一
私はかつて「
虚無僧の話をするついでに、半七老人は虚無僧と普通の僧とに
「この頃は押上町とか向島押上町とかいろいろに分かれたようですが、江戸時代はすべて押上村で、柳島と小梅のあいだに広がって、なかなか大きい村でした。押上の大雲寺といえば、江戸でも有名な浄土宗の寺で、
嘉永六年七月には徳川
「いい月だなあ」
ひとり言を云いながら、路ばたに立って今夜の明月を仰いでいたのは、押上村の農家のせがれ元八であった。元八はことし二十一で、小博奕なども打つという噂のある道楽者だけに、今夜の月を自分の家でおとなしく眺めていることも出来ず、これから何処へ遊びに行こうかなどと考えながら、ほろよい機嫌でここらの
「あの、ちょいと伺いますが、神明様はこの辺でございましょうか」と、女は
「神明様······。徳住寺のかえ」と、元八は月あかりに女の顔をのぞきながら答えた。「徳住寺へ行くなら、あと戻りだ」
「行き過ぎましたか」
「むむ、行き過ぎたね」と、元八はまた答えた。「これから半町ほどもあと戻りをして、往来へ出たら右へ曲がるのだ」
「ありがとうございます」
女は
「ここらで見馴れねえ女だ。狐が化かしにでも来たのじゃあねえかな」
化かす積りならば、そのまま無事に立ち去る筈もあるまいと思うに付けて、ほろよい機嫌の道楽者は俄かに一種のいたずらっ気を
覚られたと知って、元八はすぐに声をかけた。
「姐さん、姐さん。神明さまへ行く途中には、暗い森があって物騒だ。おれがそこまで一緒に行ってやろう」
なんと返事をしたらいいかと、女は少し躊躇している
「さあ、おれが送ってやろう。ここらには悪い奴もいる、悪い狐もいる。土地の者が付いていねえとどんな間違いが起るかも知れねえ」
まずこう嚇して置いて、彼は無理に送り狼になろうとすると、女は別に
「姐さん。この森を抜けた方が近道だ」
彼は女の手をつかんで、薄暗い
「おい、姐さん。そんなに強情を張るもんじゃあねえ。まあ、素直におれの云うことを······」
その言葉が終らないうちに、彼の襟髪は何者にか掴まれていた。はっと驚いて見かえる間もなく、彼は冷たい土の上に手ひどく投げ付けられた。いよいよ驚いた彼は、顔をしかめて這い起きながら見あげると、その眼の前には虚無僧すがたの男が突っ立っていた。自分を投げた男ばかりでなく、ほかにも猶ひとりの虚無僧が女を囲うように附き添っていた。
相手は二人で、しかもそれが虚無僧である以上、相当に武芸の心得があるかも知れないと思うと、元八は俄に
七、八間ほども引っ返して、元八はそっと見かえると、虚無僧らの姿も女のすがたも、もうそこらに見えなかった。彼らは森のなかへ入り込んだらしかった。
「あいつらは道連れかな」と、元八は立ちどまって考えた。折角つけて行った女を横合いから奪われて、おまけに手ひどく投げ付けられて、彼はくやしくてならなかった。勿論、正面から手出しは出来ないのであるが、さりとて此の儘おめおめと別れてしまうのも何だか残念である。あの女は一体何者であるのか、彼女と虚無僧らとどういう関係があるのか、それを探り知りたいような一種の好奇心も手伝って、元八は又そっとあと戻りをした。森と云っても、木立に過ぎないような浅い森である。土地の勝手をよく知っている元八は、続いてその森のなかへ踏み込んで行くと、三人はもう出ぬけていた。
「足の早い奴らだ」
元八も足を早めて、うす暗い森を出ぬけると、その行く手に男二人と女ひとりのうしろ影が明るい月に照らされて見えた。彼らは神明の
寺はかの竜濤寺であった。
二
その翌日から竜濤寺の住職と納所が
お鎌は蒼くなって表へ逃げ出した。そうして、近所へ触れて歩いたので、村の者らも早速に駈け着けると、竜濤寺の古井戸から人間の
この急報におどろかされて、村役人も駈けつけた。他の村人も集まって来た。四人の死骸を一度に発見したなどというのは、この村は勿論、江戸の市内にもめったに聞いたことのない椿事であるから、人々はいたずらに慌て騒ぐばかりであったが、それでも型の如く届け出て、型のごとくに検視を受けた。
僧ふたりの亡骸は住職と納所に相違なかったが、ほかの二人の虚無僧は何者であるか判らなかった。虚無僧である以上、
更に不思議というべきは、この四人の死骸に一カ所の疵の痕も見いだされないことであった。
