一 街裏の露地で
社は五時に
併し、鈴木三枝子は
鈴木三枝子は、昼の仕事をなるべく残すようにして置いて、居残りの時間をつくるようにした。地方の読者への勧誘状を書いたり、問い合わせに対する返事を書いたりして、彼女はどうかすると、八時頃まで残ることさえあった。
或る出版会社に勤める彼女の僅かばかりの月給では、夫の失職中、そうでもしなければ、一家の生活を支えてゆくことがとても出来ないのだった。
その日も三枝子は七時まで社にいた。日曜の前日という気持ちから、余計に働いて帰るつもりなのだった。
社を出るときには、電燈の光がなければもう暗かった。彼女はそれから市ヶ谷見付に出て、新宿までは省線、それから京王電車で初台まで行くのであったが、満員の電車は、十時間あまりの労働でひどく疲れている彼女の上に、なお同じほどの疲労を押し付けずには置かなかった。
彼女の家は停車場から六七町ほどのところにあった。そこで、彼女の、
彼女は急いだ。
明るい商店続きの町を
荒れ野原はすぐに小住宅区域に続いていた。その住宅区域の表の方は、また、明るい商店の軒並み町になっていて、彼女は、その間の露路を
彼女は、ここまで来ると、いつもの癖で、母親が「お母ちゃん帰るかと、見て来よかあ?」という子守唄を歌ってはいないかと、耳を立てるようにした。||その子守唄は、彼女の家の、寂しさの象徴だった。職を
「
おや、まあ! と三枝子は、
「ねえ! 接吻をして頂戴よう。厭なの? 厭ならいいわ。」
三枝子は驚異と、一種の恐怖とを感じないではいられなかった。無論それは自分の
三枝子はそんなことを思いながらそこの四辻を左に曲がった。
「おい! 三枝さんかい?」
薄暗がりから、そう言って街燈の下の明るみへ出て来たのは、彼女の夫だった。
「まあ! あなたなの? 私、びっくりしたわ。」
彼女は立ち止まって夫を待った。夫は、彼女が今来た路とは直角に、あの女の声のしていた方の路から来て彼女と一緒になった。
「今日も、遅いんだね。」
「明日は日曜だから。どう? あなたの
「うむ。どうも······」
遠廻しに! と彼女が、瞬間的に考えたプランを置き去りにして、二人の話は、深刻な加速度をもって、彼の職業の上に落ちて行った。
二 絶交
毎日職を
そこまで考えると、三枝子は
併し彼女の夫は、鈍感な妻が気のついている筈は無い! と思って
こうして夫は欺き続けて来たのだ。三月の間というもの、
同時に三枝子は、彼女の最も新しい友達である静枝の、あの夫に対しても、自分の夫へのそれと似た感情を抱かずにはいられなかった。そういう、共同生活の責任を負わずに、自身の生活を他に築きながら、共同生活の一員として済ましていることの許されているのは、或る国の特権階級だけではないか。
「あなた! 今日は、お出掛けにならないんですの!」
「あっ! 出掛けるんだ。」
彼は、忘れていたというようにして起き上がった。
「厭でも、乗りかけた船だから、仕方が無いわね。」
「うむ。」
彼女の言った皮肉が皮肉として通じないのだ。彼はそそくさと支度をして出て行った。
三枝子は、夫が出て行ってしまってから、あの時、
彼女は、不愉快な自分の気持ちを
恵子は、母親の前に立って駈け歩いた。すると向こうから、
「まあ、静枝さん! どこへいらっしゃるの?」
「············」
静枝は顔を
「遊びに、いらっして下すったの?」
「············」
静枝は癖で、笑いながら
三枝子は静枝が自分の前へ来るまで、
恵子は静枝の足
「まあ、恵子ちゃん、大きくなったのね。」
静枝はそう言って
「静枝さん。ゆっくりして行っていいんでしょう?」
「ちょっと失礼するわ。」
「あら! どうして?」
「廻らなければならないところがあるのよ。」
「どこへいらっしゃるんですの?」
「約束があるのよ。ちょっと、この先に。||恵ちゃん、本当に大きくなったのね。」
静枝は恵子の肩に手を置きながら言った。
「やんちゃでしょうがないのよ。」
「おばちゃんに、
静枝は恵子の肩を軽く
「ねえ! 接吻をして頂戴よう。厭なの! 厭ならいいわ。」
「静枝さん! 何をするの? そんなこと
三枝子は恵子をぐっとひったくった。
「まあ! どうして?」
「||どうして? もないわ。それを私に
「だって、あたし、わからないわ。」
「私、何も知らないと思っているの? あなたとはもう、絶交よ!」
「絶交?」
「もちろんよ||
「接吻泥棒?」
「知らない!」
併し三枝子は、驚いている恵子の手を引いて、自分の家の方へと、ゆっくり歩き出したのだった。||いくらでも闘ってやる!
三 媚を売る街
三枝子は宵から市内に出て行った。
勝手な自分の生活を持っている夫に対しては、
併し彼女は恵子のことを思い出した。母親の子守唄を思い出すと、やはり帰らずにはいられない気持ちに
「
三枝子は、静枝のその声を耳にして、立ち止まった。胸が、がんがんして来た。
「ねえ! 接吻をして頂戴よう。厭なの? 厭ならいいわ。」
三枝子はその声の方へ歩み寄って行った。
なんというずうずうしさだろう! あれほど言ってやったのに、今夜もこんなところまで送って来ているのだ。
併し、その辺の暗がりの中には、誰の影も無かった。三枝子は立ち止まった。
「君の、接吻をして頂戴よ! は大体いいがね。厭なの? を、もう少しなんとか出来ないかね?」
見ると、そこの街裏にガランとしたバラックの建物があって、その窓の中に静枝のように絢爛な着物を着た若い女や、髪を長くした青年がたくさん坐っていた。そしてその広い板の間の中央に出ているのが静枝だった。その傍に青年が二人立っていた。
「厭なの? も
こう一人の青年は言っていた。
「もともとこの芝居は『媚を売る街』というので、媚を売らなければ生活の出来ない女性という感じが来なければ、このプロレタリア劇は失敗なのだからね。いいかね、君は、昨夜は大へんうまかったが、今夜は、それを言うのに、なんか少しおどおどしているよ。」
三枝子は、もうどうしていいかわからなかった。併し、静枝の帰るのをそこで待っていようと思った。
「君も、これで生活をして行こうと思うんなら、身を入れてやって下さい。」
こう言われて、静枝は
「じゃ、もう一度やって見て下さい。」
静枝はそこへ坐った。
「おい! 三枝さんかい? 何を見ているんだい?」
振り返って見ると、そこに、疲れ切った彼女の夫が立っていた。声を立てられない立場から、三枝子は固く夫の手を握った。
||昭和四年(一九二九年)『婦人サロン』十一月号||