チエ子は奇妙な
孤児院に居るうちは、ただむやみと可愛いらしい、あどけない一方の児であったが、五ツの年の春に、
背丈けがあまり伸びない上に、子供のもちまえの頬の赤味が、いつからともなく消えうせて、透きとおるほど色が白くなるにつれて、フタカイ
しかしチエ子にはもう一ツ奇妙な······しかしあまり人の目につかない特徴があった。それは何の影もない大空と屋根との境い目だの、木の幹の一部分だの、
母親はこの癖に気付いているにはいたが、
「チエ子さん······何を見ているのです······」
なぞと叱ることもあったが、本当に何を見ているのか、きいてみた事は一度もなかった。
ところが、チエ子が六ツになった年の秋の末のこと、外国航路についている父親から、真赤な鳥の羽根の
母親は早速それをチエ子に着せて、自分も貴婦人みたようにケバケバしく着飾って、四谷へ活動を見に連れて行った。母親は、どちらかといえば痩せギスで、背丈けが
活動が済むころから、風がヒュウヒュウ吹き出したので、かなり寒い、星だらけの夜になった。
その中を二人は手を引き合って帰って来たが、
「······おかあさん······」
母親はビックリしたようにふり返った。
「何ですか······チエ子さん······」
「あそこに······お父さまのお顔があってよ」
と云いつつチエ子は、小さな指をさし上げて、高い高い女学校の屋根の上を
母親はゾッとしたらしく、思わず引いている手に力を入れて叱りつけた。
「何です。そんな馬鹿らしいこと······」
「イイエ······おかあさん······あれはおとうさまのお顔よ。ネ······ホラ······お眼々があって、お鼻があって······お口も······ネ······ネ······ソウシテお帽子も······」
「······マア······気味のわるい······。お父様はお船に乗って西洋へ行っていらっしゃるのです。サ······早く行きましょう」
「デモ······アレ······あんなによく
母親はだまって、チエ子の手をグングン引いてあるき出した。チエ子も一緒にチョコチョコ駈け出したが、暫くすると又、不意に口を利き出した。
「おかあさま······」
「······何ですか······」
「アノネ······おうちのお茶の間の壁が、こないだの地震の時に割れているでショ······ネ······ギザギザになって······あそこにどこかのオジサマやオバサマの顔があってよ。大きいのや小さいのや、いくつも並んで······ソウシテネ······ソウシテネ······また方々にいくつも人の顔があってよ。お隣りのお
と云いさしてチエ子は又急に母親の手を引き止めた。
「······ホラ······あの電信柱の上に、小さな星がいくつも······ネ······ネ······いつもよくうちにいらっしゃる保険会社のオジサマの顔よ······お母様と仲よしの······ネ······」
母親はギックリしたように立ち
「アレ······おかあさまア······待って······」
とチエ子も駈け出したが、石ころに
チエ子はヒイヒイ泣きながら、起き上ってあとを追いかけた。泣いては立ち止まり、走り出しては泣きしながら、辻々の風に吹き散らされて行くかのように、いくつもいくつも御角を曲って、長いことかかってやっと、見おぼえのある横町の角まで来ると、お
チエ子はそのまま立ち止まって、声高く泣き出した。
それから
「······もうチエ子さんは、じき学校に行くのですから、独りでねんねし習わなくてはいけません」
と云って、茶の間に別の床を取って寝かして自分は一人で座敷の方に寝るようにした。活動なぞにも、それから一度も連れて行かないで、自分ばかり朝早くからお化粧をして出かけると、夜遅くまで帰って来ない日が続くようになった。帰りがけにチエ子の大好きな、絵本を買って来るようなこともなくなった。
けれどもチエ子は、別に淋しがるような様子はなかった。それかといって女中と遊ぶでもなく、今までの通り古い絵本を繰り返して拡げたり、いろんなものをジッと見つめたり、人の顔らしいものを地べたに
「どうしてあなたは、そんなに朝寝をするのですか」
