知らずしらずのうちに、古い詩歌を口ずさんでいた。


桃李不とうりものいわず春幾暮はるいくばくかくれぬる 煙霞無えんかあとなし昔誰栖むかしたれかすんじ

 ふる里の花の物言う世なりせば

   いかに昔の事を問わまし


 いつまでも名残尽きぬ荒れた邸に、いつか月が昇ってきていた。破れ果てた軒の間から、月の光はいたるところに射しこんでくるのである。離れ難い思いが少将の心をとらえるのだった。しかし都では、迎えの乗物を持って待ちわびている家族たちがあった。少将は名残惜しさに泣くなく洲浜殿を出て都に向った。都が近づくにつれて、さすがに喜びはかくせなかった。と同時に康頼との別れも近づいている。康頼にも迎えの乗物が来ているのに、康頼は少将の車から中々降りようとしなかった。七条河原迄来ても、まだついてきた。花の下で遊んだ半日の客、月夜の宴で一夜を語った友、雨宿りに立ち寄った一樹の下の友、そんな短い友情でさえ別れる時は何かと名残り惜しいものなのに、康頼と少将は、二年間、それも荒れ果てた孤島で、うれしいにつけ、悲しいにつけ、同じ罪業を背負って暮した仲間である。別れ難いのももっともな話だった。

 少将は、しゅうと宰相の邸に入った。少将の母は、昨日から宰相邸で帰りを待っていたのである。命があったればこそ、といいもたまらず嬉し泣きに泣き伏してしまった。少将の北の方、乳母の六条の喜びようも一通りではなかった。六条は積る憂いに、黒髪もすっかり白くなっていたし、かつては、あでやかな美貌をみせていた北の方は、やつれ果てて、この人が、あの人か? と思えないほどの変り方であった。少将が、都を去る時は三歳の幼児だった息子が、すっかり大きくなって、今は、きちんと髪まで結っている。その側に三歳ばかりの童児がいるのに目を留めた少将が、けげんな顔をして、

「あれは?」

 と尋ねた。すぐさま六条が、

「あの方こそ、御下向の時」

 といったまま、袖に顔を押しあててあとが続かない。少将も漸く気がついて、

「あの時、腹にいた、そういえば奥がひどく苦し気で、気がかりであった」

 といってやっと思い出した。

「よくぞ丈夫で大きくなったものじゃのう」

 と又ひとしお感慨深げであった。

 少将は再び院に仕え、宰相中将に上った。康頼は、東山双林寺そうりんじの山荘で、世を捨てた生活を送りながら、「宝物集ほうぶつしゅう」を書いた。


ふる里の軒の板間に苔むして

  思いしほどはもらぬ月かな


 都に帰ってからの康頼の所感である。



 たったひとり、鬼界ヶ島に取り残された俊寛が、幼い頃から可愛がって使っていた有王という少年があった。鬼界ヶ島の流人が大赦になって都入りをするという話を伝え聞いた有王は、喜び勇んで鳥羽まで出迎えにいった。「どんなにおやつれになってお帰りだろう、随分辛いことだったろうなあ」

 あれこれ考えているうちに、鬼界ヶ島の流人らしい一行が到着した。見送り人のごった返す中で、有王は、俊寛の姿を探し求めたが、それらしい人の姿は見当らなかった。有王は次第に不安と焦燥を覚えながらも、「そんなはずはない、そんなバカなことはない」と自分にいい聞かせながら、一人一人の顔をのぞきこむようにして探した。何度探しても結局は、無駄であった。俊寛らしい人の影はみえないのである。

「もし、一寸お尋ねいたします」

 思い切って有王は、人に尋ねてみようと決心した。

「今日ご大赦のあった鬼界ヶ島流人のうちの一人、俊寛僧都のご消息をご存じではありませぬか?」

 年端としはのゆかない少年に声を掛けられて、一寸迷惑そうな様子をみせた者も、そのひたむきなまなざしを見て、驚いたらしい。

「あの方はな、まだ罪が許されずに、島に残されたという話じゃよ」

「それは、真実のことでございますか?」

「お前様には気の毒なようだが、本当のことらしい。係りの役人もそういっておったようでのう」

 有王は、すっかりがっかりして、疲れた足を引きずって京に戻ってきた。

 それから有王の六波羅通いが始まった。もしやご赦免のお沙汰でもないかと、六波羅の邸のあたりをうろうろしたり、人の話に聞耳をたてたりした。しかし、一向に赦免の様子もなく、日が過ぎていった。

 ある日、有王は決心した。「このまま、べんべんと六波羅の許しを待っていたのでは、いつになるかわからない、ひとつ、自分が訪ねて行ってみよう」

 思い立つと、有王は直ぐに、俊寛の娘が一人でそっと隠れ忍んでいるところにいって、自分の決心を語った。

「この度のご大赦には、何とも残念な事、僧都お一人お許しが出ず、その後もいろいろ調べてみましたが、当分ご赦免の様子もありませぬ、そうとなれば、私が、何とかして島に渡り、お行方をお尋ねして参りたいと思います。就きましては、姫君自らのお文を頂戴できれば、どんなにかお喜びになりますことか」

 姫の手紙をしっかり元結もとゆいにかくしこんで、有王は身軽な装立ちで都をあとにした。両親にも知人にも、誰にも知らさず、こっそり出発したのである。

 四月の末であった。

 苦しい旅路を続けて、どうやら薩摩潟さつまがたに着き、薩摩から鬼界ヶ島へ渡る商人船の船着き場で、この土地に見慣れぬ有王の風体を怪しむ者がいて、着ている物をはぎとられて調べられたが、元結の中に隠した姫の手紙は、うまい具合に見つからなかったので、どうやら事なきを得たのであった。幾多の危難を冒して、漸く目指す鬼界ヶ島へ着いたとき、有王は、聞きしにまさる荒漠たる風景に驚かされた。田もなかった。畠もなかった。もちろん村とか里とかいったものも見当らず、たまに通りかかる島の土着民は、これ又今まで聞いたことのない言葉で物を言い、何を尋ねても、話が通じないのである。