「なにか騒々しいことが
神田三河町の半七が子分の松吉をつれて、押上村の甚右衛門の店さきに立った。甚右衛門はその昔、
「やあ、三河町、めずらしいな。まあ、あがんなせえ。松さんも一緒だね。御苦労、御苦労。おまえさん達が繋がって来た筋は大抵わかっている。まったく騒々しくって、どうもいけねえ」
そのうちに
「どうです、相変らず御繁昌のようですね」と、半七も笑いながら
「お蔭でどうにか店を張っているが、なにしろ
「わたし達の縄張りの内の仕事じゃあありませんが、なにしろ事件が大きいから、ひと通りは調べて来いと、御寺社の方から声がかかったものですから、何がなんだか夢中で飛び出して来ました。いずれ名主さんのところへ顔出しをする積りですが、それよりもまあ緑屋さんへ早く挨拶に行って、なにかの指図を受けた方がよかろうというので、取りあえずお邪魔に来たようなわけで······」
まだ何か云おうとする半七を、甚右衛門は大きい手をあげて制した。
「いけねえ、いけねえ。相変わらず
今は堅気になっていても押上の甚右衛門、ここらでは相当に顔の売れている男である。その顔を立てて真っ先に尋ねて来た半七に対して、彼も大いに厚意を示さなければならなかった。江戸のお客の口には合うまいがと云い訳をしながら、彼は女房や女中たちに指図して、すぐに酒肴を運び出させた。
「竜濤寺の一件は大抵知っていなさるだろうね」と、甚右衛門は
「よく知りません。なんでも出家が二人、虚無僧が二人、古井戸のなかで死んでいたそうで······」と、半七は答えた。
「そうだ、そうだ」と、甚右衛門はうなずいた。「詰まりはそれだけのことで、ほかにはなんにも手がかりはねえ。からだに疵のねえのを見ると、自分たちで身を投げたようにも思われるが、坊主と虚無僧の心中でもあるめえ。ここらじゃあ
「かたき討······」
「相手が虚無僧だけに、芝居や講釈から割り出して、かたき討なぞという噂も出るのだ。仇ふたりが出家に姿をかえて、あの古寺に忍んでいるところへ、虚無僧ふたりが尋ねて来て、親か兄弟のかたき討、いざ尋常に勝負勝負の果てが、双方相討ちになったのだろうというのだが······。それにしても、四人の死骸がどうして井戸から出て来たのか、その理窟が呑み込めねえ、第一、どの死骸にも疵のねえのが不思議だ」
「その寺には
「ここらでも
「その虚無僧は、前から寺に泊まっていたんですかえ」
「今までは住職と
「ふうむ」と半七は、猪口をおいて考えていた。松吉も眼をひからせながら、黙って聴いていた。
「それに就いて少し話がある」
云いかけて甚右衛門は眼で知らせると、酌に出ていた女中はこころえて、早々に座を起って行った。その足音が梯子段の下に消えるのを聞きすまして、彼はひと膝ゆすり出た。
「死骸の見付けられたのはきのうの朝のことだが、虚無僧はその四日前の十五夜の晩から泊まり込んでいたらしい。それを知っている者は、ここらにたった一人あるんだが、うっかりした事をしゃべって飛んだ係り合いになっちゃいけねえと思って、黙って口を
「若けえ女······」と、半七と松吉は思わず顔をみあわせた。
「むむ、若けえ女だ」と、甚右衛門はほほえんだ。「ところが、その若けえ女だけは死んでいねえ。おもしれえじゃねえか」
なるほど面白いと半七も思った。その女の身許を突き留めれば、もつれた糸はだんだんに解けるに相違ない。それを知っているたった一人の男というのは、この村の元八であると甚右衛門は話した。
「元八というのは、ここの
三
気の毒なほどの馳走になって、女中たちに幾らかの祝儀をやって、半七と松吉が緑屋を出たのは昼の八ツ(午後二時)を少し過ぎた頃であった。
「緑屋の爺さんのお扱いがいいので、思いのほかに油を売ってしまった。これから本気になって稼がなけりゃあならねえ」と、半七はあるきながら云った。
「真っ直ぐにその竜濤寺というのへ行ってみますかえ」と、松吉は
「いや、まあ、名主のところへ顔を出して置こう。それでねえと、なにかの時に都合の悪いことがある」
二人は名主の家をたずねて、寺社方の御用で来たことを一応とどけて置いた。ここでも事件のひと通りを聞かされたが、別にこれぞという手がかりも見いだされなかった。
