肥後の
細川家の
家中に、
田岡甚太夫と云う
侍がいた。これは以前
日向の伊藤家の浪人であったが、当時細川家の
番頭に
陞っていた
内藤三左衛門の推薦で、
新知百五十
石に召し出されたのであった。
ところが
寛文七年の春、
家中の武芸の
仕合があった時、彼は
表芸の
槍術で、相手になった侍を六人まで突き倒した。その仕合には、
越中守綱利自身も、老職一同と共に臨んでいたが、余り甚太夫の槍が見事なので、さらに剣術の仕合をも
所望した。甚太夫は
竹刀を
執って、また三人の侍を打ち据えた。四人目には家中の若侍に、
新陰流の剣術を指南している
瀬沼兵衛が相手になった。甚太夫は指南番の
面目を思って、兵衛に勝を譲ろうと思った。が、勝を譲ったと云う事が、心あるものには分るように、手際よく負けたいと云う気もないではなかった。兵衛は甚太夫と立合いながら、そう云う心もちを直覚すると、急に相手が
憎くなった。そこで甚太夫がわざと
受太刀になった時、奮然と一本突きを入れた。甚太夫は強く
喉を突かれて、
仰向けにそこへ倒れてしまった。その
容子がいかにも見苦しかった。
綱利は彼の槍術を賞しながら、この勝負があった
後は、
甚不興気な顔をしたまま、
一言も彼を
犒わなかった。
甚太夫の負けざまは、間もなく
蔭口の的になった。「甚太夫は戦場へ出て、槍の柄を切り折られたら何とする。
可哀や剣術は
竹刀さえ、一人前には使えないそうな。」
||こんな
噂が誰云うとなく、たちまち
家中に広まったのであった。それには勿論同輩の
嫉妬や
羨望も
交っていた。が、彼を推挙した
内藤三左衛門の身になって見ると、綱利の手前へ対しても黙っている訳には行かなかった。そこで彼は甚太夫を呼んで、「ああ云う見苦しい負を取られては、拙者の眼がね違いばかりではすまされぬ。改めて三本勝負を致されるか、それとも拙者が殿への申訳けに切腹しようか。」とまで激語した。家中の噂を聞き流していたのでは、甚太夫も武士が立たなかった。彼はすぐに三左衛門の意を帯して、改めて指南番
瀬沼兵衛と三本勝負をしたいと云う
願書を出した。
日ならず二人は綱利の前で、晴れの
仕合をする事になった。
始は甚太夫が兵衛の
小手を打った。二度目は兵衛が甚太夫の
面を打った。が、三度目にはまた甚太夫が、したたか兵衛の小手を打った。綱利は甚太夫を賞するために、五十
石の加増を命じた。兵衛は
蚯蚓腫になった腕を
撫でながら、
悄々綱利の前を退いた。
それから三四日経ったある雨の
夜、
加納平太郎と云う同
家中の侍が、
西岸寺の
塀外で暗打ちに
遇った。平太郎は
知行二百石の
側役で、
算筆に達した老人であったが、
平生の行状から推して見ても、
恨を受けるような人物では決してなかった。が、翌日瀬沼兵衛の
逐天した事が知れると共に、始めてその
敵が明かになった。甚太夫と平太郎とは、年輩こそかなり違っていたが、
背恰好はよく似寄っていた。その上
定紋は二人とも、同じ丸に
抱き
明姜であった。兵衛はまず供の
仲間が、雨の夜路を照らしている
提灯の紋に
欺かれ、それから
合羽に
傘をかざした平太郎の姿に欺かれて、
粗忽にもこの老人を甚太夫と誤って殺したのであった。
平太郎には当時十七歳の、
求馬と云う
嫡子があった。求馬は早速
公の
許を得て、
江越喜三郎と云う若党と共に、当時の武士の習慣通り、
敵打の旅に
上る事になった。甚太夫は平太郎の死に責任の感を
免れなかったのか、彼もまた
後見のために旅立ちたい旨を申し出でた。と同時に求馬と
念友の約があった、
津崎左近と云う侍も、同じく
助太刀の儀を願い出した。綱利は
奇特の事とあって、甚太夫の願は許したが、左近の云い分は取り上げなかった。
求馬は甚太夫喜三郎の二人と共に、父平太郎の
初七日をすますと、もう暖国の桜は散り過ぎた
熊本の城下を後にした。
津崎左近は助太刀の
請を
却けられると、二三日家に閉じこもっていた。兼ねて
求馬と取換した