「もしや、このあたりに都から流された法勝寺ほっしょうじ執行しゅぎょう、俊寛僧都のお行方、ご存じありませぬか?」

 法勝寺だの、執行だのといっても、馬の耳に念仏で、ぽかんとして、みんな有王をみていた。島の人の一人が、それでも漸く話が解ったらしい。

「さあてねえ、そんな人は三人いたようだがなあ、何でも二人は都へえって、残った人は一人でぶらぶらしていたようだったが、この頃は見えねえようだな」

 とそれだけ教えてくれた。

 今は有王が独力で探す以外に方法がなかった。有王は、山から山、峰から峰へと渡り歩き、終日、俊寛の姿を尋ね求めた。しかし影すらも見当らない。再び浜辺に戻ってきた有王は、暫しぼうぜんと沖の方を眺めてはため息をついた。ここまで尋ねてきて、逢わずに帰るのは、何としても残念であった。たとい、今はこの世の人でなかろうと、有王は一目、俊寛の姿をみたいと思ったのだ。人の姿も恐れずに砂浜に遊びたわむれる、鴎や沖の浜千鳥でもいいから、俊寛の行方を知らせてはくれまいか、有王はつくづくそう思ったのである。

 ある朝であった。有王は来る日も来る日も、まだ諦め切れずに俊寛を求めて探し歩いていたのだが、磯のあたりを、よろよろしながら歩いている、かげろうのようにやせ細った人影に出逢った。頭の具合からみると昔は坊主だったのかも知れないが、髪の毛は伸び放題に伸び、藻くずだか、それとも、ごみだかわけのわからぬものが一杯ついている。着ている物といったら、絹か布かの区別どころか、ようよう身を掩っているという感じで、骨と皮ばかりのたるんだ肉体が、ところどころからのぞいている。片手にはあらめを、片手には魚を下げて、歩いているとはとてもみえない。よろよろと地上をはうようにしてやってくるのである。

「都で、ひどい乞食はいろいろ見たことがあるが、こんなにひどいのは始めてじゃ、まさか、餓鬼道へ迷って来たわけでもないのに」

 有王は、その乞食をやり過そうとして、ふと思い直した。「こんな者でも、もしかして、おしゅうの行方を知っているということもあるからな」有王は、乞食に近づくと、いんぎんに声をかけた。

「一寸お尋ねしたいのですが」

「何事?」

「もしや、都から流されてきた法勝寺執行、俊寛僧都のお行方をご存じありますまいか?」

 聞きもやらず、乞食は、まじまじと有王の顔をみつめた。

「おれじゃ、おれじゃあ、俊寛は」

 途端に彼は、手に持っていた物を投げ捨てるとその場に倒れ伏してしまった。

 さすがに、有王も唖然あぜんとして言葉が出なかったが、すぐさま、抱き起こすと膝の上に抱きかかえて、むせび泣きながら、かき口説いた。

「有王でございます。有王が来たのです。はるばる苦しい旅を続けながら、貴方さまに逢いたいばかりにやってきたというのに、どうか、お気を確かにして下さい。この有王を見て下さい」

 暫くして、次第に生気を取り戻した俊寛は、もう一度、有王の顔をいいる様に見るのだった。

「本当だろうか、本当にお前が来てくれたのだろうか、毎日毎夜、都のことばかり思いつめて、今では恋しい者の面影が、夢かうつつか、わからなくなってしまったのだよ。お前の来たのは夢ではないのか? 本当にお前が来たのか? 夢であったら覚めた後がどんなに辛い事か」

「僧都様、これは本当でございますよ。決して夢ではありませぬ。それにしても、よくこうやって生き長らえておいでになりました」

「まったくそうなんだ、お前のいうとおりだが、恥ずかしい話、わしは少将が島を去る時、よしなに取計うから待てといった言葉が忘れられなかったのじゃよ。おろかなものでのう、その一言に、もしやと頼みの綱をかけ、一日一日を生き伸びていたのじゃ、何せ、ここは食い物のないところで、わしも丈夫な折は、山にのぼって硫黄いおうとやらを取り、商人船の来る度に食物と代えて貰っていたが、体が弱ってからは、網人あみびとや釣人に手をすり合せて、さかなを恵んで貰い、時には貝を拾い、あらめをとって命をつないでいたのじゃよ、それにしても、ここでは落着いて話もできん、まあ家に参ろう」

「家?」

 有王は思わず聞き返しそうになるところを、ごくりとつばをのみこんだ。この有様で家を持っているというのが、どうしても信じられなかったのである。

 しかしやがて、松林の中に案内されて、家の前に立った時は、余りのみすぼらしさに胸が一杯になってしまった。

 家とは名ばかりの、竹を柱とし、葦を横木にわたし、床と屋根を松葉で覆った、それだけの住居であった。これでは、雨や風は吹き放題漏り放題、どうやって雨風をしのいでいるのかと思われた。それにしても、かつては、法勝寺の事務職で八十余カ所の荘園を管理し、四、五百人の家来に取りかこまれて、気ままな生活を楽しんでいた人のなれの果てにしては余りにもみじめであった。

 しかし、俊寛も漸く、有王の来訪を現実の事と覚って少しずつ話しを始めた。

「去年、少将や康頼入道に迎えの来た時にも、わしの所には、便りが一本もなかった。今、お前がこうやって訪ねてきてくれたのに、誰からも言伝てがないのか」

 有王の顔が次第に曇って、みるみるうちに涙が一筋、二筋と、頬を伝わって流れ落ちてきたが、とうとううつ伏せになったまま泣き伏してしまった。俊寛は暗然たる面持ちで有王を眺めていた。一言も聞かぬ先から、彼は既に何事かがあったことを知ってしまったのである。有王は、暫くして涙を押えながら、途切れがちに話しはじめた。