「これから現場へ踏み込んでみたいのですが、誰か案内して貰えますまいか」
名主の家では承知して、
「一番はじめに死骸を見付けたというお鎌婆さんは、どんな人間だね。正直かえ」
「正直者という程でもねえかも知れねえが、これまで別に悪い噂も聞かねえようですよ」と、友吉は答えた。
「若いときには品川辺に住んでいたそうですが、十五六年も前からここへ引っ込んで来て、小さい荒物屋をやっています。三年前に亭主が死んだ時、自分の寺は遠くて困るというので、あの竜濤寺に埋めて貰って、墓まいりに始終行っていたのですよ」
「婆さんは幾つだね」
「五十七八か、まあ六十ぐらいだろうね。子供はねえので、亭主に別れてからは、
「
「徳住寺······。神明様のあるお寺だが······。その寺のすぐそばですよ」
「その婆さんは本当に子供はねえのかね」と、半七は念を押した。
「よそにいるかも知れねえが、家にはいねえ。自分は子供も親類もねえと云っていますよ」
十五夜の月の下にさまよっていた若い女は、元八にむかって神明様のありかを尋ねたということを、半七は甚右衛門の話で知っていた。その女とお鎌婆さんとの間に、何か因縁があるのでは無いかと、半七はふと思い付いた。たとい実の子はなくとも、親類の娘か、知り合いの女か、それがお鎌をたずねて来るようなことが無いとも限らないと、彼は思った。それにしても、
「成程、ひどい荒れ寺だな」と、松吉は傾きかかった門を見あげながら云った。「これじゃあ何かの怪談もありそうだ」
門内にはそのむかし雷火に打たれたという松の大木がそのままに横たわって、古い
半七も松吉も井戸をのぞいた。日をさえぎる百日紅の影に掩われて、暗い古井戸の底は更に薄暗かった。井戸はなかなか大きいので、四人の死骸を沈めるのに仔細はないと思われた。友吉に案内させて、半七らは更に墓場を見まわると、そこらの大樹の下に二、三カ所、新らしく掘り返したような跡が見いだされた。半七は身をかがめて窺うと、本堂の縁の下にも同じような跡が見えた。
「むやみに掘りゃあがったな」
「そうですね」と、松吉も仔細らしく首をかしげていた。
三人はそれから本堂にのぼると、狭いながらも正面には型のごとくに
「仏さま、御免ください。少々お邪魔をいたします」
こう云って、半七は仏前の香炉、花瓶、そのほかの仏具を一々
「おい。見ろ。埃だらけの仏具に新らしい指のあとが残っている。ゆうべか今朝あたり、ここらを掻きまわした奴があるに相違ねえ」
半七はそこにある
「この寺じゃあ木魚を叩きますかえ」と、彼は友吉に
木魚を叩くか叩かないか、それはよく知らないと友吉は答えた。半七は再び木魚をたたいた。
「和尚の居間はどこだね」
「こっちですよ」
友吉は先に立って行きかかると、半七もふた足三足ゆき掛けたが、また小戻りして松吉にささやいた。
「おい、松。その木魚には仕掛けがある。あっちへ行っている
無言でうなずく松吉をそこに残して、半七は友吉のあとを追ってゆくと、破れ襖は明け放されたままで、住職の居間という六畳敷のひと間が眼の前にあらわれた。半七は先ず押入れをあけると、内には寝道具と一つの
「ちょいと手を借してくんねえ」
友吉に手伝わさせて、半七は押入れから寝道具をひき出してみると、枕は坊主枕一つと木枕二つ、掛蒲団と敷蒲団も三、四人分を貯えてあるらしかった。大きい古蚊帳も引んまるめたように畳んであった。
松吉はそっと来て声をかけた。
「親分······」
なにかの発見をしたらしい眼色を覚って、半七は友吉を見かえった。
「おめえはちょっとの間、玄関の方へでも行って待っていてくれねえか。邪魔にするわけでもねえが、御用で調べ物をする時に、
友吉はおとなしく立ち去った。それを見送って、二人はもとの本堂へ引っ返すと、松吉はかの木魚を指さした。
「親分はさすがに眼が利いているね」
「眼が利いているのじゃあねえ、耳が利いているのだ。あの木魚の音がどうも唯でねえと思った。それで、どうした」
「この通り······」と、松吉は笑いながら木魚に手をかけてもたげると、木魚には
「なるほど。考えやがったな」と、半七も笑った。
木魚の内が空になっているのは普通であるが、これは別に底蓋を作って、その上に

