文化六年の春が暮れて行く頃であつた。
四月五日に、まだ壁が乾き切らぬと云ふのに、果して見知らぬ爺いさんが小さい荷物を持つて、宮重方に著いて、すぐに隱居所に這入つた。久右衞門は胡麻鹽頭をしてゐるのに、此爺いさんは髮が眞白である。それでも腰などは少しも曲がつてゐない。結構な
爺いさんが隱居所に這入つてから二三日立つと、そこへ婆あさんが一人來て同居した。それも眞白な髮を小さい丸髷に結つてゐて、爺いさんに負けぬやうに品格が好い。それまでは久右衞門方の勝手から膳を運んでゐたのに、婆あさんが來て、爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするやうな工合に拵へることになつた。
此
二人は富裕とは見えない。しかし不自由はせぬらしく、又久右衞門に累を及ぼすやうな事もないらしい。殊に婆あさんの方は、跡から大分荷物が來て、衣類なんぞは立派な物を持つてゐるやうである。荷物が來てから間もなく、誰が言ひ出したか、あの婆あさんは御殿女中をしたものだと云ふ噂が、近所に廣まつた。
二人の生活はいかにも隱居らしい、氣樂な生活である。爺いさんは眼鏡を掛けて本を讀む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀劍に
どうかすると二人で朝早くから出掛けることがある。最初に出て行つた跡で、久右衞門の女房が近所のものに話したと云ふ詞が偶然傳へられた。「あれは菩提所の
兎角するうちに夏が過ぎ秋が過ぎた。もう物珍らしげに爺いさん婆あさんの噂をするものもなくなつた。所が、もう年が押し詰まつて十二月二十八日となつて、きのふの大雪の跡の道を、江戸城へ
今年の暮には、西丸にゐた大納言家慶と
これがために宮重の隱居所の翁媼二人は、一時江戸に名高くなつた。爺いさんは元大番石川阿波守
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明和三年に大番頭になつた石川阿波守總恆の組に、美濃部伊織と云ふ士があつた。劍術は
石川が大番頭になつた年の翌年の春、伊織の叔母婿で、矢張大番を勤めてゐる山中藤右衞門と云ふのが、丁度三十歳になる伊織に妻を世話をした。それは山中の妻の親戚に、戸田淡路守氏之の家來有竹某と云ふものがあつて、其有竹のよめの
なぜ妹が先によめに往つて、※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、248-下-25]が殘つてゐたかと云ふと、それは※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、248-下-26]が屋敷奉公をしてゐたからである。素二人の女は安房國
尾州家から下がつたるんは二十九歳で、二十四歳になる妹の所へ
るんは美人と云ふ性の女ではない。もし床の間の置物のやうな物を美人としたら、るんは調法に出來た器具のやうな物であらう。體格が好く、押出しが立派で、それで目から鼻へ拔けるやうに賢く、いつでもぼんやりして手を明けて居ると云ふことがない。顏も
翌年は明和五年で伊織の弟宮重はまだ七五郎と言つてゐたが、主家の其時の當主松平石見守
此大番と云ふ役には、京都二條の城と大坂の城とに交代して詰めることがある。伊織が妻を娶つてから四年立つて、明和八年に松平石見守が二條在番の事になつた。そこで宮重七五郎が上京しなくてはならぬのに病氣であつた。當時は代人
伊織は京都で其年の夏を無事に勤めたが、秋風の立ち初める頃、或る日寺町通の刀劍商の店で、質流れだと云ふ好い古刀を見出した。兼て好い刀が一腰欲しいと心掛けてゐたので、それを買ひたく思つたが、代金百五十兩と云ふのが、伊織の身に取つては容易ならぬ大金であつた。
伊織は萬一の時の用心に、いつも百兩の金を胴卷に入れて體に附けてゐた。それを出すのは惜しくはない。しかし跡五十兩の才覺が出來ない。そこで百五十兩は高くはないと思ひながら、商人にいろ/\説いて、とう/\百三十兩までに負けて貰ふことにして、買ひ取る約束をした。三十兩は借財をする積なのである。