起請文の
面を
反故にするのが、いかにも彼にはつらく思われた。のみならず
朋輩たちに、
後指をさされはしないかと云う、
懸念も満更ないではなかった。が、それにも増して堪え難かったのは、
念友の求馬を唯一人
甚太夫に託すと云う事であった。そこで彼は
敵打の
一行が熊本の城下を離れた
夜、とうとう一封の書を家に遺して、彼等の
後を慕うべく、
双親にも告げず家出をした。
彼は
国境を離れると、すぐに一行に追いついた。一行はその時、ある
山駅の茶店に足を休めていた。左近はまず甚太夫の前へ手をつきながら、
幾重にも同道を懇願した。甚太夫は
始は
苦々しげに、「身どもの武道では心もとないと御思いか。」と、
容易に
承け引く色を示さなかった。が、しまいには彼も
我を折って、求馬の顔を尻眼にかけながら、
喜三郎の取りなしを
機会にして、左近の同道を承諾した。まだ
前髪の残っている、女のような
非力の求馬は、左近をも一行に加えたい
気色を隠す事が出来なかったのであった。左近は喜びの余り眼に涙を浮べて、喜三郎にさえ何度となく礼の言葉を
繰返していた。
一行四人は
兵衛の
妹壻が
浅野家の家中にある事を知っていたから、まず
文字が
関の
瀬戸を渡って、
中国街道をはるばると広島の城下まで上って行った。が、そこに滞在して、
敵の
在処を
探る内に、家中の
侍の家へ
出入する女の
針立の世間話から、兵衛は一度広島へ来て
後、妹壻の知るべがある
予州松山へ密々に旅立ったと云う事がわかった。そこで敵打の一行はすぐに
伊予船の
便を求めて、
寛文七年の夏の
最中、
恙なく松山の城下へはいった。
松山に渡った一行は、毎日
編笠を深くして、敵の
行方を探して歩いた。しかし兵衛も用心が厳しいと見えて、容易に在処を
露さなかった。一度左近が兵衛らしい
梵論子の姿に目をつけて、いろいろ探りを入れて見たが、結局何の
由縁もない他人だと云う事が明かになった。その内にもう秋風が立って、城下の屋敷町の武者窓の外には、溝を
塞いでいた
藻の下から、追い追い水の色が拡がって来た。それにつれて一行の心には、だんだん焦燥の念が動き出した。殊に左近は出合いをあせって、ほとんど昼夜の嫌いなく、松山の内外を
窺って歩いた。敵打の
初太刀は自分が打ちたい。万一甚太夫に遅れては、
主親をも捨てて一行に加わった、武士たる自分の
面目が立たぬ。
||彼はこう心の内に、堅く思いつめていたのであった。
松山へ来てから
二月余り
後、左近はその
甲斐があって、ある日城下に近い海岸を通りかかると、
忍駕籠につき添うた二人の若党が、漁師たちを急がせて、舟を仕立てているのに
遇った。やがて舟の仕度が出来たと見えて、
駕籠の中の侍が外へ出た。侍はすぐに編笠をかぶったが、ちらりと見た
顔貌は瀬沼兵衛に
紛れなかった。左近は一瞬間ためらった。ここに求馬が居合せないのは、返えす返えすも残念である。が、今兵衛を打たなければ、またどこかへ立ち
退いてしまう。しかも海路を立ち退くとあれば、
行く
方をつき止める事も出来ないのに違いない。これは自分一人でも、
名乗をかけて打たねばならぬ。
||左近はこう
咄嗟に決心すると、身仕度をする間も惜しいように、編笠をかなぐり捨てるが早いか、「
瀬沼兵衛、
加納求馬が兄分、津崎左近が
助太刀覚えたか。」と呼びかけながら、刀を抜き放って飛びかかった。が、相手は編笠をかぶったまま、騒ぐ気色もなく左近を見て、「うろたえ者め。人違いをするな。」と叱りつけた。左近は思わず
躊躇した。その途端に侍の手が刀の
柄前にかかったと思うと、
重ね
厚の大刀が
大袈裟に左近を斬り倒した。左近は尻居に倒れながら、
目深くかぶった編笠の下に、始めて瀬沼兵衛の顔をはっきり見る事が出来たのであった。
左近を打たせた三人の侍は、それからかれこれ二年間、
敵兵衛の
行く
方を探って、
五畿内から東海道をほとんど
隈なく遍歴した。が、兵衛の消息は、
杳として再び聞えなかった。