「貴方様が、西八条にお召し捕られてあと、それは恐ろしゅうございました。直ぐに追手の役人共が参り、ご家来の方々はほとんど捕われ、いろいろに責めさいなまれ、訊問じんもんされ、最後には一人残らず皆殺しでした。奥方様は、若君様とこっそり鞍馬の山奥に忍んで居られましたが、お訪ねする者もなく、私が時折、様子を伺いに参上いたしますと、いつでも、お話は鬼界ヶ島の貴方様のことばかりで、とりわけ若君様には、有王よ、鬼界ヶ島に連れて行け、連れて行け、とおせがみになり、その度に奥方様と私、どうやっておなだめしてよいやら、途方に暮れるのでございましたが、去る二月、疱瘡ほうそうが重くなられたままおなくなりになってしまわれました。······奥方様は、あれやこれやと余りにお嘆きが多く、お床に伏す日も多くなり、とうとう若君様より一月遅れて」

 語る有王も、今は涙を拭おうともしなかった。俊寛は、じっとうなだれたまま、時々肩をふるわせている。

「姫御前お一人は、ご壮健にて、奈良のおば上の許においでで、この度もお文を頂いてまいりました」

 有王が元結もとゆいから取り出した文を俊寛は大切そうにひもどいて、むさぼるように瞳をこらした。

「三人流されたうちのお二人はお戻りになったというのに、何故お父上はお帰りにならないのでしょう? 私が女の身でなかったら、とっくに父上のおられる島にまいりますのに、どうぞ有王をお供に一日も早くお帰り下さい」

 まだ幼い筆跡の中にこめられた願が、痛々しかった。

「有王、どうじゃ、この文の子供っぽいこと、お前を供に早く帰って来いといいおるわい。わしの自由になる身ならば、何もわざわざ、こんな島に三年も暮しはせぬ。今年は確か十二になるはずだと思うが、こんなに聞き分けがなくては、行末が案じられるのう、これで人の妻にもなり、宮仕えもできるのだろうか?」

 こんな逆境にあっても、やはり人の子の親である。娘の身を気遣う親心の悲しさである。

「この島に流されて、暦もないまま、自然の移り変りを数えて三年みとせの月日を数えてきたが、今年六歳になったと思っていた幼いせがれが、わしが家を出る時、「いっしょに行く」といってきかないのを、何とかうまくだまして出てきてしまったのがついこの間の事のようだ。その子ももういないのか、全く、人目にも恥ずかしい暮しをしてまで生き長らえてきたのも、ただ一目、恋しい者達に逢いたかったまでのこと、この世にいないと聞けば、もうわしにも未練はなくなったよ。姫一人は心配だが、この子も、生きている身ならば、嘆きながらでも暮していくだろう。この上おめおめ辛い目をみながら、生きてお前にまで憂き目をみせるのも辛いことじゃ」

 俊寛は以来、それまでも少量しかとらなかった食事をぱったりやめてしまった。

 毎日を念仏だけを称えながら、やがて有王が島に来てから二十三日目、三十七歳で世を去った。

 有王は、死骸に取りすがって、嘆き悲しんだが、

「後世のお供もいたしたいのですが、姫君の事も気にかかりますし、後世を弔う人もござりませんから、暫く生きてご菩提を弔いましょう」

 と庵を焼いて、なきがらを※(「田+比」、第3水準1-86-44)だびに付し、白骨を拾って箱におさめ、それを頸にかけると、再び商人船に乗って都に帰ってきた。

 早速、姫君の所に行き、始めからのことをこまごまと話した。

「貴女様のお文は、くり返しくり返し読んでは、涙を流しておられ、一層、恋しい想いをつのらせていられたようで、お返事もどんなにかお書きになりたかったことと思いますが、すずりも紙もないところではどうにもならなかったのですよ。たとえ、いく度生れ変っても、もう二度とお父上のお姿を見、お声もきくこともできなくなってしまったのです」

 姫君は有王の話に、唯もう泣き伏して、声を立てて泣くのであった。

 姫はそのまま、十二歳という幼ない年で尼になり、奈良の法華寺で念仏三昧ざんまいの日を送って暮した。

 有王は俊寛の骨を高野の奥の院に納めたあと、出家し、主人の菩提を弔うため、全国修行の旅に上った。


※(「風にょう+(火/(火+火))」、第3水準1-94-8)つじかぜ

(つむじ風)


 治承三年五月十二日の正午、京都につむじ風が起った。

 東北の方から、西南の方角に吹いて、屋根や門は、四、五町から十町も吹きとばされ、けた、なげし、柱は、あたりに飛び散った。

 家屋の損失ばかりか、人畜にも多数被害があり、まさに地獄のつむじ風であった。

 これは唯事でないと早速占いをたてたところ、

「高位の大臣に災難あり、ひいては天下の大事となり、兵乱ちまたにおこるであろう」

 というご託宣であった。



 その頃、丁度熊野に参詣した重盛は、一晩中、何事かを祈願していた。日頃から、平家の行末に、暗い予感を感じている重盛にとって、それは一身をかけた重大な祈りであった。

「父の清盛入道は、何かと悪逆無道を働き、法皇の心を悩まし、息子としては、精一杯諫言いたしておりますが、我が身が至らぬため思うようにまいりません。この様子では、父清盛一代の栄華さえ案じられる状態でございます。ましてや、子孫が相次いで繁栄などは以ての他の事かとも思われます。ここに至って私の思いますには、なまじ高位高官に列せられ、世の浮沈をなめるよりは名誉を捨て、官を退き、この世の栄誉を捨てて、来世の極楽往生を願った方がどんなに良いかとも思うのですが、凡夫の悲しさ、中々実行できません。願わくは、南無権現、金剛童子、清盛入道の悪心を柔らげ、子孫繁栄、朝廷にお仕えしていついつまでも天下に平和をもたらしめて下さい。もし又それがかなえられず、清盛入道一代の栄華に終るならば、この重盛の命をお取り上げになって、来世の苦輪くりんをお助け下さい」

 重盛が一心に祈っている最中、灯籠の火のようなものが、重盛の身から発したかと思うとぱっと消え失せた。見ていた者は多かったが、気味の悪さに誰も口には出さなかった。

 参詣の帰りに岩田川を渡った時、嫡子維盛始め公達きんだちが、折柄、夏の事で暑い盛りでもあったので、涼みがてら水遊びなどをした。彼らは一様に浄衣の下に薄紫色の衣を着けていたが、水にぬれて、丁度喪服の色に見えた。

