東京は
彼はある朝早く、濃い靄に包まれている街の中を工場地帯に向けて歩いていた。どこか遠くの遠くから夜明けの足音が静かに近づいてくる。||ぎりりゅう、と骨を擦り合わせるように電車が
敷石道を
「あなた! まあ! あなた! わたしを迎えに戻ってきてくだすったの?」
彼は驚きの目で振り返りながら立ち止まった。白い着物を着て橋の
「ほんとによく戻ってきてくださったわね。それで、坊やをどうしましょうね?」
彼女は
「人違いじゃないですか?」
彼は自分の腕を掴んだ彼女の手を、静かに引き放しながら言った。
「わたしになにもそんな、立派な言葉を使わないでもいいのよ」
「はは······どうかしてやしませんか?」
「そりゃ、するはずだわ。何もかも、
「ぼくが悪いんですって?」
「いちばん悪いのはそりゃあなたじゃないけれど、やはりあなただって悪いわ。いったい、どうしてあんなに逃げ回ったんですの?」
「はは······困ったな。ぼくはちっとも逃げ回りなんかしやしませんよ。ぼくはこれから工場へ行くところなんです」
「工場へ? 工場へだけはおよしなさいよ。あなたはまだ工場へなど行くつもりですの?」
彼女は目を輝かせながら、また両手で彼の腕に
「大丈夫ですよ。逃げはしないから、大丈夫ですよ」
「ほんとに行かない? どんなことがあっても、工場へだけは行っちゃ駄目よ」
彼女はそう言って、静かに彼の手を放した。
「行きたくなくたって、行かなければこっちが
「まあ! あなたはまだそんな気持ちでいるの? 困るわね。あなたが逃げ回っている間にわたしたちがどんな目に遭ったか、あなたは知らないんですか? あなたは何もかも知っているくせに、よくもそんな
「あなたは人違いをしているんでしょう」
「どうしてあなた、なんて言うの? どうして前のように、おまえ! って言わないの? わたし、前のように、おまえ! って言ってもらいたいわ」
「はは······困った人だな、もういい加減にしてください。工場のほうが遅くなるから······」
「あなたは
彼女はまた固く彼の手を掴んだ。
「困るな。はは······困った人だな」
「あなたは本当に、なにも知らないの? 本当に知らないなら話してあげるわ。まあ、わたしの話を聞いていらっしゃい! ね」
彼女はそう言いながら、彼を引っ張った。彼は引っ張られるままに橋の袂へ行った。そこには、これから架橋工事が始まるらしく四角に
「そら、あなた、あの泣き声が聞こえない? 聞こえるでしょう? 坊やの泣いているのが······ね?」
彼女はそう言って、靄の上に蜃気楼のように浮かんでいる高層建築のほうを指さしながら、聞き耳を立てるようにした。
「ぼくには、そんな泣き声なんか聞こえませんがね。あなたは頭がどうかなってるのじゃないですか?」
「わたしの頭がどうかなったっていうの? そりゃ、頭もどうにかなりそうだったわ。気がおかしくなりそうだったわ。でもわたし、あなたを捜し当てるまでは、捜し当てるまではと思って、おかしくならないでいたのよ。おかしくならないでいて、あなたに何もかも話してあげなければいけないと思っていたのよ」
彼女は
「ねえ、何もかも話してあげるわ。黙って聞いてらっしゃい。本当にあの工場だけは、もうどんなことがあっても駄目よ」
彼女はじっと彼の顔を見守りながら、そう話を進めていった。
彼女は共同井戸から水を
「ねえ、今夜は夜業で帰れねえんですと」
少年工は息を弾ませながら言った。そして、ずるずるっと青黒い