寛文九年の秋、一行は落ちかかる
雁と共に、始めて江戸の土を踏んだ。江戸は諸国の
老若貴賤が集まっている所だけに、敵の手がかりを尋ねるのにも、何かと便宜が多そうであった。そこで彼等はまず神田の
裏町に仮の宿を定めてから
甚太夫は怪しい
謡を唱って
合力を請う浪人になり、
求馬は
小間物の箱を
背負って
町家を廻る
商人に化け、
喜三郎は
旗本能勢惣右衛門へ
年期切りの
草履取りにはいった。
求馬は甚太夫とは別々に、毎日府内をさまよって歩いた。物慣れた甚太夫は破れ扇に
鳥目を貰いながら、根気よく盛り場を
窺いまわって、さらに
倦む
気色も示さなかった。が、年若な求馬の心は、編笠に
憔れた顔を隠して、秋晴れの
日本橋を渡る時でも、結局彼等の
敵打は徒労に終ってしまいそうな寂しさに沈み勝ちであった。
その内に
筑波颪しがだんだん寒さを加え出すと、求馬は
風邪が元になって、時々熱が
昂ぶるようになった。が、彼は
悪感を冒しても、やはり日毎に荷を負うて、
商に出る事を止めなかった。甚太夫は喜三郎の顔を見ると、必ず求馬のけなげさを語って、この
主思いの若党の眼に涙を催させるのが常であった。しかし彼等は二人とも、病さえ静に養うに堪えない求馬の寂しさには気がつかなかった。
やがて寛文十年の春が来た。求馬はその頃から人知れず、吉原の
廓に通い出した。
相方は
和泉屋の
楓と云う、
所謂散茶女郎の一人であった。が、彼女は勤めを離れて、心から求馬のために尽した。彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであった。
渋谷の
金王桜の評判が、
洗湯の二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう
敵打の大事を打ち明けた。すると思いがけなく彼女の口から、兵衛らしい侍が
松江藩の侍たちと一しょに、
一月ばかり以前和泉屋へ遊びに来たと云う事がわかった。
幸、その侍の
相方の
籤を引いた楓は、
面体から持ち物まで、かなりはっきりした記憶を持っていた。のみならず彼が二三日
中に、江戸を立って
雲州松江へ
赴こうとしている事なぞも、ちらりと
小耳に挟んでいた。求馬は勿論喜んだ。が、再び敵打の旅に上るために、楓と当分
||あるいは永久に別れなければならない事を思うと、自然求馬の心は勇まなかった。彼はその日彼女を相手に、いつもに似合わず
爛酔した。そうして宿へ帰って来ると、すぐに
夥しく血を吐いた。
求馬は翌日から枕についた。が、
何故か
敵の
行方が
略わかった事は、
一言も甚太夫には話さなかった。甚太夫は
袖乞いに出る合い間を見ては、求馬の看病にも心を尽した。ところがある日
葺屋町の芝居小屋などを
徘徊して、暮方宿へ帰って見ると、求馬は遺書を
啣えたまま、もう火のはいった
行燈の前に、刀を腹へ突き立てて、無残な最後を遂げていた。甚太夫はさすがに
仰天しながら、ともかくもその遺書を開いて見た。遺書には敵の消息と
自刃の
仔細とが
認めてあった。「
私儀柔弱多病につき、敵打の本懐も遂げ難きやに存ぜられ
候間······」
||これがその仔細の全部であった。しかし血に染んだ遺書の中には、もう一通の書面が巻きこんであった。甚太夫はこの書面へ眼を通すと、おもむろに行燈をひき寄せて、
燈心の火をそれへ移した。火はめらめらと紙を焼いて、甚太夫の
苦い顔を照らした。
書面は求馬が
今年の春、
楓と
二世の約束をした
起請文の一枚であった。
寛文十年の夏、
甚太夫は
喜三郎と共に、雲州松江の城下へはいった。始めて
大橋の上に立って、
宍道湖の天に
群っている雲の峰を眺めた時、二人の心には云い合せたように、悲壮な感激が催された。考えて見れば一行は、故郷の熊本を後にしてから、ちょうどこれで旅の空に四度目の夏を迎えるのであった。
彼等はまず
京橋界隈の
