北緯百十三度一分、東経二十三度六分の地点において、
そこは嶮岨な屏風岩の上であった。
前には、エメラルドを溶かしこんだようなひろびろとした赤湾が、ゆるい曲線をなしてひらけ空は涯しもしらぬほど高く澄みわたり、おつながりの赤蜻蛉が三組四組五組と適当なる空間をすーいすーいと飛んでいるという、げに麗らかなる秋の午さがりであった。
目の下二尺の鯛が釣れようと、三年の
「ああ
と、突然博士は自分の名をよばれてびっくりした。
顔をあげてみると、そこには立派なる風采のトマトのように太った大人が、女の子のような従者を一人つれて立っていた。博士はその方をジロリと見ただけで、またすぐ沖合の灰色のジャンク船の片帆に視線はかえった。
「ああ
「······」
博士は
「もし
「猛印といえば||」と博士はこのときやおら顔をあげて、「猛印といえば、北京の南西二五〇〇キロメートル、また南京の西南西二〇〇〇キロメートル、雲南省の遍都で、インド王国に間近いところではないか。雲南などへ迎えられては、わしは迷惑この上なしだ」
「いや博士、猛印こそわが中国の首都でありますぞ」
「わしを愚弄してはいかん。中国の首都がインドとわずか山一つを
「いやそれが博士、あなたのお間違いですよ。あなたこの頃、ニュース映画をごらんになりませんね。首都が北京だったのは五、六年前です。それから南京に都はうつり||」
「それは知っとる。首都は南京だろう」
「いえ、ところがそれ以来、また遷都いたしまして、今日は西に、明日はまたさらに西にと遷都して、もう何回目になりますか忘れましたが、とにかく目下のところ中国の首都は、さっき申した猛印にありますのです」
「わしは地理学をよく知らんが、首都をそのようにたびたび変えることは面白くない。第一そうたびたび首都が変って
「いえ贅沢とか趣味とかいう問題ではないのです」
と、トマト氏は今にも泣きだしそうな顔であった。
「||つまり、そ、それにつきまして、
と、彼は懐中から恭々しく、大きな封書をとりだして
そこには、墨くろぐろと、次のような文章が返り点のついていない漢文で認めてあった。
||支那大陸紀元八十万一年重陽の佳日、中国軍政府最高主席委員長チャンスカヤ・カイモヴィッチ・シャノフ恐惶謹言頓首々々恭々しく曰す。こいねがわくば
博士はその長い辞令を
「なんだい、これは」
といった。
馮兵歩は、そこで慌てながら、大辞令の意味をいろいろと詳細に説明をして博士に聞かせたが、博士はいっこう合点のゆかぬ面持であった。
馮大監は、博士ともいわれる人の、理解力の貧困さに呆れかえったが、そのうちに、彼は、いずくんぞしらん
そこで気がついて、彼は蘆溝橋事件からはじまった中国対東洋鬼国との戦闘経過をのこりなく一部始終を説明したところ、博士ははじめて手をうって、
「なるほど、承ってみれば、戦争科学というものは、げにげに面白いもんだのう」
と、たいへん興味を湧かしたようであった。ことに、首都が雲南省のはずれのところまで移動したことについても津々たる興味をもち、もしもう一度空爆をさけて西に遷都をする必要を生じた暁には、首都はどこに移るのか、もしそれがバモとかマンダレに移ったときにはそこはインド王国内であるから、首都は首都であっても果して地理学上、中国の首都といえるかどうかについて、疑義をもったようであった。
しかし馮大監は、それは本日の使命の外のことであるからといって、解答を辞退した。実をいえば、彼にはそれがどういうことになるのかよく分らなかったのでどうせ返答のしようがなかった。
「ええ、ようござる、ようござる。なんとかやってお目にかけると、チャンスカ
と、
それを聞いた馮大監は、大いに面目を施して
そこで
「軍艦を殲滅する一大発明をなし、そしてこれを使って、軍船をことごとく撃沈してしまえばいいのだ。これは実に面白いことになったわい」
と、博士は大恐悦の態で、また釣魚をはじめたのだった。
糸をすいすいと引いたり降ろしたりしながら、
