(妹より兄へ)
××日附、佐治さんを接近させてはいけないという御手紙、本日拝見致しました。いつも通り、いろんなことに気を配って下さるお兄様だけれど、
そういえば思い出すけれど、漆戸が一度いいました。「佐治という男は、学校時代から一寸変ったところがあって、他人から随分誤解されたものだが、
漆戸の病気、本当はあまり好くなくて、困っています。医者のいうのには、この冬を越せるようだったら、見込みがいくらか出るんだそうです。一週間前に喀血して、近頃は痩せ方もひどい。この冬のうちに、
お兄様の方の御病気はどうなんですの。
(兄より妹へ)
三日ほど前、足試しのつもりで、宿の近くを四五町歩いて見た。歩けたには歩けたが、無理だったと見えて、あとの疼痛が激しく、今日やっと苦痛が薄らいで来た。心配してくれたけれど、僕の病気は大体こんな程度。気長にして、ここの温泉にさて、佐治佐助の件。
私からの手紙が大変簡単過ぎたため、君には私のいうことがよく呑み込めなかったらしいね。無理もないことだ。佐治は、私にとっても友人だし、彼のことをあまり悪くいわずに置こうなどと考えたのだが、どうもそれでは不徹底で、結局、私の知っていることや考えていることを、ここで全部いって置かねばならないだろう。
佐治を何故接近させてはいけないか、その理由は、大体二つあるが、先ず割に小さな理由の方からいうと、それは彼が非常な美男子であるということだ。
彼の美男振りについては、君が彼と直接知っているし、詳しい説明をしなくてもいいが、大学時代、彼については既に、
「佐治を見た女は不幸だね」
という深い意味の言葉が、ある教授の口からさえいわれたものだった。
彼は牛込の方にある某先輩の家に寄寓していて、一時そこから大学へ通ったことがあったが、その頃彼が通学するために乗る市内電車には、若い女が随分沢山乗ったものだそうだ。女学生、交換手、そのほか職業婦人といった手合が、自分達の時間に遅れるのも構わず、或は殊更に廻り道をして、佐治の電車を待ち構えていたというのだ。まるで嘘のような話だけれど、必らずしも嘘でない証拠には某女学校で佐治に
佐治が寄寓していた先輩の家では、その細君が、離別された。
政治家として知名なS代議士の令嬢は、どこで手に入れたか佐治の写真を持っていたことが発見されたため、実業家M氏の令息との婚約が破れ、その結果がやがてS代議士の財政的破綻政治的失脚になったとも伝えられている。
更に痛ましいのは、前にも一寸述べた某教授の令嬢が、これは気の毒なくらいの醜女だったそうだが、佐治宛に非常に長い手紙を書き、しかもその手紙を実際に佐治のところへ出す勇気もなく、毎日持ち歩いているうちに、彼女はD英語塾というのの生徒だったそうで、その手紙を朋友に見られたのを恥ずかしがり、カルモチン自殺を遂げてしまったことだ。
それでこそ、教授のいった言葉の意味がよく呑み込めるだろう。
佐治が、彼自身から女に働きかけたということをまだ聞かないのは、いささかなりとも彼の面目を保つに足る。だから、正しい意味では、彼は女
君が、佐治を相手にして火遊びをする女だとは思わないけれど、用心に
理由第二||。
これは、君の旦那さんが「佐治は少し変ったところのある男だ」といったとかで、この言葉に関聯していると見てよい。どこが変っているか、一口にいえば彼は変に悪党ぶる癖がある。このことは、まア漆戸だとか私だとか、佐治ととりわけ親密だったものだけが知っているのだが、彼は一種の偽悪病患者なのだ。学生時代、彼は毎試験期に、
このことが、いち早く私達の仲間に知れた時に、佐治は、