「
「うん」
少年工は機械の油に汚れた草履を重そうに、ばたりばたりと
彼女は不機嫌な気持ちで家の中に入った。夜業をするなんてでたらめだと思ったからだった。そんなことでだれが
彼女の不機嫌は翌朝まで続いた。彼女は赤ん坊が小便をしたといっては
翌朝そこへ、工場からまた使いが来た。今度は少年工でなく、年寄りの雑役夫だった。
「お! こちらの松島さんはよ、
「怪我をしたんですって? ひどく怪我をしたんですか?」
「おれは見なかったんでな、どの程度だかよく知らねえが、大したことじゃあるめえて。とにかくよ、心配しねえでてくれってことだから······」
「で、その病院って、どこの病院なんでしょうね?」
「さあ? おれには分かんねえがな。とにかくよ、心配しねえでてくれってことだから······」
雑役夫の
彼女はその日一日じゅう、内職の手袋編みが少しも手につかなかった。そして、彼女は夫を憎んだ。結婚をしてから幾度となく繰り返された経験だった。しかし、彼女は苦しい生活のことを考えてくれずに仕事を休んでいる夫を憎んでいるのではなかった。会合のことといえば秘密にして、そういうことは女などには分からぬものと決めている夫を憎んでいるのだった。
その日の夕方、また雑役夫の親父さんが工場の帰りに寄ってくれた。
「今朝はな、おれは工場からの使いだったので本当のことを話せなかったんだどもな。松島さんのことをよ」
「今朝だって、工場から来たんじゃないんでしょう? 松島はどこかへまた、みんなを集めるんでしょう」
「うんにゃ! 人の話だども、それがひでえんだよ。うん、ひでえんだという話だよ」
「本当に、では、怪我をしたんですね」
彼女は意外だというようにして
「それが、怪我ぐれえのとこならいいのだがよ、こちらの松島さんは機械に食われてさ、胴がまるで
「そのこと、ほんとなんですの?」
彼女は胸がどきっとした。考えてみるとこの瞬間、彼女の全身の血が夫に対する愛情と生活上の問題との間を、最大急行列車のピストン・ロットのように急速度の往復運動をしたのに相違なかった。
「人の話で、おれは見ねえんだどもよ」
「そんなことを言って驚かさないでください。松島はいままで本にばかり
彼女は雑役夫の言葉を否定した。それほどのことがあったのなら、工場から知らせてくれないはずはないと思ったからだった。
「だがよ、人の話だども、
「おじさん! 本当のことなんですの? 本当のことなんですの?」
彼女はそう言いながら、赤ん坊を背負って雑役夫の返事を待たずに家を飛び出した。そして彼女は工場まで、背中の子供を揺すり上げ揺すり上げほとんど駆けつづけたのだった。
工場の門の前まで来たとき、彼女はどっちが本当なのかしら? と、もう一度疑いを持って考え直してみた。が、大きな三本の煙突から煙の上がっていないことや、機械の絡み合う騒音の聞こえてこないことが、彼女に対して夫の死の宣告を矢のように射込んだ。
「松島の死体を見せていただきたいんですけど」
彼女はいきなり門衛に言った。
「松島さんの、何を、ですと?」
「あの、昨夜は夜業をしたんでしょうか?」
「ここは他の工場と違って、夜業をやらないです」
「まあ! 変ですわ。では、松島の死体はどうなっているんでしょう?」
彼女は門の前で経験した気持ちをもう一度繰り返しながら、叫ぶような調子で
「松島さんの死体とね? 松島、
「松島重三郎の死体、どうなってるんですの?」
「松島さんが死んだというんですね?