「まず目的というのは、軍船の底に穴をあけてそこから海水の入るにまかせ、沈めてしまえばいいのだ」
それからさらに一歩進んで、
「軍船とは何ぞや」
の定義から始まって、
「軍船は、どうして走るか。船底はどのくらい硬いか。スクリューは何でできていて、硬度はどのくらいか」
などと、記憶をよびもどしたり、結局軍船の攻撃要領を次のように判定した。
すなわち、一、軍船を沈めるのには、すべからく船底に断面積大なる穴をうがつべし。二、第一項の作業を容易ならしむるため、まずもって軍船のスクリューを破壊しおくを有利とす。
というわけで、その要領は実に一見平凡なものであった。しかし、インチキでなく本格ものは何事によらず常にもっとも平凡に見ゆるものであった。
さあ、それからが、大変である。
ではいかにして、一、軍船の胴中に穴をあけ、二、そのスクリューを叩きこわすか、その実践的手段であった。
むつかしい反省はそれ以上しないことにして、
そのとき博士は、屏風岩の上に一冊の雑誌が落ちているのに気がついた。なにげなくとりあげてみると、たいへん物珍らしい外国雑誌であった。表面には中国婦女子の顔が大きく油絵風に描いてあって、たぶんそれは誌名なのであろうが、“SIN・SEI・NEN”と美国文字がつらねてあった。
「ほう、どうしてこんなものが落ちていたのかな」
博士はそれが、今暁この屏風岩の上空をとんでいった東洋人爆撃機からの落し物であろうとは、気がつくよしもなかったし、それが出征将士慰問の前線文庫の一冊である新品月遅れ雑誌であったことをも知るよしもなかった。そして彼の最大の不幸は、なにげなくその誌面をひらいたときに、中篇読切小説として「軍用鼠」なる見出しと、青年作家が恐ろしい形相をして、大きな鼠の顔を凸レンズの中に見つめているという怪奇な図柄とに、ぐっと呼いよせられたことであった。
その「軍用鼠」なる小説は、結局全体として居睡り半分に書いたような支離滅裂なものであったけれど、なにか指摘してある科学的ヒントにおいては傾聴すべきものが多々あったのである。なかんずく著者のコンクルージョンであった。“||軍用鳩あり、軍用犬あり。
これを読んだ
「うーむ、これあるかな、東洋ペン鬼の言や」
と、はるかに東天を仰いで、三拝九拝した。これは
「ああ偉大なる東洋鬼。されど吾れはさらに偉大なり。君が卓越したるアイデアに、吾れはさらに爆弾的ヌー・アイデアを加えん。“軍用鳩あり、軍用犬あり、軍用鼠あり。しかして
唐人の寝言は、このへんで終結した。
彼は釣糸も雑誌も弁当も煙管も、そこへ置きっぱなしにしたまま、自転車にひらりとうちまたがると、ペダルかき鳴らし、
早くもそれから一週間の日がもろに過ぎた。海戦科学研究所大師、
「どうもまだ、これでは員数が不足だ。もうあと、少なくとも三千頭は集めたいものじゃ。さっそく政府に請求しよう」
例の桃葉湯のような色をした海面には、やがて
「もし大帥閣下、馮副官からの無電がまいりました」
と、蒋秘書官が、
「なんだ、なにごとか」
「電文によりますと、どうもトーキーのフィルムをそんなにじゃんじゃん消費せられては困るというのです。目下輸入が杜絶していて、あともういくらもストックがないから、フィルムを使うのをやめてくれとのことです」
「な、なんだ。フィルムを消費するのをやめろというのか。怪々奇々なる言かな。吾が輩は政府依嘱の仕事をやるについて、必要だから使っているのだ。フィルムのことは、こっちで心配すべき筋合いではない。よろしくそっちのフィルム係を督戦したまえと、すぐに電信をうってやりたまえ。じ、実に手前勝手なことをいってくる政府だ」
と、
それと入れかわりに、訓練部長が、準備のできたことを知らせてきた。
「
「よおし、ではそっちへゆこう」
「では、始めるぞ」
「みんないいか、用意!」
海面には虎鮫が、将棋の駒のようにずらりと鼻をならべて左右の戦友をピントの合わない眼玉で眺めている。
「いいねえ。では||はいッ、キャメラ!」