伊織が金を借りた人は相番の下島甚右衞門と云ふものである。平生親しくはせぬが工面の好いと云ふことを聞いてゐた。そこで此下島に三十兩借りて刀を手に入れ、拵へを直しに遣つた。
そのうち刀が出來て來たので、伊織はひどく嬉しく思つて、恰も好し八月十五夜に親しい友達柳原小兵衞等二三人を招いて、刀の披露
暫く話をしてゐるうちに、下島の詞に何となく角があるのに、一同氣が附いた。下島は金の催促に來たのではないが、自分の用立てた金で買つた刀の披露をするのに自分を招かぬのを不平に思つて、わざと酒宴の最中に尋ねて來たのである。
下島は二言三言伊織と言ひ合つてゐるうちに、とう/\かう云ふ事を言つた。「刀は御奉公のために大切な品だから、隨分借財をして買つて好からう。しかしそれに結構な拵をするのは贅澤だ。其上借財のある身分で刀の披露をしたり、月見をしたりするのは不心得だ」と云つた。
此詞の意味よりも、下島の冷笑を帶びた語氣が、いかにも聞き苦しかつたので、俯向いて聞いてゐた伊織は勿論、一座の友達が皆不快に思つた。
伊織は顏を擧げて云つた。「只今のお詞は確に承つた。その御返事はいづれ恩借の金子を持參した上で、改て申上げる。親しい間柄と云ひながら、今晩わざ/\請待した客の手前がある。どうぞ此席はこれでお立下されい」と云つた。
下島は面色が變つた。「さうか。返れと云ふなら返る。」かう言ひ放つて立ちしなに、下島は自分の前に据ゑてあつた膳を蹴返した。
「これは」と云つて、伊織は傍にあつた刀を取つて立つた。伊織の面色は此時變つてゐた。
伊織と下島とが向き合つて立つて、二人が目と目を見合せた時、下島が一言「たはけ」と叫んだ。其聲と共に、伊織の手に白刃が閃いて、下島は額を一刀切られた。
下島は切られながら刀を拔いたが、伊織に刃向ふかと思ふと、さうでなく、白刃を
伊織が續いて出ると、脇差を拔いた下島の
其隙に下島との間に距離が生じたので、伊織が一飛に追ひ縋らうとした時、跡から附いて來た柳原小兵衞が「逃げるなら逃がせい」と云ひつつ、背後からしつかり抱き締めた。相手が死なずに濟んだなら、伊織の罪が輕減せられるだらうと思つたからである。
伊織は刀を柳原にわたして、しを/\と座に返つた。そして默つて俯向いた。
柳原は伊織の向ひにすわつて云つた。「今晩の事は己を始、一同が見てゐた。いかにも勘辨出來ぬと云へばそれまでだ。しかし先へ刀を拔いた所存を、一應聞いて置きたい」と云つた。
伊織は目に涙を浮べて暫く答へずにゐたが、口を開いて一首の歌を誦した。
「いまさらに何とか云はむ黒髮の
みだれ心はもとすゑもなし」
みだれ心はもとすゑもなし」
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下島は額の創が存外重くて、二三日立つて死んだ。伊織は江戸へ護送せられて取調を受けた。判決は「心得違の
跡に殘つた美濃部家の家族は、それ/″\親類が引き取つた。伊織の祖母貞松院は宮重七五郎方に往き、父の顏を見ることの出來なかつた嫡子平内と、妻るんとは有竹の分家になつてゐる笠原新八郎方に往つた。
二年程立つて、貞松院が寂しがつてよめの所へ一しよになつたが、間もなく八十三歳で、病氣と云ふ程の容體もなく死んだ。安永三年八月二十九日の事である。
翌年又五歳になる平内が流行の疱瘡で死んだ。これは安永四年三月二十八日の事である。
るんは祖母をも息子をも、力の限介抱して臨終を見屆け、松泉寺に葬つた。そこでるんは一生武家奉公をしようと思ひ立つて、世話になつてゐる笠原を始、親類に奉公先を搜すことを頼んだ。
暫く立つと、有竹氏の主家戸田淡路守
黒田家ではるんを一目見て、すぐに雇ひ入れた。これが安永六年の春であつた。
るんはこれから文化五年七月まで、三十一年間黒田家に勤めてゐて、
隱居を許された時、るんは一旦笠原方へ引き取つたが、間もなく故郷の安房へ歸つた。當時の
其翌年の文化六年に、越前國丸岡の配所で、安永元年から三十七年間、人に手跡や劍術を教へて暮してゐた夫伊織が、「三月八日
(大正四年九月「新小説」第二十年第九卷)