一
房枝の興奮は彼女の顔を蒼白にしていた。こんなことは彼女にとって本当に初めてであった。その出張先が自分の家と同じ露地の中だなんて。彼女は近所の侮蔑的な眼が恐ろしかった。しかもそれが同じ軒並みのすぐ先なのだから。彼女はすぐそのまま自分の家に帰って行く気はしなかった。彼女は日頃から親しくしている
「小母さん! お隣のお隣は、何を
「お隣のお隣? 楽そうだろう? 泥棒をしているんだって。」
「泥棒?
房枝は
「そりゃ、不景気だもの、何だって、出来ることはしなくちゃ。泥棒だって何だって、食って行ける者はいいよ。」
「でも、少しおかしかない? 泥棒だなんて······」
「
「それはそうだけれど、そんなことをしていて掴まらないのかしら?」
「そこが
「でも、随分変な
「働いてお金を取って来る分に、何だって同じことさ。自分の好きなことばかりしていちゃ、お金にならないんだから。」
「それでは、わたしなんかも、肩身を狭くしていなくたっていいわけね。||じゃ、威張って帰るわ。」
房枝は赤い緒の下駄を持って、裏口から表玄関へ座敷の中を横切った。
「もう帰るの? 遊んで行けばいいのに······」
「こうして、小母さんの家から出て行くと、誰が見たって、小母さんのところへ遊びに行っていたのだと思うでしょう? ねえ!」
彼女は
二
房枝は三日過ぎると、また同じ家に雇われて行った。その家は四十前後の独身の男の世帯であった。洗濯物が二三枚あった。家の中は三日前に掃除して行ったままで別段に汚れてはいなかった。併し彼女は一通り形式だけの掃除をした。
「休んでおいで。掃除なんかどうでもいいんだから。」
彼は
「まあ、そこへお坐り!」
読みかけの雑誌を伏せて彼は命令的に言った。
「でも、ちょっと、掃くだけでも······」
「別に汚れてないんだから、いいんだよ。まあ、お坐り、そこへ。」
「では、これを置いて来ますから。」
房枝は
「房枝さん! ||房枝さんって名だったね?
「五円でしたわ。」
「五円? じゃ、
「え。本当ですわ。」
「あの婆め!そんなぼり方ってあるもんか。||
憤慨したようにして彼は言った。
「房枝さん! どうだ! これから、あの婆さんを仲に立てないで、直接にしようか?」
「でも、紹介してもらっていて、そんなことしちゃ······」
「悪いことなんかあるもんか。||じゃ、とにかく、今度来るとき、儂が一緒に来るように言ったからって、あの婆さんを一緒に
「今日ぐらいの時間でいいんですか?」
「ああ、いいよ。」
彼は畳の上にばたりと腕を
「房枝さんは、実に綺麗な手をしているね。」
彼は言いながら房枝の手を
三
房枝は雇われて行った家を裏口から出た。そして裏口から小母さんの家に
「ねえ。小母さん! 泥棒でも、なんかこう、泥棒の勤める会社、というようなものがあるのかしら? 少しおかしいわね。」
「泥棒の会社? そんな馬鹿なものがあるもんかね。」
「だってね。小母さん! あの人はね。そら、お隣のお隣の、あの人は······」
「今日もあそこだったの?」
「そうよ。||ねえ。小母さん! あの人は、出張して来たって言ったわ。だから、会社のようなところでもあるのかと思って。」
「あの人の出張って、どこか遠くへ泥棒に行ったことを言っているんだよ。」
「あら! それを出張っていうの? なかなか
「掏摸のことは知らないけど、併し泥棒会社だなんて、そんなものはないだろうよ。個人経営なんだよ。例えあったって、あの人はそんなところへ勤めて働く人じゃないよ。あの人はとても物事のわかっている人なんだもの。||つまり、そんなところへ関係すると、働きもしない奴に、頭を
「馬鹿馬鹿しくたって、わたし、そんな交渉は出来ないんだもの、仕方がないわ。||でも、いくら
「だから、何もかも、自分でやったらよかない? 呼ばれて行ったとき、呼んでくれた相手の人がいい人だったら、すぐ(いつかまた呼んで下さいね。そして今度は直接にして下さい。私のところはここですから······)って、頼んで置いたら、先方でだって、かえってその方を
「それはいいわね。小母さん! あの人もそんなことを言ってたわよ。これからは直接にしようかって······」
「あの人は、とても物事のわかっている人なんだもの。あの人は泥棒はしても、ちゃんと理屈に合った泥棒をしているんだよ。||つまり、あの人に言わせると、金持ちなんて者は、貧乏人が、あくせくして働いたお金を
「悪くないわね。それなら。||じゃ、小母さん、わたし帰るわ。」
「また籠抜けかい?
