改札孫の
「おーい! 馬鹿に急いで帰るなあ」
信号所の中から声をかけたのは彼と同じ囲いの官舎にいる
「細君はどうなんだ? 幾分かはいいのか?」
「同じことですね。起きてはいますけれど······」
「起きてるのなら、散歩にでも連れて出てみるんだな。あんまり家の中にばかりいるのも、身体のためじゃないぜ」
西村はそう言いながら
「今夜は七時の交代でしょう? 早く帰って
貞吉は、頭の中で、自身の若い細君をどうして
「行くがね。しかし君のところの細君は闘球盤なんか絶対に駄目だよ。あんな
西村はまた次の信号に掛からねばならなかった。
「え。連れて行くつもりなんです」
貞吉は子供らしい動作で軌条の上を歩き出した。足を踏み外さないようにと用心する動作は過去の記憶を
||今の妻の家の前を、彼女が窓から
柴田貞吉は秋子を連れて官舎を出て行った。
鉄道線路の
清新な暖かい気流、
彼等二人は青草の土堤に腰と背とを当て暖かな陽光にひたった。
「どうだ。あの煙は? この町は空気が悪いんだね」
貞吉と秋子とは視線を
「どうかして転地でもしなければいけないね。秋ちゃんの
「まだ結婚さえ許してくれないのですもの。それよりも、お父さんが私達の結婚を許して下さるといいと思うわ。そしたら、私、死んでもいいわ。私もうそれだけよ」
「馬鹿な。僕が困るじゃないか。近ごろ少し
貞吉は秋子の手を自分の膝の上に取った。
「肥るわけないじゃないの」
汽笛が高らかに響き渡った。獣類の
「あら! あの機関車は、お父さんが乗っているのよ」
秋子は
「どうして
「だって、あの汽笛は、お父さんの鳴らす汽笛なんだもの、そりゃ直ぐ判るわ」
秋子は顔をあげて列車を見送った。
「汽笛で判るかい? ほんとに?」
「判るわ。よく判るわ。鳴らす人によってみんな違ってよ。お父さんの汽笛はああいう吼えるような唸ような長い音なのよ。兄さんのは、何かしら三味線の
「ほんとに判るのかなあ?」
「そりゃ判りますとも。お父さんなど、機関庫中の人のをみんな聞き分けるのよ。私だってお父さんのと兄さんのと、それからお父さんの助手をしていた青木さんのと、三人の汽笛を聞き分けられるわ。ほんとなのよ。兄さんが機関車に乗り初めのころには、
「そんなによく判るものなら、お父さんは、僕達がここに来ていることを知ったら、ここを通るときには、汽笛を鳴らさないだろうな。あんなに怒つたのだから」
「さあ? 案外そうでないかもしれないわ。どんなに怒ってみたところで親子は親子ですもの、もう今ごろは、直ぐ許してくれるかもしれないわ。私、手紙を出してみようかしら。ここにいるからここを通るときには、汽笛だけでも鳴らしてくださいって。今ごろは、私達のことをきっと心配しているのよ」
「でも、随分と頑固だからな」
「表面では怒ったような顔をしていても、きっと心配しているんだわ。私達だって、心の中では可愛いんだわ」
秋子の眼は濡れて光って来た。
秋子が父親の吉川機関手に手紙を書いて以来、上り下り二回の直通列車が、汽笛を鳴らさずにその駅を通過することがたびたびだった。鳴らして通る汽笛は、短い打ち切るような性急な音間の抜けた余韻を持たぬ音。波間に浮き沈むような抑揚の激しい長い音。あの野獣の吼えるような
病勢が加速度を持ち出して秋子は
「こんなことになるのなら、いっそのこと、手紙を出さなければよかったのだわ。私の方でだけでも、お父さんの汽笛を聞いていられたのに······」
彼女は眼を
「いや、こっちへ来ないんだろう。僕の考えでは、むしろ喜んでいて、今に汽笛を鳴らして通ると思うな。
傍からいつもこう言うのは信号係の西村だけだった。西村は秋子を慰めようとするのだった。
「汽笛どころか、今に会いに来るよ。怒るときには怒っても、親じゃないか」
「私、
彼女は、そうして
「死んで行く者を、許してくれたっていいと思うわ。今になって、私の方で、折れるわけにはいかないじゃないの」
秋子は恨みがましく
遠方信号が赤だった。吉川機関手は眼をむいて拡大鏡から前方を見詰めた。そして、レギレーターを戻した。もし信号機に故障があれば、暗闇の信号所で青い
列車は遠方信号に接近した。機関手はブレーキに手をかけた。そして汽笛の
信号が青に変わった。機関手は
場内信号が青に変わった。吉川機関手はもう一度汽笛を鳴らしてから、リバーース・シングルバース・ハンドルを戻してレギレーターを入れねばならなかった。
「おい! ねぼけていちゃ駄目だよ」
信号所の横を通りながら吉川機関手は叫んだ。
秋子の呼吸からは音を聞くことができなくなった。秋子の
見詰め続けていると彼女の顔は彫刻的な感じから絵画的なものに変わって行った。汚れた木炭紙の
汽笛が鳴った。遠方信号のあたりで、野獣のように吼え、唸るように余韻を引いた。
秋子は

汽笛! 彼等の窓に震動を投げながら高らかに吼えた。犬の唸るような余韻が、どこかに反響した。
「あら! お父さんだわよ!」
秋子は白い敷布の上から窓へと

「お父さん? お父さん!」
開かれた窓から首をだして彼女は叫んだ。眼の前に長い窓の行列が燈影を
「お父さん!」
汽笛だ! 三度目を吼えた機関車は、唸るような余韻を別れの挨拶のように引いたのだった。
「あなた! あなた!」
秋子は貞吉の胸に飛び付いた。彼は彼女を固く抱擁した。彼女の眼は濡れてぎらぎらと光っていた。
「おい! 秋ちゃん!」
彼は彼女の身体に重さを感じて叫んだ。彼は素早く、彼女を白い敷布の上に戻した。しかしもはや彼女の脈は絶えていた。興奮状態からの微かな体温を残して。
機関車が過ぎ客車が
西村は信号所の窓から首を出して寂しく微笑した。
「おい! ねぼけていちゃ駄目だぜ」
優しい錆のある声が列車の轟音の消えた中にいつまでも残っていた。
西村は時間の経つにつれて次第に寂しくなって行った。彼の意識の中に築きかけられた美しいものが、吉川機関手の
彼は固く自分の胸を抱きしめた。寂しい気持ちの充満した胸をぎゅっと抱きしめた彼は、狭い信号所の中をがたがたと歩き回った。