門衛は落ち着いて帳簿を繰るのだった。
「では、どなたに
「明日にしてください。明日もう一度来て、監督さんに会ってください。工場にはもうだれもいませんから」
頑丈な鉄格子の門の奥には、黒い大きな建物が鯨のように横たわっているだけだった。
もし死んだのが本当なら、
工場に慣れていないからとて、そんなへまなことをする人ではない! 殺られたのだ!||と彼女は信じた。しかし、不思議に彼女は涙も出なかったし、悲しいとも思わなかった。底の底では判然とそれを信じ切っていないのだった。むしろ、いまに帰ってくるに相違ないとさえ思っていたのだった。
その晩遅くなってから、十一時過ぎに、工場の監督が彼女を訪ねてきた。それが工場の監督と分かると、彼女は先手を打った。
「松島の死体は、いったいどうなっているんでしょうね?」
「············」
監督は黙ってお辞儀をした。
「怪我をしたのなら、どうしてその時すぐに知らせていただけなかったのか、それがわたしにはどうしても分かりませんわ」
「実は、すぐお知らせするはずだったのですが、あまりひどかったものですから、かえってお目にかけないほうがよかろうということになりまして、すぐそのまま病院のほうへ······」
「まるで品物ですのね。あんまりじゃないでしょうか? あんまりですわ! それで、死んだのは本当なんでございますか?」
「まったく、お気の毒ともなんとも······」
「本当のことをおっしゃってください。本当はあなたが、松島にいられたんでは具合が悪いので、どこかへ行ってもらったんでしょう」
「いいや! 本当に亡くなられたんです。これはわずかばかりですが、工場のほうからの遺族
監督はそう言って、彼女の前に封筒を出した。
「まあ! それが松島の死んだ証拠だというんですか? どうして死体をひと目見せてはくれないのでしょうね」
「それはさきほども申しましたように、とてもひどかったものですから、お目にかけたらいつまでもいつまでも目に残ってお困りだろうと存じまして、いっそのことお骨にしてからお目にかけたほうがよかろうということに······、みなの意見だったものですから」
「でも、わたしは見なければ信じられませんわ」
「わたしのほうでは実を申しますと、最初に少しばかり怪我をして、それが原因でだんだん悪くなって亡くなったようにお知らせしたかったのです。なるべく、びっくりさせ申したくないと存じまして」
「どうして本当のことをおっしゃってはくださらないんでしょうかね? あなたのほうでは他の職工さんたちに知れるのが怖くて、表門から出さずに裏門から運んだり、瀕死の怪我人なのに、ちょっと怪我をして病院へ行ったけれども心配はいらないとか、死んでいるのにまだ治る見込みがあるような顔をするんでしょ? それはあなたのほうには都合のいいことでしょうけれど、こちらではそのために、一生涯というものまるで中途半端な感情を持たせられますわ。わたし、ほんとに信じ切れませんわ。どうしても、松島が死んでしまったとは思われないんです。いまにその辺から帰ってくるような気がして」
「わたしのほうでは、かえってそんな風に思っていただいて、一度に気を落とされないようにと思ったものですから」
「いいえ! あなたのほうでは、他の職工さんたちに知られるのを恐れているんです。それくらいのことは、わたしにだって分かります」
「もっとも、それもあります。しかし、そのことはあなたにまで隠そうとは思ってはおりませんのです。こうして何もかも
監督はそう言って、また一つの封筒を取り出した。
「国家のためですって? ずいぶんおかしいんですのね。松島の死んだのを隠していて国家のためになるのなら、それは黙っておりますとも」
「なにしろ、それを聴きますと他の職工たちが嫌がるもんですから、まあ、士気が鈍るというようなわけで、それで、なるべくはあなたに、どこかここから遠いところへ引っ越していただきたいとも思うんです。ここにあなたが一人でいれば、松島くんの死んだことが長い間にはしぜんと分かってきますから」