 筑後守貞能ちくごのかみさだよしが、これをみて、

「何で又、喪服めいた浄衣などお召しなのですか? 縁起でもない、お召し替えなされませ」

 というと、重盛が軽く制して、

「私の願いが聞き届けられたのだろう、着替えるには及ばぬ」

 といって、熊野にお礼の奉幣使を送った。人々は何の事かよくわからずに、おかしなことだと思っていた。

 熊野から帰ると間もなく、重盛は病の床に就く身となった。もとより覚悟の前であるから、療治もされず祈祷も許さなかった。

 その頃、宋から、名医といわれる医師がやってきて京都に滞在していた。福原にいた清盛は、使者を遣わして、この名医の診察をうけるようにとすすめさせた。

 重盛は、使いの越中守盛俊えっちゅうのかみもりとしを病室に招き、蒲団ふとんの上に起きなおって、

「わざわざ、医療のためのお使い有難く思っておりますと、お伝えしてくれ。それから、もう一ついうことがある。それは醍醐天皇のことだ。醍醐天皇は、あれ程の賢主であったけれども、異国の人相見を都にお引き入れになったのは、大へんなお心得ちがいだったといわれている。まして、重盛ごとき凡人が、異国の医師を自分の屋敷の内に入れることは一門の恥ではなかろうか? 漢の高祖が淮南わいなん黥布げいふを討ったとき、流れ矢で傷を受けたきさき呂太后りょたいこうが良医を迎えて診察させると、医師は五十斤の金を下されば癒してみせますといった。高祖はその時何といったか? 戦場で傷を受けるのは、命運のつきたしるしじゃ。命は即ち天にあり、いかな名医でも治療はできぬ、といって、金を惜しむようにうけとられては残念じゃ、といって金五十斤を医師に与えて、診療を断わった。この話は未だに私の耳に残り肝に銘じている。重盛も、天運の力で高位高官に列しておる。もし私の運命尽きずば、療治を加えずとも助かることは確実である。かの釈迦仏さえ、跋提河ばつだいがのあたりで入滅したのも、これすべて定められた命運が、医療ではどうにもならぬことを身をもって示されたのだ。もしどんな病でも癒るものならば、かの名医耆婆ぎばがついていて何故、釈尊が入滅することがあったろう。又、もし宋国の医師に依て生命が長らえたとあっては、我が国医術の面目も丸つぶれになるし、効き目がなければ、面謁して意味はないであろう。更に、わが国の大臣の一人として、異国の客人に診療を乞うとは国の恥でもある。この重盛、死んでも国の恥を思う心は失わないつもりであると、父上にお伝えしてくれ」

 盛俊は、清盛に事の次第を言上した。すると清盛も重盛の志には感じ入ったらしく、

「これほどに国の恥を思う大臣は、未だ前例を知らぬのう。まして末世末代にあるべきはずはなし、この日本には不相応な立派な大臣じゃから、今度はきっと死なれるにちがいない」

 といって急ぎ都にのぼった。

 重盛は、七月二十八日、出家した。法名は浄蓮じょうれん。やがて八月一日、ついに不帰の客となった。享年四十三歳。まだまだ働き盛りの年頃である。

「入道相国が無茶なことをしても、この人のおかげで、何とか無事におさまってきたのに、これから先きはどうなることやら」

 京の人たちは、みんな、ひそひそとつぶやき合ったという。

 都の上も下も、一様に重盛の逝去を悲しんでいる中で、ひとりほくそ笑んでいたのは、前右大将宗盛の身内の人たちである。

「いよいよ、うちの殿様の天下じゃ」

 と彼らは内心の喜びをかくせなかった。



 重盛は、未来を予見する不思議な能力を持っていた。これは生前の話であるが、ある夜、重盛は夢を見た。場所ははっきりとはわからないが、どこかの浜辺を歩いていると、道の傍に大きな鳥居がある。「これは、どこの鳥居だろうか?」と道ゆく人に聞いてみると、春日大明神の鳥居ですと答えた。鳥居の周辺には、何やら人が集って騒いでいる。よくみると、その中に、坊主頭の首を高々とさしあげている男がいた。あの首は、一体誰のか、といって尋ねると、「これは、平家の清盛公の首じゃ、あまりにも悪行が過ぎ、当社の大明神によって、召し捕られたのじゃ」と答えるものがあった。その声に重盛が、はっと思ったとき、目が覚めたのである。しかし考えれば考えるほど、近頃の平家一門の思いあがり振りが気になって、中々寝つかれない。そこへ、ほとほとと、忍びやかに戸をたたく者があった。こんな夜更けに一体誰が来たのかと思って尋ねると、それは、瀬尾太郎兼康せのおのたろうかねやすであった。

「今時分、一体何の用で?」

「されば、唯今、不思議な夢をみたもので、どうにも夜の明けるまで待っていられず、深夜と知りつつ参上仕りました。何卒お人ばらいを」

 兼康の真剣な顔つきから、何事かを感じとった重盛は、人ばらいをしてから、彼が見た夢の話を残らず聞いた。それが驚いたことには、重盛が見た夢と寸分も違わぬものであった。重盛は、今更に平家の行末に思いをはせて深いため息をついたのである。

 翌朝重盛が、院の御所へ出勤する維盛を呼び寄せると、

「親の欲目ということがあるが、そなたは、わが息子どもの中では、とりわけできのよい子じゃ、ゆくゆく、人に抜きん出て出世もいたすであろう。しかし近頃の世の中の様子では、この先どんなことがあるかもわからぬのう、そなたも苦労するであろう、こら誰かおらぬか貞能はいないか? 少将に酒を」

 といって酒が運ばれてくると、重盛が三度うけ、続いて少将も三度飲み乾そうとしたとき、重盛が、

「少将への引出物をこれへ」

 といった。重盛の言葉に、貞能がつと立って錦の袋に包んだ太刀たちを捧げ持ってきた。維盛は、すぐにそれが家の宝刀といわれる小烏こがらすという太刀であることを知って、内心喜びを押え切れず、膝を乗りだして押しいただくと、さっと袋から取出した。途端に維盛の顔色が変って青白くなった。維盛は、貞能の方を訊問じんもんするようににらみつけた。それは、小烏どころか大臣葬だいじんそうのとき使われる無文の太刀だったからである。重盛は、維盛のいきり立つのを片手で制しながら、静かな口調でいった。