旅籠に宿を定めると、翌日からすぐに例のごとく、敵の所在を窺い始めた。するとそろそろ秋が立つ頃になって、やはり
松平家の侍に
不伝流の指南をしている、
恩地小左衛門と云う侍の屋敷に、
兵衛らしい侍のかくまわれている事が明かになった。二人は今度こそ本望が達せられると思った。いや、達せずには置かないと思った。殊に甚太夫はそれがわかった日から、時々心頭に抑え難い怒と喜を感ぜずにはいられなかった。兵衛はすでに
平太郎一人の
敵ではなく、
左近の敵でもあれば、
求馬の敵でもあった。が、それよりも先にこの三年間、彼に幾多の艱難を
嘗めさせた彼自身の
怨敵であった。
||甚太夫はそう思うと、日頃沈着な彼にも似合わず、すぐさま恩地の屋敷へ踏みこんで、勝負を決したいような心もちさえした。
しかし恩地小左衛門は、
山陰に名だたる剣客であった。それだけにまた彼の
手足となる門弟の数も多かった。甚太夫はそこで
惴りながらも、兵衛が一人外出する機会を待たなければならなかった。
機会は容易に来なかった。兵衛はほとんど昼夜とも、屋敷にとじこもっているらしかった。その内に彼等の
旅籠の庭には、もう
百日紅の花が散って、
踏石に落ちる日の光も次第に弱くなり始めた。二人は苦しい焦燥の中に、三年以前返り打に遇った左近の
祥月命日を迎えた。喜三郎はその
夜、近くにある
祥光院の門を
敲いて
和尚に仏事を修して貰った。が、万一を
慮って、左近の
俗名は
洩らさずにいた。すると寺の本堂に、意外にも左近と平太郎との俗名を記した
位牌があった。喜三郎は仏事が終ってから、
何気ない風を
装って、
所化にその位牌の
由縁を尋ねた。ところがさらに意外な事には、祥光院の檀家たる恩地小左衛門のかかり
人が、月に二度の命日には必ず
回向に来ると云う答があった。「今日も早くに見えました。」
||所化は何も気がつかないように、こんな事までもつけ加えた。喜三郎は寺の門を出ながら、
加納親子や左近の霊が彼等に
冥助を与えているような、気強さを感ぜずにはいられなかった。
甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到来を祝すと共に、今まで兵衛の
寺詣でに気づかなかった事を
口惜しく思った。「もう
八日経てば、
大檀那様の御命日でございます。御命日に敵が打てますのも、何かの因縁でございましょう。」
||喜三郎はこう云って、この喜ばしい話を終った。そんな心もちは甚太夫にもあった。二人はそれから
行燈を囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追憶をさまざま語り合った。が、彼等の
菩提を
弔っている兵衛の心を
酌む事なぞは、二人とも全然忘却していた。
平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は
妬刃を合せながら、心
静にその日を待った。今はもう
敵打は、成否の問題ではなくなっていた。すべての懸案はただその日、ただその時刻だけであった。甚太夫は
本望を
遂げた
後の、
逃き
口まで思い定めていた。
ついにその日の朝が来た。二人はまだ天が明けない内に、
行燈の光で身仕度をした。甚太夫は
菖蒲革の
裁付に
黒紬の
袷を重ねて、同じ紬の紋付の羽織の下に細い革の
襷をかけた。
差料は
長谷部則長の刀に
来国俊の
脇差しであった。喜三郎も羽織は着なかったが、
肌には着込みを
纏っていた。二人は
冷酒の盃を
換わしてから、今日までの勘定をすませた後、勢いよく
旅籠の
門を出た。
外はまだ人通りがなかった。二人はそれでも編笠に顔を包んで、兼ねて敵打の場所と定めた
祥光院の門前へ向った。ところが宿を離れて一二町行くと、甚太夫は急に足を止めて、「待てよ。
今朝の勘定は
四文釣銭が足らなかった。おれはこれから引き返して、釣銭の残りを取って来るわ。」と云った。喜三郎はもどかしそうに、「
高が四文のはした