||という具合になって来たが、練魚の最初においては、トーキー撮影とたいしたかわりがない。しかし、そのあとは断然ちがってくるのであった。
ガガーン、ガガーン。
それが虎鮫どもへの信号であった。鮫どもはいっせいにスタート・ラインをはなれて前方へわれ先へとダッシュした。ものすごいスパートである。鮫膚と鮫膚とは火のようにすれあい鰭と鰭との叩きあいには水は真白な飛沫となって奔騰し、あるいは戦友の背中を飛魚のように飛び越えてゆくものあり、魚雷の如く白き筋を引いて潜行するものあり、いや壮絶いわん方なき光景だった。
五十人のキャメラマンは、しずかにクランクモーターの調子を見守っている。言い忘れたが、これらのキャメラマンはことごとくガラス張りの海底にカメラを据えているのであった。ただ集音器だけは、水上に首を出していた。
虎鮫隊は、どこまで走る。
ちょうどその前面にあたって、一隻の大きな鋼鉄船の模型が、上から巨大な起重機でもって吊り下げられ、もちろんその船底と廻るスクリューとは水面下にあった。
がんがん、がりがりがり、と激しい衝撃音がする。
くわっくわっくわっ、と、オットセイのような擬音のうまい鮫もまじっていた。そのとき
いっせいに、真にいっせいに、いままで形相ものすごく、模型船をかじっていた虎鮫どもは、かじるのをやめて、さっと身を引き、粛々として、またスタート・ラインに鼻をならべて引返してくるのであった。実に、なんというか、まことに感にたえる
虎鮫どもが、一汗入れているうちに、五十人のキャメラマンによって海底から撮影されたただいまの猛攻撃のフィルムは、ただちに上にはこばれ、まず第一に現像工場内にベルトでおくられ、わずか一分間で反転現像された。それから第二の審判室に送られ試写幕にうつる鮫どもの活躍ぶりを見ながら百五十人の審判員によって、審判記録されるのであった。
いったいなにを審判するのかというと、第何号の虎鮫がいかに猛烈に船底をかじったか、また、スクリューを砕いたかということを高速度撮影された実物映画によって逐一選抜記録するのであった。それはなかなか厳重をきわめたものであって、あとで百五十人の係員の作製した結果を平均するからして、その成績はしごく公平に現われた。
成績がわかると、鮫どもはわずかに一頭ずつ通れるキャナルへ導かれて、背中に書いた番号によって成績表をつくり、その成績に応じて人間の手や足や、または小指などを、褒美として口の中に抛げこんでやるのであった。
虎鮫どもには、それがどんなにか娯しみだったかしれないのである。褒美の肉をもらって、彼らはいたく満足した。そして彼らが再び腹の減ったと思う頃に、また今のような訓練をくりかえし行うのであった。
鮫どもが腹をすかせたときは、すぐそれと分った。そうなると鮫どもは一刻も早く、あのガガーン、ガガーンという進撃の
「おい、どうじゃな」
と、
「ああ
「うむ、そうか」
「おお黄生理学博士。どうです、このごろの虎鮫の反射度は?」
「ああ閣下、それならもう百パーセントだとお答えいたします。ガガーン、ガガーンと
と、黄博士は、虎鮫の条件反射について詳細なる報告をなした。
「そうか、ようし、では訓練はこれくらいでやめて、あとはいよいよ軍船にむかって実戦をやらすばかりだ」
大襲撃の
それは近代海戦史上空前の大激戦であった。わずか三十九分のうちに、赤湾の中に游よくしていた軍船百七十隻は、一隻のこらず、船底に大孔をあけられ、スクリューをかじりきられて、海底深く沈んでしまった。
「貴様の撃沈したのは、あれはみな、わが海軍の精鋭軍船である。貴様のために、わが政府は、ついに最後の海軍をことごとく失ってしまった。なんという大莫迦者であろう。ただちに貴様討伐隊をさしむけるから、そこを動くな!」
という意外な叱り状であった。しかし
「軍用鮫は役に立って、みごとに軍船百七十隻を撃滅したではないか。まずその恐るべき、偉大な効果を語らずして、その軍船の国籍を論ずるなんて、きゃつも科学のわからんやつじゃ」
そういって博士は、科学者でない人間との