「そんなに怒るものではない、それは貞能が悪いのではない。この私の心遣いなのじゃ、そなたも一目でおわかりのはずじゃが、これは大臣葬の時用いる無文の太刀じゃ。清盛公に万一の時があったら、この重盛が着用に及ぶつもりで、持っていた物じゃ。今、入道殿に先立つ身の私としては不必要な品、これをそなたに譲ろうと思うのじゃよ」

 人生の宿命を観じとった父重盛の言葉に、維盛は返す言葉もなく涙ぐんでいた。

 このことがあってから、熊野詣でがあり、重盛は間もなく帰らぬ人となったのである。



 生前から、来世の幸不幸を案じていた重盛は、東山の麓に四十八けんの精舎を建て、一間いっけんに一つずつ灯籠を置き、毎月、十四日と十五日には、容貌の優れた若い女房を集め、一間に六人ずつ、四十八間に二百八十八人をあつめて、念仏を称えさせた。十五日の日中ひなかを満願とし、大念仏を行ない、重盛自らもその列に加わって、極楽往生を願うのであった。重盛を灯籠大臣というのもここからきている。



 安元の頃、重盛は、九州から妙典みょうでんという船頭を呼び寄せ、人払いして親しく目通りをしたことがある。

「お前の正直を信頼して頼みがある。ここに大枚三千五百両の金がある。五百両は、そなたの使いに対するほんの志じゃ、あとの三千両を持って宋へ渡り、一千両は育王山いくおうざんの僧に寄付し、二千両を宋の皇帝にお渡しして、この重盛の後世を弔って貰うよう、お頼みしてきてくれ」

 妙典は、忠実に重盛の言葉を守り、宋に渡ると、育王山の方丈、仏照禅師徳光に逢い、重盛の言葉をつたえた。禅師は、はるばる万里の波濤を越えてやってきた奇特な信仰心に感激し、二千両を皇帝に奉り、事の子細を奏上すると、皇帝も喜んで、五百町の田地を育王山に寄進した。今日でも、育王山では未だに、日本の大臣、平重盛の後世を弔っているという。



 重盛に先立たれて以来、清盛は福原の別邸に引きこもったまま、世間に姿を見せなかった。何かというと、清盛の行動を邪魔立てするうるさい重盛であったが、心の底から清盛のことを親身に考えている息子でもあった重盛が、遠く帰らぬ人となってみると、清盛には、彼のえらさ、立派さがつくづくわかるように思われてならぬのである。おのれとはまるで、異質の息子であり、考え方も随分と違っていた。しかし、親と子の間をつなぐ強い絆だけは、しっかりと結びついている。人の死など何とも思わない清盛が、重盛の死だけはよほど身にこたえたものらしかった。

 十一月七日の夜、地震があった。不気味な地鳴りが鳴りやまず、人々は恐ろしさに身の縮む思いであった。陰陽師おんようし安倍泰親あべのやすちか内裏だいりにかけつけて、

「この度の地震は、天下に大事の発生する前兆で、それも年内かこの月のうち、又もしくは今日のうちという切迫した事態でございます」

 と言上した。内裏じゅうはこの予言に色を失い、あわてふためいていた。若い殿上人の中には、

「何をあのへぼうらない師めが、人を騒がせおって」

 などとあざ笑うものも多かった。

 安倍泰親は、陰陽師として名声を博した晴明の子孫で、その予言の適確なことでは定評のある人だったから、彼のいうことに間違いがあるはずはなかった。

 続いて十四日、

「清盛入道が数千騎をひきいて、朝廷に攻め寄せてくるそうじゃ」

 という流言が京の町にひろがっていった。まことしやかなこの噂の出所はハッキリしなかったが、人心の動揺はいちじるしいものがあった。

 関白基房も日頃平家には弱味がある身なので、この噂におびえた一人である。彼は早速参内して、

「このたび、清盛入道上洛の一件は、この基房を滅す計画のようでございます。どんな目に逢いますことやら、主上のお身の上も気がかりになってかけつけて参りました」

 主上も、この基房の奏上には驚かれたらしい。

「そなたがひどい目に逢うのは、結局、朕の身を傷めつけることと同じじゃ、はてさてどうしたものかのう?」

 とはらはらと涙を流されたのであった。

 法皇にもこの清盛反乱の噂は耳に入っていた。うそにせよ、まことにせよ、現在の情勢で、清盛と対等に物がいえるのは、法皇一人ぐらいのものだったのである。法皇は、側近の浄憲じょうけん法印を使者にして法皇の言葉を清盛に伝えさせた。

「最近の内外の情勢は、未だ予断を許さず、人心の不安は、いよいよ拡大する傾向にある。朝廷では世間の成行きすべてに就て、いろいろと心を悩ましているが、何くれと頼りにもし、力と頼んでいるのは、その方一人である。それが近頃は、天下の平和を心掛けるどころか、朝廷に向って弓を引くという噂さえあるのは、一体何事であろうか?」

 清盛は、しかし使いの浄憲法印を、朝から夕方まで、待たせっ放しで逢おうともしないので、しびれを切らした法印は、使いの趣を源大夫季貞げんたいふすえさだに言い置いて、暇乞いをして帰ろうとした。