銭ではございませんか。御戻りになるがものはございますまい。」と云って、一刻も早く鼻の先の祥光院まで行っていようとした。しかし甚太夫は聞かなかった。「
鳥目は元より惜しくはない。だが甚太夫ほどの侍も、敵打の前にはうろたえて、旅籠の勘定を誤ったとあっては、
末代までの恥辱になるわ。その方は一足先へ参れ。身どもは宿まで取って返そう。」
||彼はこう云い放って、一人旅籠へ引き返した。喜三郎は甚太夫の覚悟に感服しながら、云われた通り自分だけ敵打の場所へ急いだ。
が、ほどなく甚太夫も、祥光院の門前に待っていた喜三郎と一しょになった。その日は薄雲が空に迷って、
朧げな日ざしはありながら、時々雨の降る天気であった。二人は両方に立ち別れて、
棗の葉が黄ばんでいる寺の
塀外を
徘徊しながら、勇んで兵衛の参詣を待った。
しかしかれこれ
午近くなっても、
未に兵衛は見えなかった。喜三郎はいら立って、さりげなく彼の参詣の有無を寺の門番に尋ねて見た。が、門番の答にも、やはり今日はどうしたのだか、まだ参られぬと云う事であった。
二人は
惴る心を静めて、じっと寺の外に立っていた。その間に時は用捨なく移って、やがて夕暮の色と共に、棗の実を
食み落す
鴉の声が、寂しく空に響くようになった。喜三郎は気を
揉んで、甚太夫の側へ寄ると、「一そ恩地の屋敷の外へ参って居りましょうか。」と囁いた。が、甚太夫は
頭を振って、許す
気色も見せなかった。
やがて寺の門の空には、
這い
塞った雲の間に、
疎な星影がちらつき出した。けれども甚太夫は塀に身を寄せて、
執念く兵衛を待ち続けた。実際敵を持つ兵衛の身としては、
夜更けに人知れず仏参をすます事がないとも限らなかった。
とうとう
初夜の鐘が鳴った。それから
二更の鐘が鳴った。二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去らずにいた。
が、兵衛はいつまで経っても、ついに姿を現さなかった。
甚太夫主従は宿を変えて、さらに
兵衛をつけ狙った。が、その
後四五日すると、甚太夫は突然真夜中から、烈しい
吐瀉を催し出した。
喜三郎は心配の余り、すぐにも医者を迎えたかったが、病人は大事の洩れるのを
惧れて、どうしてもそれを許さなかった。
甚太夫は枕に沈んだまま、買い薬を命に日を送った。しかし吐瀉は止まなかった。喜三郎はとうとう堪え兼ねて、一応医者の
診脈を請うべく、ようやく病人を納得させた。そこで取りあえず
旅籠の主人に、かかりつけの医者を迎えて貰った。主人はすぐに人を走らせて、近くに
技を売っている、
松木蘭袋と云う医者を呼びにやった。
蘭袋は
向井霊蘭の門に学んだ、
神方の名の高い人物であった。が、一方また
豪傑肌の所もあって、日夜
杯に親みながらさらに
黄白を意としなかった。「
天雲の上をかけるも谷水をわたるも
鶴のつとめなりけり」
||こう
自ら歌ったほど、彼の薬を請うものは、
上は一藩の老職から、
下は露命も
繋ぎ難い
乞食非人にまで及んでいた。
蘭袋は甚太夫の脈をとって見るまでもなく、
痢病と云う見立てを
下した。しかしこの名医の薬を飲むようになってもやはり甚太夫の病は
癒らなかった。喜三郎は看病の
傍、ひたすら
諸々の仏神に甚太夫の快方を祈願した。病人も夜長の枕元に薬を
煮る煙を
嗅ぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。
秋は
益深くなった。喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群を成した水鳥が、
屡空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、やはり薬を貰いに来ている一人の
仲間と落ち合った。それが
恩地小左衛門の屋敷のものだと云う事は、蘭袋の
内弟子と話している言葉にも
自ら明かであった。彼はその仲間が帰ってから、