「馬鹿な奴さKは。あいつ、僕の出鱈目に喋ったことを、本当に出来ることだと思やがったんだね。ああいう低能児にかかっちゃ敵わない。こっちで迷惑してしまう。僕は元来頭の悪い奴が大嫌いで、世の中の低能児なんてものは、むしろ一時に殺戮してしまった方が、世の中をどんなに愉快にするか知れないと思っているんだが、Kなどは、差しあたりその被殺戮者の筆頭だね。あいつは、結局、順当に学校を卒業しても、決して出世する男じゃないよ。いつかは、今度と同じようなヘマをやって大失敗を重ねる男だ。要するに世の中じゃ、頭がよくって、犯罪を巧みにやるような奴、悪いことをしても、それを誰にも知られないでいる奴が、一番手っ取り早く成功するんだからね。Kなんて、実に下らない存在さ。え? 何、あれにもう少し同情してやれって? 冗談じゃない。いくら僕の喋ったことに誘惑されたのだからって、あんな奴に同情してやるほど、安価なセンチメンタリズムを僕は
いかにも強がっていったものだ。
あとで聞くと、佐治は、Kのつかまった時警察へ自ら出頭し、実はその為替横取り事件は、これこれで自分が案出した方法だといい、それが実行出来るかどうか、Kと賭けをしたのだという嘘を言い拵えて、そのほかKのために百方陳弁したそうだ。Kに対する佐治の友情で、係官もひどく感激させられたというし、Kは涙を流して、自分が却って佐治に迷惑をかけたことを謝ったという。それのみか、佐治は、Kの既に費消した金を、全部自分で弁償し、とにかくKを警察から救い出してさえいるのだ。
佐治が私達に向っていった強がりと、この実際の行為と、いずれが彼本来の面目であるか、私は、未だに決定することが出来ぬような気がする。
美貌を利用して、女を騙すことぐらい朝飯前だといい、時には、数人の女を事実手玉にとっているが如く見せかけて、一度もそれで尻尾を出したことがない。前いったようにもろもろの恋愛事件が、
彼は、こうもいったことがある。
「僕はね、どうも君達から、
当時の私は、佐治がいかにもうまいことをいうので感心したものだ。ただ、今にして思えば、佐治が、本音でこんなことをいったのか、それとも面白半分であったのか、その点が多少曖昧にもなって来る。
偽悪病が、最後まで偽悪病であればよろしい。けれども、いずれの日にか、彼の偽悪が偽悪でなくなる時が来ないとは断言出来ない。その意味で私は、佐治を危険人物と
なお彼の警戒すべき性格については、以上のほかいくらでも話があるように思うが、今日は疲れたから、これで
僕のいうことは、解ってくれたろうね。
漆戸には、病気を、忍耐で征服しろといって伝えてくれ給え。肺なんか、黴菌と忍耐との闘争で、根気の強い方が勝つもんだそうだよ。愛する妻のために、どんなことがあっても生き伸びてくれなくちゃ困るわっていって、君から甘えてやるのも一つの手だね。
じゃ、左様なら。
(妹より兄へ)
お兄様の心配症なこと、喬子、漆戸と二人で大笑いしちゃいましたわ。今度みたいな面白い手紙は、あたし、今までに誰からも貰ったことがない。モチ、お兄様の気持はよく解るし、それについては、漆戸もどんなにか有難がっているのだけれど、あたしがあの手紙を見せると、お兄様のこと、被害妄想狂だぞこれは||って漆戸がいうの。偽悪病患者と被害妄想狂なんて、とても、絶好の取組ねえ。
昨日も佐治さんが見えたので、喬子、お兄様の手紙のことなんか無論何も話しやしないけれど、佐治さんをふいに、「バレちゃん」て呼んでやった。佐治さん、ひどく
漆戸と話している時、あの人、こんなことをいいました。
「ねえ漆戸君。僕は此頃つくづく自分が駄目になったと思うよ。昔は僕も、相当野心家で、勉強もしたし、溌剌たる意気も有っていた。ところが、学生生活を終って社会に実際出て見ると、すっかりもう僕はサラリーマンになり切ってしまって、いつもいつも考えていることは、早くサラリーが上ればいいとか、上役の感情を損ねてはならないとか、役所で何か手柄をして長官に認めて貰いたいとか、それに類した事柄ばかりだ。往年の大言壮語が気まり悪くなって来る。これではいけない、昔の意気や野望を盛り返せという叫びが、時として頭の隅から聞えて来ても、イヤイヤ、現在だって何も不幸ではない。同期の卒業生などに較べると、自分は出世が早い方だし、先ず成功者のうちに入れそうだ。焦ってはならぬという考えが湧いて来てしまう。||実に駄目だね。僕は、もしかして僕を、昔の僕に復帰させようというのなら、結局のところ、ここらで素晴らしい恋愛でもやって、昔の若さを再び燃え立たせにゃ駄目だろうと思っているよ。正直にいって、僕は、女に持て