 すると、「法印を呼べ」という清盛の声がかかったのである。清盛は法印を前に置いて猛々たけだけしい声でいうのであった。

「法印御坊、わしのいい分も聞いてくれ、重盛の身まかったことぐらい、わしの心に打撃を与えたものは未だかつてなかったくらいだ。そなたもこの清盛の心持を察してくれるであろう。保元、平治の乱と、うち続いた天下の乱れが漸く治ったのも、実は重盛のかげの力が物をいったからだ。わしの働きなど問題にはならぬ。とにかく、朝廷の公事百般、もろもろの政治の事にこれほど誠を尽し、勤め励んだものがあろうか? 親の欲目にしても、重盛ほどの人材がざらにいようとは思われぬ。昔から、賢臣の死には、君主が礼を尽して逝去を悲しみ嘆いたものじゃ。しかるに法皇が、四十九日も済まぬうちに八幡に行幸、御遊ぎょゆうあそばされたのは、ひとえに、この清盛、重盛親子を煙たく思われている証拠であろう。更にもう一つ、重盛亡き後も永久に子孫代々変らずというお約束で下された越前国を、重盛の死後直ぐお取上げになったのは、こちらに不都合があったというおつもりであろうか。更にもう一つ、中納言欠員の際、摂政基実もとざねの子息、基通もとみち公を家柄といい、才能といい、申し分のない方と思い、この清盛があえてご推薦申し上げたのにお取り上げにならず、どう見ても不適格と思われる関白の子息を中納言にされたのは、道理にかなったこととは思われぬぞ、それから最後に一つ」

 そこで清盛は一段と声を張りあげて、じろりと法印をにらみつけた。

「例の鹿ヶ谷の陰謀は、何と申し開きなされる。あれは単なる私事の謀叛むほんではない、法皇が一枚加わっておられることは、もうとっくに調査済みじゃ。それほど迄に忌み嫌われ憎まれて、子々孫々まで朝廷に召し使われるのも覚束なく、余命いくばくもないこの清盛が今また片腕と頼んだ息子を失い、この浮世にも、ほとほと厭気がさしてきた。今迄はいろいろ遠慮もいたし、気もつかってきたけれど、これからは自分の勝手にしたいと思い立った次第じゃ」

 時には、かっと腹立たしげに顔を紅潮させ、時には又、ほろほろと涙を流して、かき口説く清盛を見ていると、法印は恐ろしさと同時に哀れさを覚えるのである。

 浄憲は、鹿ヶ谷の会合にも、法皇のお供でしばしば出席していたこともあり、今又目の前でそのことを言われた時は、さすがに首筋がひやりとするほどの恐ろしさを感じ、このまま、あの事件の片割れとして、なわを打たれでもするのではないかとさえ思ったが、もとより豪気な気性の法印は、気を持ち直して清盛にいった。

「お言葉よくわかりました。しかし貴方様の功労の大なることは、法皇も常にお認めになっておられるところです。しかし、鹿ヶ谷の陰謀に法皇が荷担しておられるとは、これは全く、空々しい讒言ざんげんでしょう、小人の言葉をうのみにして法皇のお心にそむくことは、臣下の道に外れたことと思いまする。およそ、天空は、青々として果てしなく、測り難いもの、君の心もそのように我々下々には測り知れないこともござります。貴方もこのたびのお腹立ちは尤もなことながら、よくよく考えられた方がお身の為でございます。とにかく貴方様のお言葉は、残らず法皇にしかとご報告いたします」

 おもねることなく、悪びれることなく、天下の勢力者、清盛の面前で、堂々と意見を開陳した法印の勇気は、後々までも賞賛のまとになった。



 法印からの話を聞かれた法皇は、もうそれ以上は何事も仰有おっしゃらなかった。清盛の話を、もっともと思われたのではなく、いっても無駄と諦めてしまわれたものらしい。

 十六日になって、突然関白基房始め四十三人の公卿殿上人に、追放の命令が下った。これは、かねがね清盛が考えてもいた事で、世間では当然予測されていたのだが、さすがに実際の命令が下ってみると、いささか無理押しの感じは免れなかった。

 関白基房は、鳥羽とば古川ふるかわのあたりで髪を下して出家した。

「こういう世の中では、こんな目に逢うのも仕方がないことじゃ」

 いさぎよい諦めの言葉にも、どこか割切れない淋しさが残っていた。年はまだ三十五の男盛り、礼智に長け、公平な物の観方で政治に臨んできた態度には、各界から異口同音の同情が寄せられた。基房の落着いた先は、備前国湯迫ゆはざまであった。

 大臣が流罪に処せられた前例は、今迄に六人程はあるが、現職の摂政関白で流罪となった例は今回が始めてであった。

 基房の後任には、清盛の婿に当る二位中将基通が、破格の昇進で、大、中納言をさしおいて関白に任ぜられた。これ迄にもそのような事はままあったけれども、余りにも情実の見えすいた清盛独断の人事には、人々は苦い顔をしていた。

 太政大臣師長は尾張国へ流罪と決まった。師長は、去る保元の乱にも土佐に流されており、その後、流された四人兄弟の内たった一人残って許されて帰京したのである。それからあとは、調子良く昇進を重ね、太政大臣の高位にまで上った人である。詩歌管絃、いずれおとらぬ風流人であったから、尾張国に流されても、専ら、月を友とし、風に心をうたい、琵琶を弾いたりしては、のどかな日々を楽しんでいた。

 ある時、熱田明神に参詣し、熱心に琵琶をかなでた。もとより、風流の道などてんから解らぬ村人たちは、この都落ちの貴人みたさに大勢集ってきたが、いつか、その妙なる調べに知らずしらず耳を傾けているのであった。

 名手の弾く琴には魚も躍りあがり、歌人の歌うを聞けば塵さえも動くといわれるが、師長の弾く琵琶にはまさにそのように、天地、大自然をも動かすほどの響きがこもっているのであった。

 次第に夜も更けゆく中で、琵琶の音はますます冴えわたるばかりである。今は唯、我を忘れて秘曲を弾き続ける楽人、石像のように押し黙ったまま指一つ動かさず聞きいる村人たち、||この微妙な雰囲気はまさに絶妙といいたいほどで、とうとう、しまいには、宝殿がぐらぐらと震動したといわれている。やっと我にかえった師長は、

「平家のために流罪にならずばこの瑞兆ずいちょうもみることができなかった」

 と感激の涙をもらすのであった。

 都では、免官される者も多く、重だったものでは、按察大納言資賢あぜちのだいなごんすけかた、子息右近衛少将うこんえのしょうしょうけん讃岐守源資時さぬきのかみみなもとのすけとき参議皇太后宮権大夫さんぎこうたいこうぐうのごんのだいふけん右兵衛督藤原光能うひょうえのかみふじわらみつよし大蔵卿右京大夫おおくらきょううきょうのだいふけん伊予守高階泰経いよのかみたかしなやすつね蔵人左少弁くらんどのさしょうべんけん中宮権大進藤原基親ちゅうぐうのごんのだいしんふじわらもとちからがそれで、そのうちでも按察大納言は、子息、孫共に都を追放の憂き目にあった。