「それは困ります! それは困りますわ。わたしはこれから手袋編みだけで食べていかねばならないんですから、引っ越すわけにはいきません。引っ越せば職を失ってしまうのですから」
「もし越してくださるなら、その分も会社から金が出るはずになっていますがね」
「松島は、本当に死んだんですか?」
彼女はやはり、松島はどこかへ行っているのではないかと思った。どこかへ行っている間に自分に引っ越させて、何もかも掻き消そうとしているのではないかと考えたのだった。
「それは本当ですとも。まあ、その証拠に、明日か明後日までにお骨を届けますから」
「灰を見ても、わたし、やっぱり信じられないだろうと、なんか、そんな気がしてなりませんのよ」
「とにかく、これは慰藉料、これは口止料というわけで、それから、これは給料の残り分です」
監督は三つの封筒を彼女の前に押し出して帰っていった。
松島の骨を彼の郷里に埋めて、彼女はまた東京に出た。葬式を済ませて帰ってみると、あのとき
彼女はときどき松島のことを思い出して啜り泣きをした。死んだ夫を
彼女のそういう生活の中へある日、この前の工場監督が訪ねてきた。社長のところへ産まれた赤ん坊の乳母になってくれないかというのだった。
「なにしろ社長が、相当の教養があって、
「まるで、お嫁さんを探すような条件ですのね。そんなむずかしいところへ、わたしのような者でいいんですか?」
「あなたなら、文句なし! です。実は、あなたのところへ来ます前に、ちょっと社長へ話してみたんですがね。ところが、社長はあなたを気の毒に思っているものですから、ぜひあなたを頼もうということになりましてね」
「では、まいりますわ。ほんとにわたしのような者でいいんでしたら?」
彼女は
「じゃひとつ、相互扶助というわけでぜひともお頼みします。お礼はいくらでも出すと言っているんですから······」
彼女はその翌日から朝・昼・晩の三回ずつ、二十町(二キロ強)あまりの道を歩いて乳房を運んでいった。
彼女の授乳の合間を母親の貧弱な乳房に縋りついている赤ん坊は、乳首が痛くなるほどたちまち彼女の乳を呑み干した。それから二十町あまりの道を歩いて帰るのに、彼女は四十分から五十分、どうかすると一時間近くもかかるのだったが、それだけの時間で彼女の乳は原状に
彼女は自分と同じ棟の長屋に住む近所の少女を雇って留守を任せ、自分の赤ん坊をその少女に預けては毎日毎日、高台の豪壮な邸宅と
彼女がそうして
しかし、彼女は気にはしながらも少女に赤ん坊を任して、朝田の邸へ奉公に出かけた。朝はまだそうでもなかったのが、昼に出かけるときにはもはやひどい高熱だった。けれども、彼女はやっぱり出かけなければならなかった。
彼女は三時の音を聞いて、急いで朝田邸の門を出た。門を出たばかりのとき、背後で自動車の音がした。自動車が急停車をしたのだった。それには主人の朝田が乗っていた。
「松島さん、あんたの家は工場へ行く途中じゃったね。どうせ通りがかりじゃから、さあここへ乗っていきなさい」
朝田は窓から首を出して言った。
「············」
彼女は
「なにも遠慮はいらんのだ。どうせ通りがかりじゃから、さあ遠慮することはないんだから」
「············」
彼女はまたお辞儀をした。
「さあ、構わんからここへ乗んなさい」
「では、失礼でございますけど······」
彼女はまず自分の赤ん坊のために喜んだ。かつて自分の夫が、彼らは血も涙も持たない資財の
「松島さん、あなたは、失礼な言い分かもしれないが、ひどく困っていやしないかね?」
「············」
彼女は
自動車は白い
「困っているんだったら、だれかの世話になってもいい気はないかね?」
「············」
「あんたはそれほどの美貌で、相当の教養もあって······しかし、女の人が自分一人でやっていくということはなかなか大変なことだろうからな。······あんたが再婚をしてもいい気持ちがあるのなら。それよりむしろ······」