あたし、この言葉こそ、佐治さんの本音だろうと思います。誰かあたしの知っている
そういう恋人が出来てしまえば、佐治さんは、もっと元気のいい人になるだろうし、かといって、まさか昔の偽悪病患者になどなりっこないわ。
今日、東京は初雪。
漆戸は、あの後、どうしてか妙に身体の工合がいいらしく、この分なら、大丈夫だと自分でいっています。御安心下さい。
(兄より妹へ)
被害妄想狂云々のお手紙、実に参ってしまった。そういわれれば、成程僕は、被害妄想狂かも知れないと思うのは、今度の君の手紙でも、またまた余計に心配になって来たからだ。僕は佐治について、余り喋り過ぎたのじゃないかしら。そうして、そのために、今まで君の心のうちで、何も知らず眠っていた佐治に対する好奇心を、横っちょから掻き立ててしまったのではないかしら。
喬子。気を付けろ※[#感嘆符三つ、181-5]
君は、佐治のために、恋人を探してやろうなんていっている。これは、要らぬことだぞ。決して決してそんなお世話を焼くものじゃない。それはお前が意識せずして、佐治に好奇心を抱き始めた証拠だ。
異性が異性に対する好奇心は、危険な火遊びの第一歩だ。既に、好奇心を有ち始めた君に対して、僕がこういうことを指摘するのは、いいことか悪いことか、僕には判断出来ない。手紙を書きながら躊躇しているのだけれど、とにかく、君はよろしくない。佐治を、悪党だと思ってくれ。頼む。私は、心配だ。リウマチでなかったら、すぐにも東京へ戻って、佐治に絶交を言渡し、お前と佐治とこれ以上の接近を防ぎたいほどに思う。
漆戸宛、別の書信で、佐治を警戒するよういってやった。被害妄想狂と
(妹より兄へ)
クリスマス、それから年の暮れ。何だか気持の落着かない時になって来ました。毎年のことで面倒臭い贈物とか、漆戸が、いつもの通り、クリスマスのお祝いを家でやれとかいうので、喬子、目茶苦茶に忙しく、お兄様への御返事、一週間近くも放ったらかしにしてしまった。堪忍してネ。
あたし、此頃になってつくづく思うのだけれど、お兄様、
あたし、いけない女なのでしょうか。
此頃のあたしは、佐治さんと直接視線をカチ合せるのが恐ろしいように思うし、漆戸と佐治さんとが何か話し合っているところへ、紅茶など運んで行っても、変に不安なものを感じてしまう。出来るだけ不愛想に振舞ってはいるつもりだけれど、それが心からの不愛想でないことを、良人からも佐治さんからも、既に看破されているような気がする。
漆戸が、あの後、日増しに元気になってくれたし、いつかは、あたしをもっと力強く護ってくれそうなので、それを心頼みにもしています。そしてあたし、いろいろ考えた末に、
最賀さんは、お兄様も、二三度会って御存じの筈ね。漆戸の後輩で、今は漆戸のやっている事業のパートナーです。無口な、ブッキラ棒な、怖いみたいな人だけれど、事業上の手腕は素晴らしいとかで、漆戸がすっかり信用しています。奥さんを去年亡くして、お淋しいようでもあるし、ここの家に同居していれば、事業上便利でもあり、それに喬子としては、漆戸以上に、喬子をじっと監視してくれる人が欲しい。それやこれやで、最賀さんに来て戴いたわけです。
自分で自分の心を信用出来ず、監視人を置くなんて、喬子も随分おバカさんネ。
でも佐治さん、何だか、ひどく恐ろしい人のように見え出して来たのだから仕方がない。あたしもお兄様の被害妄想狂にかぶれちゃったのかしら。お兄様の御病気は、近頃どうですの?