或る朝、珍らしく出て行かなかった母親がこう尋ねると、チエ子はいつもの通り母親の顔を見つめながら、下唇をムツムツさしていたが、やがてオズオズとこう答えた。
「あのね······あたし、お母さまとおネンネしなくなってから、夜中にきっと眼がさめるの。ソウスルトネ······
「いけないわねえ子供の癖に······夜中に睡られないなんて······困るわね······どうかしなくちゃ」
と云い云い母親は、こころもち
「······アッ······いいことがあるわよチエ子さん。お母さんがネ······おいしいお薬を買って来て上げましょうネ。ソレをのむとキッとよく睡られて、朝早く起きられますよ······ネ······晩によくオネンネをして、朝早く起きる癖をつけとかないと、今に学校に行くようになってから困りますからね······ネ······ネ······」
チエ子は不思議そうな顔をしいしい
それ以来母親はまた、不思議に
チエ子は一日一日と瘠せ細って、顔色がわるくなって来た。
そのうちに、あくる年の二月の末になって、チエ子の父親が、長い航海から帰って来たが、玄関に駈け出して来たチエ子を見ると、ビックリして眼を
「どうしてこんなになったのか」
と、短気らしく大きな腕を組んで、あとから出て来た母親にきいた。しかし母親がまじめな顔をして、何か
それから
「オイ飯だ飯だ。貴様も早く仕舞って支度をしろ。これから三人で活動を見に行くんだ」
「エ············」
「活動を見にゆくんだ······四谷に······」
お給仕盆をさし出しかけていた母親の顔がみるみる暗くなった。
「何だ······活動嫌いにでもなったのか」
と父親は
「そうじゃありませんけど······あたし今夜何だか······頭が痛いようですの······」
父親は平手で顔を撫でまわした。
「フーン。そらあいかんぞ。半年ぶりに亭主が帰って来たのに、頭痛がするちう法があるか······アハハハハまあええわ、それじゃ去年送った、あの
「それほどでもないんですけれど、永いこと丸髷に結わなかったせいかもしれません」
と母親は、お茶をさしながら甘えるような、
「イヤ······いかんいかん。そんな事を云って無理をしちゃいかん。今年は
活動を見ながらウイスキーをチビリチビリやっていた父親は、いよいよいい機嫌になって帰りかけた。
「オイ。早く来んか。怖いのか······アアン······サ······お父さんが手を引いてやろ······」
と、二三間先へ行きかけた父親が、よろめきながら引返してみると、チエ子は暗い道のまん中に立ち止まって、一心に大空を見上げている。
「何だ······何を見とるのか」
「······あそこにお母さまの顔が······」
「フーン······どれどれ······どこに······」
と父親は腰を低くして、チエ子の指の先を透かしてみた。
「ハハア······あれか······ハハハハ······あれは星じゃないか。
「······デモ······デモ······お母様のお顔にソックリよ······」
「ウーム。そう見えるかナア」
「······ネ······お父さま······あの小さな星がいくつもいくつもあるのがお母さまのお
「······ウーム。わからんな。ハハハハハ······ウンウンそれから······」
「それから白いモジャモジャしたお鼻があって、ソレカラ······アラ······アラ······あのオジサマの顔が······あんなところでお母さまのお顔とキッスをして······」
「アハハハハハハハ············冗談じゃないぞチエ子······何だそのオジサマというのは······」
「······あたし、知らないの······デモネ······ずっと前から毎晩うちにいらっしてネ······お母様と一緒にお座敷でおねんねなさるのよ。あんなにニコニコしてキッスをしたり、お口をポカンとあいたり······」
と云いさしてチエ子は口を
しゃがんでいた父親は、いつの間にか闇の中に
チエ子はそれを見上げながら、今にも泣き出しそうに眼をパチパチさした。そうして、云いわけをするかのようにモジモジと、小さな指をさし上げた。
「······こないだは······アソコに······お父さまのお顔があったのよ······」