婦人に
何ういふ
書物を
讀ませたらいゝかといふ
事を
話す
前に、一
體、
婦人のみに
讀ませるといふやうな
書物があるかどうか、それを
考へて
見なければならない。
すると、
先づ
裁縫の
本とか、
料理の
本とか、
或は
又育兒に
關する
本とかいふものがある。
成る
程これは、
大抵の
場合、
婦人のみに
用のある
書物である。
併し、
婦人に
何ういふ
本を
讀ませたらいゝかといふのは、
料理とか
裁縫とか
育兒といふものよりも、もつと
婦人の
精神的要求を
充たすべき
書物を
尋ねるのであらう。だから、この
種の
書物以外に、
婦人向きの
書物を
考へて
見る
必要がある。
第二には、
偉い
婦人の
傳記である。
從來、
婦人の
讀物といへば、ジヤン・ダーク
傳とか、ナイチンゲール
傳とか、さういふものを
推薦する
人も
少くない。
併し、さういふ
偉い
婦人の
傳記は、
料理や
裁縫と
同じやうに、
果たして
婦人のみに
役立つものであらうか、
言ひ
換へれば、その
傳記の
主人公が
婦人だといふ
事が、それ
程讀者たる
婦人の
上に、
重大な
影響を
持つであらうか。
成る
程婦人といふ
限りでは、ジヤン・ダークも、ナイチンゲールも、
良婦之友の
愛讀者も、
共通なのには
違ひない。
併し、
性の
上の
共通といふ
事が、
果たして、
思想や
感情の
共通といふ
事よりも、
重大な
影響があるかどうか
疑問である。
僕は、ジヤン・ダークが
如何に
生きたかを
知るよりも、
少くとも
現代の
婦人にとつては、
如何にトルストイが
生きたかを
知る
方が、
興味があるだらうと
思ふ。
偉い
婦人の
傳記以外に、
屡々婦人の
讀物として
推奬されるのは、
婦人の
書いた
書物である。これも、
偉い
婦人の
傳記の
通り、
著者も
讀者も
婦人だといふ
事は、
必ずしも、
他の
書物よりも
推奬すべき
理由にはなりさうもない。
つまり、
料理とか
裁縫とか、
育兒とかといふ
書物以外に
||婦人が
實生活の
中に
勤める
役割に
關した
書物以外に、
婦人にのみ
用のある
書物があるかどうかといふ
事は
疑問である。
婦人も、
婦人たるより
先きに、
人間なのだから、
書物の
選擇などに
拘泥せず、
何んな
書物でも、よく
讀んでみるがよい。
又、
實際、
現代では、どんな
書物でも、
讀みつゝあるのだらうと
思ふ。
どんな
書物でもといふ
事は、
甚だボンヤリしてゐるやうであるが、
實際、一
體書物なり、
書物の
選擇といふものは、
各人の
自由に
任せる
外はない。どういふ
本がいゝといつても、
讀者が
其處まで
進んで
居なければ、どんな
傑作を
讀んでも、
役には
立たない。
その
證據には、
婦人雜誌に
出て
居る
女學校の
校長の
説などを
讀むと、
色々の
本の
名前を
擧げてゐても、ことごとく
尤もらしい
出鱈目である。あゝいふ
先生に
教育されるのだと
思ふと、いよいよ
我々は、
婦人のために、
讀書の
必要を
思はざるを
得ない。
併し、
今も
言つた
通り、どういふ
書物と
云つたところが、
誰でも
夫れを
讀みさへすれば、
必ず
爲めになるといふ
書物は、
出版書肆の
廣告以外に
存在する
筈はないのだから、
甚だ
頼りのないものである。
既に
萬人向きの
書物がないとすれば、
問題は、
讀者自身の
工夫に
移らなければならぬ。
僕は、
如何なる
本を
讀むかといふ
事よりも、
寧ろ
大事なのは、
如何に
本を
讀むかといふ
事では
無いかと
思ふ。
では、
如何に
讀んだらいゝかと
言へば、これも、
多少人に
依つて
違ふかも
知れないが、
兎に
角、
何者にも
累らはされずに、
正直な
態度で
讀むがいゝ。
何者にもと
云ふ
意味は
世評とか、
先輩の
説とか、
女學校の
校長の
意見とか、さういふ
他人の
批判を
云ふのである。
讀者自身、
面白いと
思へば
面白い。
詰まらないと
思へば
詰まらない。
||さういふ
態度を、
無遠慮に、
押し
進めて
行くのである。さうすると、その
讀者の
能力次第に、
必ず
進歩があると
思ふ。
これは、
獨り
讀書の
上ばかりではない。
何んでも、
自己に
腰を
据ゑて
掛らなければ、
男でも
女でも、一
生、
精神上の
奴隷となつて
死んで
行く
他は
無いのだ。
●表記について
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