(兄より妹へ)
御手紙拝見。実に今度は、とりとめのない手紙だったね。私は三度も四度も、今度の君の手紙を読み返して見たのだが、どうも君の真意がよく解らなくて困っているよ。というのが、君のいうことは、変に不自然じゃないか。
佐治に、君は好奇心を有っているといって、正直に告白しているようだが、その癖、ではなぜ佐治を遠ざけないのだ。佐治を恐れながら、彼の出入を相変らず許していたのじゃ何にもならない。
君は、何か嘘をいっているね。
嘘でない、ほんとの手紙を待っている。
今日はこれだけ||。
(兄より妹へ)
どうしたのだ喬子!前の手紙を出してから今日で一週間になる。その間にクリスマスも過ぎてしまったが、お前は、まだ私へ返事をくれないね。
君が、嘘をいっていると書いてやったのが気に障ったのか? 気に障ろうがどうしようが、君からの前の手紙は、矢張り嘘だらけだと思う。
もう一度訊くが、君は、本当に佐治をどう思っている? 佐治を、もう君が、好奇心どころじゃない、愛し始めたのではないかと思って、私は気懸りでならない。それに、君から何もいって寄越してくれないのは、君を中心にして、漆戸と佐治との間に、何か恐ろしいことが起りつつあるためではないかという邪推まで起って来る始末だ。それが、単なる被害妄想であってくれたら、どんなに私は嬉しいか。
君の気持を、正直にいえないようだったら、偽悪病患者佐治佐助の最近の動静だけでも知らせてくれ。そうすれば僕は、かなりいろいろのことを判断出来るだろう。私は、実は感冒にやられて、少しまたリウマチを悪くしてしまった。東京へ戻って、直接君や漆戸、その周囲に気を配ってやれないのが残念だと思う。
折返して、御返事を待つ。
(兄より妹へ)
謹賀新年。今日でまた一週間になるよ。
正月早々、変なことはいいたくない。
賀状ぐらい、くれてもよくはないか。
(兄より妹へ)
去年の暮からかけて、私はスタンダールの小説『赤と黒』を読んだ。そしてこの中の主人公ジュリアンが、少なからず佐治佐助に似ていることを発見した。ジュリアンは、非常に美青年で、頭脳の明晰な男で、しかも野心家だ。美しいレナール夫人は、ジュリアンを避けよう避けようと心懸けつつ、遂にジュリアンと姦通する。また、侯爵令嬢ラ・モール嬢は、身分の賤しいジュリアンを一生懸命軽蔑しようとして、しかも妊娠し、彼を世界で一番偉い男のように尊敬し、愛してしまう。最後にジュリアンは、己れの立身出世せんとする矢先きを、レナール夫人の中傷によって妨げられ、レナール夫人をピストルで殺害する。殺害は、単にレナール夫人を傷つけたのみであったがジュリアンは死刑に処せられるという筋のもので、私は、今偶然にこんな小説を読んだことを、何かの暗合、もしくは不吉な前兆でありはしないかと願わくば、君が、レナール夫人であってくれぬように。そして佐治が、ジュリアンとなってくれぬように。
今日は正月四日。昨日も一昨日も、そして今日一日、私はお前からの便りを待って、結局待ち呆けを食わされてしまった。漆戸からさえ、何ともいって寄来さぬのはどうしたことか。ここで例の如く、僕一流の想像を廻らして見ると、君は、僕から漆戸宛に出した書信を、
愛する妹よ。
まだ時期は遅過ぎはしない。
詳しいことを知らせてくれ。
(妹より兄へ)
ウルシド、シンダ、サジ、ケイサツヘツレテユカレタ、コチラヘコラレヌカ。(兄より妹へ)
ユカレヌ、イサイ、フミニテシラセ、シンブン、オクレ。(妹より兄へ)
親切な、そして恐ろしいお兄様。お兄様は、到頭、悲劇の結末を言い