「そうね。それがいいわね。今度そうさせてもらうわ。」
房枝はまた赤い緒の下駄を手にしてその部屋の中を横切った。
四
煉瓦の塀に沿うて
「本当にどうしたんだろうね? どこへ行っているんだろう?」
婆さんは言った。婆さんは退屈になって来たのだ。房枝は泥溝を見おろし続けていた。
「一緒に来いって言うから、こうして来ると、どこへ行っているんだか、まるで帰って来やしないじゃないか。いったい、何時間待たせるつもりなんだろう?」
婆さんは
「どこへ行っているんですね? 一緒に来いって言うから、こうして一緒に来ると、どこへ行っているんだか、いつまで経ったっても帰って来やしないんだもの、全く呆れてしまう。」
婆さんは続けた。
「いや、どうもすみません。ちょっと出なければならない用事があったもんだから、一人で来たんじゃ、誰もいないところで待っているのが大変だろうと思って······」
「なんてことだね。馬鹿馬鹿しい。じゃ、留守をさせられたわけね。自分の家を
「あ、別に······」
「ああ、本当に、馬鹿見たよ。」
婆さんは
五
房枝は自分の家に帰って肌を脱いで休んでいた。そこへ婆さんが
「房ちゃん! 房ちゃん! 帰ったかね?」
「あら! 小母さん。さあ、おあがりになって。本当にお世話さまで御座いますよ。近頃は。」
病気で寝ていた房枝の母親が玄関
「私んとこではまあ、大へんなことになったんですよ。私が、房ちゃんに
「どうしたの? 小母さん!」
房枝は帯を締めながら玄関の方へ出て行った。
「全く、こんな馬鹿なことってあるもんかね。自分の家を空にして置いて、
「泥棒が這入ったんですか?」
「泥棒が這入ったの? 小母さん。」
「なんか知らないけど、ちょっとあけて置く間に、長火鉢の下へ隠して置いたお金を、房ちゃんをお世話してもらった分を、みんな持って行ってしまったんですよ。」
「あら! そうですか。それはそれは······」
「房ちゃんと一緒に行きさえしなければ、なんでもなかったのに、本当に困ってしまう。あの人も私が出れば、私の家が空になるってことを知っているくせして、私に、自分の家の留守をさせるなんて······」
「本当だわ。あんまりだわ。」
「私は、埋め合わせをしてもらわなくちゃ。言って見れば、あの人と、房ちゃんのためなんだから、房ちゃんとあの人とに。埋め合わせてもらわなくちゃ······」
「わたしにも? 小母さん!」
「だって、房ちゃんなんか、半日も働きに行きゃあ、きっと五円にはなるんだもの、それぐらいのことはしてくれたって、いいじゃないかね? 私が好きで房ちゃんに
婆さんは玄関で立ったまま
六
房枝が今日は小母さんの家の玄関の方から這入って来た。
「小母さん! あのお婆さんのところで、泥棒に這入られたんですって。」
「泥棒に?」
小母さんも

「わたし、あの人じゃないかと思うんだけど······」
「あの人って? ||あ、あの人か。そうだね。そうかも知れないよ。
「どうもそうらしいのよ。」
「||それが、あのお婆さんを自分の家に呼んで置いて、その留守の間にやったらしいのよ。自分が帰るまでは、お婆さんが自分の家に待っていると思えば、いくらでも念入りに探せるわね。全く、あきれてしまうわ。」
「でも、そこまで考えてやるなんて、なかなか偉いもんだね。やっぱり、あの人でなければ出来ない芸当だよ。」
「厭な小母さん! 厭に感心するのね。」
房枝は
七
房枝は初めて彼の職業を
「||変に思うかも知れないが、ようく考えて御覧。おまえだって、好きでこういうことをやっているのじゃあるまい。それをしなければ、母親は病気をしているし、おまえより働くものがいないし、食って行けないから、仕方なくやるのだろう? それを横から、働かないものが、働いたものの倍も横取りするって法は無いんだ。||それは当然おまえのものなんだから、安心して取ってお置き。」
彼は威厳をさえ示していた。
「そうだろう? そのためにおまえは、一度厭な思いをすればいいところを、二度しなければならないことになる。そんな馬鹿なことって無いんだ。||おまえはそう思わないかね?」
「············」
「
そのとき、誰か、あわただしく玄関へ飛び込んで来た。腹掛けをして背広を着ている青年であった。
「すみません。僕をちょっと隠してくれませんか? 追い掛けられているんです。」
「追い掛けられている? 仕様がないじゃないか。そんなへまなやり方じゃ。||まあ、あがって、押し入れにでも這入っているさ。」
「同志! 有り難う!」
青年は泥靴を脱ぎ捨てて風呂敷包みを持ったまま押し入れの中に飛び込んだ。彼は泥靴で畳の上に
「おいッ! てめえも、
彼は怒鳴りながら立って行った。
「いや。||今の奴は、駈け抜けて行きましたか?」
「ふざけやあがって、この泥を見てくれ。」
「||それで、どっちへ行ったでしょうね?」
「そんなこと、知るもんか。いったい、てめえら、なんてまねをしていやがるんだい? ふざけやがって。」
「············」
男は一枚の名刺を彼に渡した。
「あ、そうですか。それはそれは······」
男はすぐ出て行ってしまった。彼は微笑みながら火鉢の前に帰った。
「帰ったよ。出ても、もう大丈夫だ。」
「どうも、おかげさまで······
青年は押し入れから出て来てそこへ坐った。
「一体、何を
「え? 掻っ払いじゃありませんよ。まさか、そんなことまではしませんよ。」
「泥棒したんじゃないと言うのか?」
「宣伝をしていたんです。われわれ失業者、どうにもならないもんですから、ビラをまいていたんですよ。そのうちにビラが無くなったんで、僕は本部ヘビラを取りに行って来たんです。来て見ると、同志は皆んな検束されていて、僕がそこへ帰って来たもんだから······」
「食えないんなら、そんなことをするより、持っているもののところへ行って、取って来たら、どんなもんだね。」
「泥棒ですか?」
「まあ、泥棒だね。」
「併し、失業者がみんな全部泥棒になったって、社会の組織は変わらないですからね。社会の組織が変わらない以上、失業者は
「じゃ、食えないものでも、泥棒しちゃ、いけないと言うのかい?」
「さあ? まあ、これを読んでおいて下さい。僕は急いでいますから。||働きたいけれども、仕事が無いから、食って行くためには泥棒だっていいじゃないかというのでしたら、まあこれを読んで、もう少し考えて見て下さい。」
青年は風呂敷包みの中から五六枚のビラを
そしてそれを彼に渡して急いで戸外に出て行った。
||昭和五年(一九三〇年)『文学時代』八月号||