顔馴染の内弟子に向って、「恩地殿のような武芸者も、病には勝てぬと見えますな。」と云った。「いえ、病人は恩地様ではありません。あそこに御出でになる御客人です。」
||人の好さそうな内弟子は、無頓着にこう返事をした。
それ以来喜三郎は薬を貰いに行く度に、さりげなく兵衛の
容子を探った。ところがだんだん聞き出して見ると、兵衛はちょうど平太郎の命日頃から、甚太夫と同じ痢病のために、苦しんでいると云う事がわかった。して見れば兵衛が祥光院へ、あの日に限って
詣でなかったのも、その病のせいに違いなかった。甚太夫はこの話を聞くと、一層病苦に堪えられなくなった。もし兵衛が病死したら、勿論いくら打ちたくとも、
敵の打てる筈はなかった。と云って兵衛が生きたにせよ、彼自身が命を
墜したら、やはり永年の艱難は水泡に帰すのも同然であった。彼はついに
枕を
噛みながら、彼自身の快癒を祈ると共に、併せて
敵瀬沼兵衛の快癒も祈らざるを得なかった。
が、運命は飽くまでも、田岡甚太夫に
刻薄であった。彼の病は
重りに重って、
蘭袋の薬を貰ってから、まだ十日と経たない内に、今日か明日かと云う
容態になった。彼はそう云う苦痛の中にも、
執念く
敵打の望を忘れなかった。喜三郎は彼の
呻吟の中に、しばしば
八幡大菩薩と云う言葉がかすかに洩れるのを聞いた。殊にある夜は喜三郎が、例のごとく薬を勧めると、甚太夫はじっと彼を見て、「喜三郎。」と弱い声を出した。それからまたしばらくして、「おれは命が惜しいわ。」と云った。喜三郎は畳へ手をついたまま、顔を
擡げる事さえ出来なかった。
その翌日、甚太夫は急に思い立って、喜三郎に蘭袋を迎えにやった。蘭袋はその日も酒気を帯びて、早速彼の病床を見舞った。「先生、永々の御介抱、甚太夫
辱く存じ申す。」
||彼は蘭袋の顔を見ると、
床の上に
起直って、苦しそうにこう云った。「が、身ども息のある内に、先生を御見かけ申し、何分願いたい一儀がござる。御聞き届け下さりょうか。」蘭袋は快く
頷いた。すると甚太夫は
途切れ途切れに、彼が瀬沼兵衛をつけ
狙う敵打の
仔細を話し出した。彼の声はかすかであったが、言葉は長物語の間にも、さらに乱れる
容子がなかった。蘭袋は眉をひそめながら、熱心に耳を澄ませていた。が、やがて話が終ると、甚太夫はもう
喘ぎながら、「身ども
今生の思い出には、兵衛の
容態が
承りとうござる。兵衛はまだ存命でござるか。」と云った。喜三郎はすでに泣いていた。蘭袋もこの言葉を聞いた時には、涙が抑えられないようであった。しかし彼は膝を進ませると、病人の耳へ口をつけるようにして、「御安心めされい。兵衛殿の臨終は、
今朝寅の
上刻に、愚老確かに見届け申した。」と云った。甚太夫の顔には微笑が浮んだ。それと同時に
窶れた
頬へ、冷たく涙の
痕が見えた。「兵衛
||兵衛は
冥加な奴でござる。」
||甚太夫は
口惜しそうに
呟いたまま、蘭袋に礼を云うつもりか、床の上へ乱れた
頭を垂れた。そうしてついに空しくなった。
······ 寛文十年
陰暦十月の末、喜三郎は独り蘭袋に辞して、故郷熊本へ帰る旅程に
上った。彼の
振分けの
行李の中には、
求馬左近甚太夫の三人の遺髪がはいっていた。
寛文十一年の正月、
雲州松江祥光院の
墓所には、
四基の石塔が建てられた。施主は
緊く秘したと見えて、誰も知っているものはなかった。が、その石塔が建った時、二人の
僧形が
紅梅の枝を
提げて、朝早く祥光院の門をくぐった。
その一人は城下に名高い、
松木蘭袋に
紛れなかった。もう一人の僧形は、見る影もなく病み
耄けていたが、それでも
凛々しい物ごしに、どこか武士らしい
容子があった。二人は墓前に紅梅の枝を
手向けた。それから新しい四基の石塔に順々に水を注いで行った。
······ 後年
黄檗慧林の
会下に、当時の病み耄けた僧形とよく似寄った
老衲子がいた。これも
順鶴と云う
僧名のほかは、何も
素性の知れない人物であった。
(大正九年四月)