昨日まで、私は、何が何だか、悪夢の中にいるような気持で過ごして来ました。もう、凡てがあまり突然で、眼の前に見ることが、どれも信じられなかったのです。漆戸が死んだことも、遺骸を火葬場へ持って行って、その代りに、骨壺を貰って来たことも、皆、まだ
お兄様に、どこからお話を始めたらいいか、とてもまだ筋道立ったことは書けませぬけれど、事件前後のあらましだけを報告させて下さい。
お兄様が偶然の暗合ということを仰有ったけれど、全くそれは偶然過ぎるほどの暗合で、あれは、恰度にお兄様が、可哀想なレナール夫人やジュリアンのことを書いた手紙を下すった、その晩のことでしたの。ここで
その晩||。
折悪しく家の中は、喬子と漆戸と女中のお竹というのと三人だけだったのです。最賀さんは三日ほどの旅行中で、竹や以外の女中や書生は、七日正月の終りの日でもあり、私が暇を与えて遊びに出しましたので、恰度八時半頃だったでしょう。
私は、漆戸の翌日の分の薬を、お竹に
発電所の停電だろう、それとも、引込線のヒューズでも飛んだのかなと思いながら、じきに
まだ台所でマゴマゴしていた竹やは、あとでいうのに、私が電話をかけていて、ふいに倒れるとか何かにぶつかるとか、怪我でもしたのではないかと思ったそうですが、はじめ私も、その凄じい銃声が、あまり突然でもありましたし、どこで起ったのか、すぐには見当の付き兼ねる気持でした。
竹やが、やっとこさ蝋燭を
漆戸は、ベッドへ、仰向けに寝たまま、頭をピストルで撃ち貫かれて絶命していたのでございます。
私が電話をかけに行ったあの時までは、確かに何事もなかったのに、それも、近頃は病気から来る熱もぐっと下って、この分なら春先きには起きられるかも知れぬなどと、嬉しそうに話していた漆戸だったのに、もう良人は、一口も物を言ってくれません。悲しい
それからあとのことは、私から申すまでもなく、一緒にお送りした、東京の新聞で御覧になって下さいませ。
警察の人達が参ってから、最初は、兇器のピストルが問題になりましたけれど、そのピストルは、良人のベッドの
盗難の形跡はありません。
犯人は、誰かということになり、この家へ出入する者を調べ始めると、佐治さんが、じきに疑われるようになりました。どこの誰がそんなことを警察の耳へ入れたのか、佐治さんと私とのひそやかな恋愛問題が、ちゃんともう知れていて、その上悪いことには、事件の起った当夜八時半頃、佐治さんは、この東京のどこにいたのか、ハッキリしたことを申しませんでした。警察で当夜の行動を訊ねられると、はじめ佐治さんは、その時刻に、上野公園の科学博物館前のベンチにいたのだと申立てたそうで、しかしそれが、私との
佐治さんが偽悪病患者で、いつかは、最も素晴らしい犯罪を企らんで見せると公言していたというお話や、ジュリアンが、矢張りピストルで、レナール夫人を撃ったというお話を、私は、今さらながら思い出しています。
昔から、間違ったことを仰有らぬお兄様。そして、実に怖いお兄様。
今の哀れな喬子を慰めて下さい。
(兄より妹へ)
可哀想に。普通の人生では滅多に
さてしかし、君からの手紙で、大体呑み込めたとはいうものの、生れ附き、何事もいい加減では放ったらかしに出来ない、しかも、人一倍
(一)犯人は、電燈を消して置いてピストルを発射している。ものを狙うのに、暗黒を殊更ら選ぶのは常識に反するようだ。当局の人は、これを何と解釈しているのだろうか。