 関白基房の家来、江大夫判官遠成ごうたいふはんがんとおなりという者がいた。日頃から平家には反感を抱いていたが、六波羅からの追手が迫ると聞き、息子江左衛門尉家成ごうさえもんのじょういえなりといっしょに揃って家を出た。家を出てみたが、結局は行く目当もなく頼る人もない二人は、稲荷山いなりやまにのぼって相談の結果、住みなれたわが家で死のうと、再び川原坂の宿所にとって返した。

 六波羅からは、源大夫判官季貞、摂津判官盛澄らが、武装兵三百騎を引き連れて押し寄せてきた。江大夫は縁に立ちはだかると、群がる敵をはったとにらみつけ、

「各々方、この場の様子、とくと六波羅に報告いたせ」

 といい放つと、矢庭に館に火を放ち、親子揃って従容として腹かき切ったのであった。

 多くの犠牲者を出し、四十余人もの人々が憂目を見た今回の事件も、発端はごく些細な出来事で、関白になった二位中将基通にいのちゅうじょうもとみちと、前関白基房さきのかんぱくもとふさの子師家もろいえの中納言争いが原因であった。基房が事件に関わりのあるのは当然として、他の人々は、全く無実な意味不明の免官であり、追放であった。一種の清盛の気まぐれがさせたいたずらにしても、これは、あまりに性が悪すぎた。いよいよ物情騒然たる世の中である。

「清盛入道の心は天魔に魅入られたのだろう」

「これからどんなことが起ることかのう?」

 京の上下は恐れおののいているのである。

 ところでここに前左少弁行隆さきのさしょうべんゆきたかという男があった。故中山中納言顕時なかやまのちゅうなごんあきときの長男で、二条院ご在世の折には、それでも結構羽振りをきかしたものだったが、この所十余年ばかり、失業状態が続いて生活は苦しい一方であった。この世間から全く忘れ去られたかに見えた男のところへ、ある日清盛から、「用事があるから、是非来るように」という使いがあった。行隆の驚きは、むしろ恐怖に近かった。今まで清盛に呼び出された人のうち、無事で帰ってきた者はなかったのだから無理はない。しかし、彼は世間から遠ざかっていた十余年間は、陰謀や権力争いとは、まるで無縁の生活をしていた。

「はてさて、わからぬのう、このわしが十余年間何もしなかったことは確かじゃが、ひょっとすると、人の讒言ざんげんということもあるのう」

 考えれば考えるほど、突然の清盛の呼び出しは彼にとって謎である。北の方らも、

「どんな目にお逢いになりますことやら」

 と袖を押えて、行くことをとめる始末だった。しかし清盛の呼出しが二度三度と重なってきては断わり切れなかった。行隆はやむなく決心すると、人から車を借りて西八条に赴いた。

 不安な想いで、西八条の門をくぐった行隆は、思いもかけず丁重な扱いをうけ、待つ間もなく清盛にじきじきの目通りを許された。

「お父君には、清盛もいろいろ大事、小事を相談いたしたものじゃったが、そなたのことも決して忘れていたわけでなく、長年、官を離れていることも気になっておったが、法皇のご政務中は中々そうもいかなかったのだ。しかし、今は遠慮は不要じゃ、明日からでも出仕して下されい、官職のことは追って手配しましょう」

 おだやかな顔に微笑まで含んでそういわれたときは、一瞬自分の耳を疑った。まるで夢を見るような思いで行隆は、とぶようにして家に帰った。

 とても帰らぬと思っていた行隆が、生きていたばかりか、嬉しい知らせを持って帰ってきたので、家中は唯嬉し泣きに泣くばかりであった。

 続いて清盛は、源大夫季貞を使者として、以後、支配する荘園を示させ、更に当座のまかないにと、馬百匹、金百両、米などを贈り、出仕の仕度にと、牛車、牛飼、雑色ぞうしきまで整えて贈った。この至れりつくせりの恩典に、行隆は唯呆然ぼうぜんとするばかりである。

「夢ではないのか、夢ではないのか」

 彼は、くりかえしつぶやいていた。翌日には、五位の侍中じちゅう、元の左少弁に復官したのである。時に行隆、既に五十一歳という年齢であった。



 治承三年十一月二十日、清盛の軍勢は法皇の御所を取り囲んだ。

「平治の乱の時と同じように、御所を焼打ちするそうだ」という流言が広がって、御所の中は、上を下への大騒ぎとなった。

 その混乱のさなかに、平宗盛が車をかって御所へやってきた。

「急いでお乗り下さい。お早く」

 単刀直入の宗盛の申し入れに法皇も驚かれた。

「一体何事が起ったのじゃ、わしに何か過失があったとでもいうのか、成親や俊寛のように遠国へ流すつもりなのだろう? わしが政務に口を出すのは、まだ天皇が幼いからじゃ、それもいけないというのなら、以後、政治には関りはもたぬことにしよう」

「いや、そのことではないようでございます。とにかく、世の中が一時いっとき落着くまででも、鳥羽殿にお移り頂きたいという父の願いでして」

「それならば、そなたが、そのまま供奉ぐぶしてまいれ」

 法皇の言葉に一瞬たじろいだが、それでも彼は供奉しようとはしなかった。この様子を見た法皇は、改めて亡き重盛の忠誠を思い浮べるのであった。

「やはり重盛とは格段におとった兄弟じゃわい。先年も、かような目に逢うところを、重盛の一身を賭しての諫言で、事なく済んだものだが、今や諫める者もいなくなれば、清盛の勝手だからのう」

 とつぶやかれたのであった。

 法皇は車に乗られたが、お供とは名ばかりで、数人の北面の武士と、金行こんぎょうという身分卑しい僧侶が一人、ほかには法皇の乳母の二位殿一人であった。法皇を乗せた車が都大路を南に下っていくのを見た人々は、改めて、いくつかの地震の予言を思い出し、法皇の胸中を察して悲しさに顔を掩った。