「なにしろ、子供があったりするものですから」
彼女は、いくらか顔も赤くしていた。
「子供があったって、それは構わん。子供があるにつけても、再婚をするより、まあちゃんと一家を持たしてもらって、世話になったほうがどれほどいいかしれん」
「············」
彼女は朝田の話を横道に
「運転手! ちょっと、
「あら! そちらへお回りでございましたら、わたし、ここで失礼させていただきますわ」
彼女は驚きの目で見上げた。そこから彼女の家までは、自動車が江東ホテルまで走る時間で充分歩いていけるからだった。
「回ったってすぐだ。ちょうど北海道のある築港から、急行セメントの検査に来た技師が江東ホテルに泊まっているものだから、ちょっと寄って、一緒に行ってもらうだけのことなんで······」
「でも、わたし急いでいるのでございますから」
しかし、自動車は彼女の言葉には耳も傾けずに、人通りの少ない河岸の大道路を折れて疾走しつづけた。彼女は気が気でなくなった。熱を出している赤ん坊のことが心配で心配でたまらないのだ。しかし、それは秘密を要することだと彼女は考えた。熱を出している子供の
「その築港の技師のことで思い出したのだが、松島さん、あんたはその人と結婚をする気はないかね? あんたがそれを承知してくれりゃ、それでセメントの調査のほうはもう問題なしじゃがなあ! 無検査で採用されるんだが!」
彼女はまた、夫が彼らを罵倒していた言葉を思い出した。恥も人情も知らない資財の傀儡! そのとおりだと彼女は思った。自分の取引きのために、他人を
「とにかく、どうだね? その男に会って話してみる気はないかね? ついでだから」
「せっかくでございますけど、今日は急いでおりますからこのまま失礼させていただきます」
「結婚をする段になりゃ費用はむろん、全部わしのほうで出してあげるがね。······もっとも、近ごろの新しい女は堅苦しい女房よりも気楽な
自動車は江東ホテルの玄関へ横に着いた。
「すぐだから······」
朝田は自動車を降りて受付へ行った。そして、ふた言三言の立ち話をして戻ってきた。
「ちょっと、降りていらっしゃい。すぐなそうだけれど、ここに待っていてもつまんないから、お茶でも飲んで······」
「いいえ。わたしはここで失礼させていただきます」
「いや、同じことだから、みっともないから」
彼女は仕方なく自動車を降りた。そして、駆り立てられるようにしてホテルの階段を上った。
彼女が泥のように疲労し切った眠りから頭を
しかし、さきほどの出来事は決して夢ではなかったのだ。彼女は何もかもはっきりと記憶している。||最初、朝田が彼女をこの部屋に待たしておいたまま、いつまで
彼女はもう一度部屋の中を見回した。紫の
彼女はまたテーブルに乗って、破れたガラス窓から首を出した。街は夜更けらしく、静かになっていた。その時、彼女の背後でノックの音がした。ドアが開いて男の顔が出た。それが真っ白い洋服を着た彼女の夫だった。
「まあっ! あなた! どこへ行っていたの! どこへ行ったの?」
彼女は飛びついた。が、その瞬間に、彼女の夫は
「どうしたえ? え? どうしたえ?」
こう言って、代わりに出てきたのは朝田だった。
「あなた! 行っちゃいけません」
彼女はドアの陰に隠れた夫を追って、飛び出していこうとした。
「どうしたというんだ? え?」
朝田は彼女を掴まえて、無理にもベッドのほうへ連れていこうとした。
「放してください。放してください」
彼女は朝田を
「どうしたというんだ? え? きみはそれじゃ、さっきの築港の技師にもそうしたのかい? 困るじゃないか?」
「放してくださいったら!」
彼女は暴れ回った。彼女は朝田の手を引っ掻いた。彼女は朝田を突き飛ばしておいて、廊下に駆け出した。しかし、夫の姿は見えなかった。彼女は白い足袋
彼女は街角で夫に突き当たった。いつの間にか和服に姿を変え、ソフトを目深に