(二)君の手紙だと、犯人は、君が漆戸の部屋を出て電話をかけに行こうとした時、電燈を消したことになっている。暗がりの中で、君の電話は、幾度も話中で、かけ直しをしたらしい。それらの事柄に間違いはないか。
(三)漆戸家の中庭の様子を、私は、案外ハッキリ記憶せぬが、ピストルの落ちていたという山茶花は、漆戸の病室から東南へ六七
(四)最賀君は、私も相識の間柄だ。三日ほどの旅行中だったというが、その旅行先きはどこだったか。
以上、大至急御返事を待つ。
(妹より兄へ)
御手紙拝見致しました。ちっとも喬子のこと、慰めても下さらず、箇条書きのお訊ね、お兄様も随分だと思いました。私からの手紙の書き方がいけなかったのでしょうか。それとも、佐治さんに対する私の不心得を、お兄様、怒っていらっしゃるのでしょうか。
では、喬子も、箇条書きにして御返事差上げますわ。
(一)漆戸は、傷口の様子から判断して、非常に近距離から、射殺されたことが判っているようです。ベッドに寝ているのだし、しょっちゅう、病気見舞になど来ている人だったら、暗がりでも、漆戸の頭がどこにあるか判るだろうし、また、侵入した時、声でもかけて、聞馴れた声だということを知らせて安心させ、その上でベッドへ近づいたら、十分、狙い撃ち出来るだろうという、当局の人の話でした。
(二)電燈の消えた時のこと、その通りです。間違いありません。繰返して申すと、竹やは台所で蝋燭を探してい、私は、電話でじれっぽくなっていた時、暗がりの中で、
(三)山茶花も、お兄様の仰有る通りです。
(四)最賀さんは、名古屋へ旅行中でした。何か、最賀さんに、お疑いが有るのでしょうか。本当を申すと、私も、もしかしたら、あの人ではないかということを考えて見たこともあります。最賀さんは事業上、漆戸と利害関係が深いのですし、ひょっとしたら、私達の知らないことで、漆戸との間が、円滑でないようになっていたかも知れません。けれどもあの人は、事件の翌日の夕方東京へ戻って来て、大変吃驚していました。名古屋にいたというアリバイも確実だし、目下、どうにも疑えません。犯人が、佐治さんでなく、最賀さんだということになったら、私、何がなし、ホッと出来るように思います。そうなれば、少なくとも今度の事件は、私と佐治さんとの忌まわしい恋愛問題が原因ではなかったということになり、肩の重荷がいくらかでも減りますもの。
今日は頭が重たいし、以上の御返事だけで堪忍して下さい。
もし、お兄様の力で、最賀さんが犯人だということを発見して下すったら、喬子、本当に感謝します。名古屋へ行ったと見せかけて、実は行かなかったというようなことでもあるのでしょうか。それについて、お兄様の観察を、近いうちに聞かして下さいネ。今、喬子の気持を救うものは、恐らく、それのみでしょう。お兄様からの御手紙がどんなに力頼みとなるか、お兄様の想像以上です。
では、これで||。
(妹より兄へ)
冬の雨というものは、底知れず佗びしいものですわね。喬子、此頃は、ひどい泣虫になってしまいました。良人の部屋へ行って見ると、ガランとして淋しい。「あなた!」と呼んで見る。小さな小さな声で呼んで見る。そうして、誰も答えてはくれない。でも喬子、じっと耳を澄まして、漆戸の返事を待っていて、そのうちに、声を立てて泣かずにはいられなくなってしまうのです。事件のあった直後は、それでも気が張っていました。
お葬いも、済ませました。
そしてそのあとは、滅多に誰も訊ねて[#「訊ねて」はママ]来ない。墓のような静けさです。静けさを掻き乱されたくはない。このしーんとした家の中で漆戸のことだけを思い出していたい。でも、耐まらなく淋しくなって来るのですもの。
