「どうして、おれはこう不運なんだろう」
病院の門を出ると、
院長は、なーに大丈夫ですよ、こんな病気なら注射の五十本もやれば造作なく治りますよ。ただし五十本が一本欠けても駄目ですよ、それをお忘れのないように||と言った。一回三円として、百五十円の金がいるわけだ。ああ、これがたった一度の代償なんだ。
たった一度||というのは、すこし説明を要するが、この半平は元来、貞操堅固の男だったのを友人達が引っ張り出して、東都名物の
そして、数日後に半平は
いや、それよりも差し当たり大問題なのは、あと四十九回の治療代をどうして
これが五年前なら五千円の貯金があった。その年の暮れ、三千円というものを
(四十九回の注射をやらなければ、この身がだんだん腐っていく!)
こうなると、半平は泣いてばかりもいられなかった。
三日三晩考え抜いた揚句、やっとの思いで彼は案外手近に一つの案を発見したのだった。
「どうだったね。貸してくれたかい」
半平は下宿の二階に待っていてくれた友人、
「うん、貸してくれたがね」
友人は
「きみの言うほどは駄目だったよ」
「じゃ、いくら貸したい。二百円か」
「うんにゃ、その半分。百円だあ」
「ちぇっ、百円ぽっちか、それじゃ治療代にも足りゃしない」
半平は川原の××生命へ、一万円の保険を掛けているのだった。この際、払込金の一部を低利で貸してもらおうと思って川原に交渉を頼んだのだったが、それが最高百円ではすっかり予想を裏切ってしまった。
「どうも気の毒だがね、どうにも仕様がないよ。これがきみの細君の保険だったら、ここんとこできみは一万円の
「そういえば、なるほど。どうしておれはこう不運なんだろう!」
「不運といえば、思い出したがね」
友人の川原は改まった口調で語りだした。
「
たいへん耳寄りな話だった。
自分の顔に幸運の黒子を植えつけるわけにはいかないが、鮮やかな幸運の黒子を持つ若い女を女房に持てば相当運が向いてくるだろう。
「そりゃ本当かい」
半平は問い返さずにはいられなかった。
「神龍子の言うことだもの、絶対に信用が置けるさ」
友人は半平の懐疑を
「それでも、五分間ほどこのまま安静にしていてください」
院長は注射器とアンプルの殻とを、看護婦に手渡しながら言った。
「最初のうちは、どうしても注射の反応は強いですよ。まだ二回目だからな。では、お静かに」
そう言って、院長は部屋を出ていった。あとには看護婦が残って、手術器械をカチャカチャと片づけているばかりだった。
「あ、そんなに||」
「お動きになってはいけません。痛みますか。もし······」
目を閉じていた半平の顔のあたりに、若い女の体臭がむんむん
「声を出しちゃ、いけませんよ」
看護婦の熱い
「これを、あとでお読みになってください!」
「

半平はことの意外に驚いて、看護婦の顔を見上げた。
「おお······」
彼はもう少しで大声を出すところだった。逃げるように急ぎ足で部屋を出ていくその看護婦の肉づきのいい
往来へ出ると、半平は若い看護婦から
『失礼ごめんあそばせ。病院で一回三円かかる注射を、あたしの下宿へ午前八時二十分までにおいでくだせれば半額でいたします。
小石川区××町つぼみアパート七号室
半平の顔が、だらしなく解けた。行人の
(幸運の黒子を持った女をひと目見ただけで、こうも運がよくなるものか!)
注射料は半額で済むことにはなるし、幸運に恵まれた若い女は探し当てるし、それに、あの唐崎さんという看護婦の素晴らしい性感はどうだ!
彼はすぐにも飛んで帰って、唐崎さんと握手をしたくてたまらなかった。
筋書どおりに、唐崎さんといつしか
だが、東京に帰ってくると半平は重病になって、どっと床に就いてしまった。高熱がいつまでも下がらなかった。食物もろくろく口へ入らなくなって、とうとう新婚後三十日と
「ななな、何が幸運の黒子だ!」
と
話はこれでおしまいである。
蛇足を加えるならば、半平の考えは間違っていた。幸運の黒子は、やっぱり幸運の黒子だった。なぜなら半平の死とともに、一カ月で未亡人になったみどりは××生命から現金で金一万円也を受け取った。それが亡夫の掛けていた生命保険だったことは、読者諸君のよく承知のところである。
幸運の黒子はみどりにあったので、半平にあるのではなかった。
半平の認識不足が、この物語を生んだのだった。