 鳥羽殿に着くと、どうやってまぎれ込んだものか、大膳大夫信業だいぜんのだいふのぶなりが法皇の御前に伺候した。このなじみ深い近臣の出現に法皇もひどく嬉し気に見えたが、側近くに呼びつけると、

「何か、今夜あたり殺されそうな気がしてならぬのじゃ、ついては、行水などして身を清めておきたいのだが」

 といわれた。唯でさえ、今朝からの出来事で気の転倒していた信業だが、法皇の仰せを有難くうけ給わると、早速、そのへんの垣根を壊して薪を作り、釜に水をくみ入れて、即製の行水をつくった。

 一方、法皇の近臣の一人、例の浄憲法印は、臆する色もなく一人で西八条の邸に出かけ、

「法皇が鳥羽殿へ行幸と伺いましたが、聞けば、人一人御前にはおらぬとのこと、余りのことと思いまする。私ひとりがお傍にいても別に差し障りがあろうとは思えませぬ。是非、お側にまいりたいと思いますが」

 といった。

 法印にはかねがね好感を抱いていた清盛は、

「貴方ならば誤ることもないわ、早く行きなさい」

 と異例のお供を許したので、法印は鳥羽殿に飛んでいった。

 法皇は、乳母の二位殿を横に坐らせて、お経を読んでおられたが、読みながらも、とめどなく涙を流しておられる様子に、法印もつい貰い泣きをしてしまった。

 二位の尼御前が、

「法印殿、法皇様には、昨日の朝、御所でお食事を召し上ってからは、夕べも今朝も召し上らず、夜分もお休みにならず、これではお命にかかわること故、心配いたしておりますのじゃ」

 と心細そうにいった。

「いやいや、平家も楽しみ栄えて二十余年、そろそろ限りのくる頃と思えます。まして、天照大神、正八幡、ましてや、ご信仰厚い日吉山王ひえさんのう七社が、法皇をお見捨てになるような事がござりましょうか。やがて賊臣は、水の泡の如く消え失せ、再びご政務は法皇の御手に戻ること間違いなしと存じまする」

 と面に誠を現して慰める法印の言葉に、法皇の顔にも、漸くほっとした思いが立ち戻られた様子であった。

 主上は、関白の流罪からこの方、引き続いた多くの殿上人の災難をひどく気に病んでおられたところへ、法皇が鳥羽殿にお移りになったと聞いて以来、食事もろくろく咽喉のどを通られず、病気と称されて寝殿にこもる日が多かった。

 夜になると、臨時のご神事と称し、清涼殿でひたすら法皇の無事を祈られるのであった。



 その頃内裏だいりの主上から、鳥羽殿にある法皇の許に、ひそかにお便りがあった。

「かような世になりましては、天皇の位にあっても何の意味がありましょうか? むしろ宇多法皇、花山法皇の例にもならい、出家して山林流浪の行者にでもなろうかと思います」

 法皇はこれに対して直ぐお返事をおつかわしになった。

「余りそのようにはお考えにならない方がよろしいでしょう。貴方がそうやって御位に即いていられるのも、私にとっては一つの頼みなので、仰有おっしゃるように出家でもなさってしまわれたら、誰を頼りにしたらよいでしょうか? とにかくこの私が、どうにかなるのを見送ってからのことになすって下さい」

 主上は法皇の返書を顔に押しあてて、涙ぐまれるのであった。

 ご信任厚い公卿殿上人も、今は、死んだり殺されたりして、古くからお仕えする人で残っているのは、宰相入道成頼さいしょうにゅうどうなりより民部卿入道親範みんぶきょうにゅうどうちかのりの二人という淋しさであったが、この二人も、近頃の時勢に厭気がさし、出家の決心を固め、親範は大原、成頼は高野にと、それぞれ分け入って、静かな読経の日々を過す身となった。

 二十一日、天台座主ざす覚快かくかい法親王が、座主を辞任、変って再び前座主さきのざす明雲めいうん大僧正が座主になった。

 ようやく思い通りに事も運び、関白には娘婿が就任し、後顧の憂いなしと見た清盛は、

「政務は主上のよろしいように」といって福原に引きこもってしまった。

 宗盛がこの事を主上に言上するために参内すると、主上は、

「法皇自らがお譲り下されたものなら、喜んで政務も見ようが、そうでもないものには関りは持ちたくない。関白とお前とで好きなようにやるがよかろう」

 という素気ないご返事であった。

 城南離宮鳥羽殿せいなんのりきゅうとばどのに、冬も半ば近くをお過しになった法皇の日常は、わびしいという一言に尽きるものがあった。

 雪の降りつもった庭には訪れる人もなく、水の[#「水の」はママ]張りつめた池には鳥の羽ばたきも聞えなかった。大寺おおでらの鐘の音を聞いていると、白楽天の詩にある遺愛寺いあいじの鐘を聞く想いがし、又西山にしやまの雪景色は香炉峰こうろほうの眺めを思わせた。かつてはお耳に達したこともないようなきぬたの響き、道を行く人の足音、車のきしりなど枕辺の近くに聞えることもあり、雲井の上では及びもつかない下々の生活にも、思いをはせられることが多くなっていた。

 何かにつけて思い出すのは、盛んなりし頃のいろいろのお遊び事、ご参詣の行事、又御賀おんがの儀式の盛大なさまなど、事々に涙の種とならないものはなかった。

 そんな明け暮れのうちに、いつしか治承三年も暮れて、新しい年がやってきた。






底本:「現代語訳 平家物語(上)」岩波現代文庫、岩波書店

   2015(平成27)年4月16日第1刷発行

底本の親本:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社

   1960(昭和35)年2月12日初版発行

初出:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社

   1960(昭和35)年2月12日初版発行

※第三巻「按察大納言資賢あぜちのだいなごんすけかた」と第八巻「按察使大納言資賢あぜちのだいなごんすけかた」の混在は、底本通りです。

※著者名は、本来は「尾※(「山+竒」、第3水準1-47-82)士郎」です。

入力:砂場清隆

校正:みきた

2022年2月25日作成

2022年4月29日修正

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