最賀さんも、漆戸がいなくなった家に、いつまでもいられないといって、四谷の方のアパートへ移ってしまい、佐治さんは、無論、参りません。
漆戸には、遠い親戚が、それも、数えるほどしかなかったので、その人達もあまり見えず、また見えたにしたところで、それは漆戸家の財産目あて、何かうまい形見分けにでも有りつこうという考えばかりで。
そうした人々の浅間しさを見ると、喬子、もう、死にたくなります。
お兄様は、どうしてお便りを下さらないのでしょう。お兄様が、私の只一人の力頼みなのに、あれからもう一週間、喬子は、世界中にポツンと一人きりでいます。
お身体の工合でも悪いのでしょうか。
お便り、下さいましネ。
(妹より兄へ)
昨日、新聞で見ると、お兄様の行っていらっしゃる温泉場の附近が大変な雪で、汽車など不通になったと出ていました。まさかとは思うけれど、お変りはないのでしょうね。また五日も喬子は、ボンヤリと漆戸のことやお兄様のことばかり、考えて過ごしたのですもの。この前の手紙で言落しましたけれど、佐治さんについてはその後、まだ取調べが終らないそうです。佐治さんの特異な性格などのことも、警察では、だんだん明らかになった様子で、誰か矢張り佐治さんやお兄様と同じ学校を出た方が佐治さんを一種の悪魔主義の男だといったとかで、偽悪病患者というのと言葉は違いますけれど心証は益々悪くなって行くようです。
佐治さんが犯人でないとなれば、少なくとも喬子は、大変気が楽になれると思った、あの希望は、遂に駄目なのでしょうか。地下に眠っている漆戸を呼び起して、犯人は誰だかと訊ねることが出来たらどんなにいいでしょう。漆戸に指差されたら、いかに強情な鉄面皮な犯人でも地に平伏するよりほかないでしょうもの。||でも、そんなことを考えるのは恐ろしい。それは、漆戸の霊に対する冒涜ですわ。
それはそれとして、最賀さんの件はどうなりました?
お兄様だったら、或は、最賀さんが名古屋へ行ったというアリバイを打ち破ることが出来るのではないかと思って、喬子、まだその期待を捨てていません。
どうぞ、御返事下さい。
(兄より妹へ)
愛する妹よ||。殆んど二週間、私はお前に御不沙汰をしてしまった。淋しいという手紙、それから、最賀君のことを知らせてくれという手紙、二通共、確かに読んではいるのだが、ついでにここでいって置こう、その二通の手紙は、常のお前にも似ず、何とたどたどしい文章だったろう。漆戸を喪った悲しみが、そんなにもお前の胸を鋭く
妹よ||。
お前は、哀れな女だ。お前は、
最賀君が犯人だったらどんなに嬉しかろうとお前はいったね。なんとそれは、巧妙なお前の言廻し方だったろう。私の調査によると、最賀君は、事件発生当時、事実名古屋に滞在していたのだ。そして
私は、遠隔の地にいるが、最初にお前から事件の内容を知らせて来た時、何ともいえず不思議なことを発見した。それはお前が、暗がりで、電話をかけたということだ。折返し、それに間違いはないかと訊いてやると、間違いはないという返事だった。だが、賢い妹よ。考えて御覧。ここでお前は所謂犯人の愚挙、常識では、どうしてそんなバカなことをしたかと驚くほどの失策をしている。漆戸家は、赤坂にある。そして赤坂管内にあるお前の家の電話は、暗がりでは通話が出来ぬようになっている。いわんやして、話中だったり混線したりして、幾度もかけ直すことなど絶対に出来ない。その電話は自動交換式だ。文字盤がついていて、文字盤を読んで廻さねばならない。交換手に電話番号を告げるわけに行かない。だのに、暗がりで、それも塗り籠められたほど真暗だったと断ってある。そこで、お前は、どんな風にして電話をかけたのだ。