彼女の夫はいろいろに姿を変えては、至るところから出てきたのだった。彼女はそれを追って掴まえた。掴まえては放すまいとした。がしかし、彼女の夫はなにかと言っては、至るところで彼女の手から逃げ出した。彼女は追った。夜の明けるまで、彼女は夫を追い回した。
「
隣の少女が赤ん坊を抱いて彼女を呼び呼び、泣きながら追いかけてきた。
「小母さん! 赤ちゃんが、赤ちゃんが······」
少女は彼女に追いついても泣いていた。しかし、哀しいがためではない。あんなにひどい熱を出していた赤ん坊が、無事に熱が引いたからだった。少女はつまり、
「坊や! 坊や! 病気が治ったの? 治ったの? 坊や! よかったわね」
彼女はぐったりとしている赤ん坊の頬をぶるんぶるんさせてあやしたけれども、赤ん坊は気持ちよさそうにぐったりと眠りつづけていて、決して笑いだしもしなければ目さえも動かさなかった。
「坊や! どうして笑わないの?」
「小母さん! 赤ちゃんはね、赤ちゃんはね······」
少女は啜り泣きながら、何か言おうとしていた。そこへ鳥打帽が
「あなた! まあ、あなたという人はなんて方でしょう? さあ、逃げ回ってばかりいないで、少し坊やを抱っこしてやってちょうだい」
彼女は夫に赤ん坊を突きつけた。夫は
「あなた! 逃げちゃ駄目よ! どこへ行くの? あなた! あなた! あなた」
彼女は夫を追いかけた。眠り人形のように眠りつづけている赤ん坊を抱いて、彼女は駆けられるだけ駆けた。
敷石道は地球儀の腹のように
列から乱れている一つの小さな楕円形の頭の建物の前で、彼女は黒い服を着た男に捕まった。
「何をするんです? 放してください! 放してください!」
しかし、黒い服の男は彼女を放さなかった。彼女は犬に
「放してください! 何をするの? 放してちょうだい?」
彼女は黒い服の仲間から逃れようとしてさんざん暴れた。その手を
そこのホテルは
そのうちに、黒い服の下男と白い服の女中とが、どかどかと入ってきた。||彼女を朝田の部屋へ連れていくのに相違ないのだ。彼女は抵抗した。暴れ狂った。||しかし、相手は多勢だ。彼女を他の部屋へ運び出すと、裸にしてそこの真っ白いベッドの上に
ところが、思いがけもなく入ってきたのは朝田ではなかった。白い服を着た背の高い、細い身体の男だった。しかし、その男は意外にも彼女に口を開かせてその舌を見たり、胸や腹を
「||あの窓の辺りなのよ。そらね、聞こえるでしょ。そら、あの雲の上から聞こえるの、坊やの泣き声でしょ」
彼女は手を上げて、晴れかけた靄の上へ蜃気楼のように浮かんでいる高層建築を指した。その指先は白い一本の絹のように小刻みに、敏速に、神経的でしかも恐怖的な
「そらね。あの泣き声、坊やでしょ?||あらっ! とてもかわいそうね。そら、とてもひどく泣いているわ。聞こえるでしょ?」
彼女はじっと耳を澄ました。彼も
「あらっ! 来たわ! 来たわ! 助けてください! 助けてください! わたしをまた引っ張りに来たのだわ! そら来たわ! 来たわ!」
彼女は突然叫びだして、彼の腕に縋りついた。そこへ、白服の看護婦と黒い半纏の看護人とが五、六人ばたばたと駆けつけてきた。
「今度は、この方を自分の夫だと思っているのだわ」
看護婦の一人は彼女に歩み寄りながら言った。
「男さえ見ると、だれでも自分の夫だと思うんだからな、始末が悪いや」
看護人が笑いながら言った。そして、彼女を引き立てようとした。
「坊やを返してください。坊やと松島を返してください」
「この人は死んだ赤ちゃんを、まだ生きていると思っているのだわ」
看護婦は気の毒そうに微笑みながら言った。
「で、この人の言う、その松島という人はいったいどうしたんだい? 生きているのかい? 死んだのかい?」
看護人が真面目な顔で訊いた。
「それがはっきり分れば、この病人は治せるって院長先生はおっしゃっているのよ」
「はっきり分かれば治るんですって? よし! おれが行って話してやる。はっきりと、何もかも話してやる。洗い
彼は叫ぶように言いながら、ひどく