半七はその結び文をあけて見ると、女文字で「十五や御ようじん」と書いてあった。十五夜御用心||それは十五夜に於ける異変を予告するようにも見られた。
「なんの為にこんな仕掛けをして置いたのかな」と、松吉は木魚をながめた。「密書を投げ込む為かね」
「まあ、そうだろう。今も寝道具を調べたら、白粉や油の匂いがする。ここには女文字の
「あい、ようがす。だが、お前さん一人ぼっちでこんな所にいて······。なにが出て来るか判りませんぜ」
「はは、大丈夫だ。いくら古寺でも、まっ昼間から化け猫が出ても来ねえだろう。出てくるのは鼠か藪っ蚊か。まあ、そんなものだろうよ」
「ちげえねえ。じゃあ、行って来ます」
松吉は縁さきから庭に降りて、表の玄関口へまわったかと思うと、やがて聞き慣れない男の声がきこえるので、半七は暫く耳を澄ましていたが、ふと思い当ることがあったので、続いて表へ出て見ると、そこには松吉と案内者の友吉のほかに、小作りの若い男が立っていた。
「おめえは元八じゃねえか」と、半七はだしぬけに声をかけた。
「へえ」と、男は恐れるように答えた。
「そうか。実はおめえにも逢いてえと思っていたのだ。おい、松。ここには構わずに、おめえ達は早く行って来てくれ」
二人を表へ追いやって、半七はおどおどしている元八を住職の居間へ連れ込んだ。元八はもう相手の身分を承知しているらしく、なんとなく落ち着かないような顔をして、半七の眼色をうかがっていた。
「おめえはここへ何しに来たのだ」と、半七は先ず
元八は黙っていた。
「おれ達のあとを
元八はやはり黙っていた。
「じゃあ、まあ、その詮議はあと廻しにして、これから俺の訊くことに応えてくれ」半七は重ねて云った。「緑屋の爺さんの話を聞くと、おめえは十五夜の晩に
「帰りました」と、元八は低い声で答えた。
「寺へはいるのを見届けただけで、すぐに帰ったのかえ」
「帰りました」と、元八は又答えた。
「真っ直ぐに帰ったかえ。確かに帰ったかえ」と、半七は相手の顔を睨むように見た。「緑屋の爺さんは欺されても、おれは欺されねえ。おめえは何処までも三人のあとを
「まったく直ぐに帰りましたので······。あとの事は知りません」
「こいつ、道楽者のくせにあっさりしねえ野郎だな。やい、元八。てめえはあのお鎌という婆さんから鼻薬を貰って、口を
頭から嚇されて、元八は蒼くなった。半七は
「さあ、野郎。この腕に縄が掛かるか、掛からねえかの分かれ道だ。返事をしろよ。返事をしねえかよ」
掴んだ腕をゆすぶられて、元八はいよいよふるえた。
「親分の仰しゃる通り、実は三人のあとを尾けて······」
「寺のなかまではいり込んだな。それからどうした」
「三人は案内も無しに上がり込みました」
「坊主はいたのか」
「住職、納所もいました。三人は住職の居間へ通って······」
「この六畳だな」
「そうです。住職も納所も虚無僧も女も、みんな一緒に寄り集まって、ここで酒を飲み始めました」
「おめえはそれを何処で覗いていた」
「庭から廻って、あの大きい芭蕉の蔭で······。すると、だしぬけに袂を掴んで引っ張る奴があるので、驚いて振り返ると······」
「お鎌婆さんか」と、半七は笑った。
「お鎌はわたしをむやみに引き摺って、表の玄関の方まで連れ出して、わたしの手に一
「おめえはお鎌と心安くしているのか」
「別に心安いというわけでもありませんが、あの婆さんは小金を持っているので、時々ちっとぐれえの小遣いを借りることもあるのです。いえ、なに、借り倒すなんていう事は出来ません。あの婆さん、なかなか厳重ですから······」
云いかけて、元八は
四
「そこで、話はあと戻りをするが、おめえは何でおれ達のあとを尾けて来たのだ」と、半七は
それに就いて、元八はこう答えた。彼はさっき、緑屋の近所を通りかかると、店の女中たちに送られて出る二人の客のすがたを見た。元八も道楽者であるだけに、この二人を唯の客ではないらしいと鑑定して、女中にそっとたずねると、彼らは三河町の半七とその子分であるという。それを聞くと、彼は俄かに一種の不安に襲われて、亭主の甚右衛門に相談するひまも無く、すぐに半七らのあとを追って、影のように付け廻していたのである。但し、自分はお鎌から一歩の金を貰っただけで、ほかには何の係り合いも無いと弁解した。