私は、嘘を発見すると、この嘘が何のためであるか推理にかかった。
思うにお前は、ピストルが発射された時、良人の部屋にいなかったことを証明するため、電話をかけるふりをしていたのだろう。いい
次に、では、暗さがなぜ必要だったか。
それは、二つの理由からだ。
一つは、暗いことによって、犯人の逃げる姿が誰にも見えなかったという、弁明をするためだったに違いない。庭には常夜燈が一つあり、良人の部屋からも明るみが流れ出している。この明るみの中を、事実犯人が逃げ出したとすれば、恰度台所にいた竹やが、その姿を見た筈であるかも知れない。ところが、暗ければ、そのために見えなかったともいえるのだ。要するに暗さは、人の姿を隠しもするし、同時に、もともと存在しなかった姿が、暗さのため見えなかったということにもしてしまうのだ。
暗さについて第二の理由。
犯人は、その暗さの中で、ピストルを発射しているが、それは、どこで発射されたものだったろう。ここで順序正しくいうと、犯人が漆戸を射殺したのは電燈の消える前のことだ。犯人は、その夜田舎者の女中だけを残して、他の者に暇を与えて遊びに出した。そして八時半竹やを医者のところへやり、竹やの留守のうちに、最も恐るべき良人殺しの罪は行われたのだ。犯人は、かねて綿密に考慮した計画に従い、良人の部屋へ行き、恐らくは前以て盗み出して置いたピストルを、毛布か蒲団類似のもので包んで音のなるべく
それは、良人の部屋で発射した一発の
弾丸の補充されたピストルは、まだ、手に持っている。彼女は、電話口で高声に喋りつつ、その途中で、電話口から僅かに身を離し、そこの小窓から、庭へ向けて、轟然とピストルを発射したのだ。その音は、台所にいた竹やに聞え、しかし、そんなところで発射されたとは誰にも知られなかった。発射された弾丸は、そこの柔かい地面へ、深く潜ってしまったに違いない。犯人は、そのあとで、ピストルを中庭へ向って投げ捨てたが、これは山茶花の根元に落ち、その山茶花が、お納戸の近くの小窓からも、確かに見える位置に植えてあることを、私は、犯人へ問い合せて、ちゃんと確かめてあるのだ。犯人は、暗さを利用して、ピストルを、そこから庭へ投げたことを、矢張り誰にも見せぬよう心懸けた。これで、暗さの必要だった、二つの理由が判ったであろう。
兄に似て聡明過ぎるほどの妹よ。
兄は、ようやくにして、語るべきことを不十分ながら語り得た感じだ。兄は、匕首に刺し貫ぬかるる思いをして、我妹が、殺人者たることを指摘せねばならぬ破目に堕ちたのだ。
詛われてあれ。
私は、お前の手紙の嘘を発見すると、直ちに在京の某友人を煩わして、旬日に渡り、お前の行動を監視せしめた。そして知り得たのは、お前が、最賀と二人、ひそかに大森の待合へ、既に事件前から事件後へかけて、十数回出入しているという事実だった。お前の言葉を借りるならば、地下に眠る漆戸が、額の傷口から垂れる血を満面に浴びて、犯人の名前を指摘する時、真先きにひれ伏すべき者がなんとお前自身だったではないか。
お前の愛人は、佐治でなくて、最賀だったのだ。恐らくは、最賀を同居せしめたのも、彼との悦楽に
兄は、逝ける友、漆戸のために、妹の罪を
兄は、美しく聡明な妹のため、今日が日までを、どんなに慰められて来たことがあったか知れない。
兄は、お前を愛している。
では、左様なら、哀れな喬子よ||。
(「新青年」昭和十一年一月号)