「おめえは其の後にお鎌に逢ったか」と、半七は又
「ここの井戸から四人の死骸が揚がったという評判を聞いて、わたしもすぐに駈け着けてみると、お鎌も来ていました。なにしろ最初に死骸を見付けた本人ですから、名主さん達からいろいろのことを訊かれていましたが、わたしは何だか気が咎めるので、なるたけ後の方へ引きさがって、遠くから覗いていました。その時ぎりでお鎌に逢ったことはありません」
「死骸を見つけたのは、十五夜から四日目だというじゃあねえか。そのあいだに、一度もお鎌に逢わなかったのか」
「逢いませんでした」
この時、庭口から松吉が大急ぎで帰って来た。八月の秋の日はまだ暑いので、彼は襟もとの汗をふきながら云った。
「親分、お鎌はいませんよ」
「
「荒物屋の店は
「どうにも仕方があるめえ」と、半七は舌打ちした。「
「店へはいって探してみたら、毎日の売り揚げを付けて置く小さい帳面がありました。これじゃあ役に立ちませんか」と、松吉はふところから藁半紙の帳面を出してみせた。
「むむ。なんでもいい」
半七はその帳面を受け取って、かの結び文の「十五や御ようじん」と引き合わせると、松吉も縁へ這いあがって覗き込んだ。
「成程、似ているようですね」
「似ているじゃねえ。確かに同筆だ。この寺へはいろいろの奴らが寄り集まって来て、その置手紙を木魚の口へ投げ込んで置いて、なにかの打ち合わせをすることになっているらしい、そこまでは先ず判ったが、さてこの十五夜御用心······。誰に用心しろと云うのかな」
云いかけて、又なにか思い出したように、半七は向き直った。
「おい、元八。おめえはその芭蕉のかげで立ち聴きをしていて、なんにも話し声は聞えなかったか」
「声が低いので、よく聴き取れませんでした。ただ一度、全真という納所坊主がこの縁側から月をながめて、ああいい月だ、
「諏訪の祭り······信州かな」と、松吉は口を出した。
「いや、信州の諏訪は十月じゃあるめえ」と、半七は打ち消した。「十月の祭りならば、長崎の諏訪だろう。九州一の祭りで、たいそう立派だそうだ。そんな話を誰かに聞いたことがあるようだ。むむ、長崎か······長崎か······」
長崎を口のうちで繰り返した後に、半七は証拠の結び文と売揚げ帳をふところへ押し込んだ。
「いつまでここに
「荒物屋の方はどうしますね」と、松吉は
「あの男にばかり任かしちゃあ置かれねえ。おめえも行って気長に張り込んでいろ。俺もいずれ後から行く。元八はいつまた呼ぶかも知れねえから、
元八は幾たびか頭を下げて、逃げるように出て行った。半七も松吉もつづいて出た。
「あの野郎はどうでした。妙におこ付いているじゃありませんか」と、松吉は小声で云った。
「道楽者と云ったところで、安い野郎だ。あいつ案外の正直者だから、なにかの
途中で松吉に別れて、半七は再び緑屋の
「又お邪魔に出ました。日の暮れるまで往来に突っ立ってもいられねえから、軒下を借りに来ました。どうぞ構わねえで置いて下さい」
勿論それはひと通りの挨拶で、緑屋でも構わずに捨てて置く筈はなかった。半七は愛想よく迎えられて再び二階の小座敷へ通されると、甚右衛門もあとから上がって来た。
「どうだね。お前さんの眼利きは······。たいてい見当は付いたかね」
「おさき真っ暗で眼も鼻も利きません」と、半七は笑った。「なにしろ日が暮れてから、もう一度出直して見たいと思います」
「じゃあ、ゆっくり休んで行きなせえ。古寺へ化け物の詮議に行くのは、やっぱり夜の仕事だろうな」と、甚右衛門も笑った。「そこで、どうだね。元八の奴を呼びにやろうか」
「元八は来ましたよ」
「寺へか。お前さん達のあとを尾けて······。はは、馬鹿野郎め、定めし嚇かされたろうな」
「嚇かしもしねえが、ちっとばかり口を取って置きましたよ。そこで、ちょいと伺いたいのですが、ここらに長崎者はいませんかね」
「長崎者······。そんな
「いや、どうということもねえのですが、そのお鎌というのが影を隠したらしいので······。お前さんも知っていなさるか知らねえが、元八は十五夜の晩に、あの寺でお鎌から一歩貰ったそうですよ」
「へええ」と、甚右衛門は眼を丸くした。「あの野郎、おれには隠していやあがったが、そんな事があったのかえ。してみると、あいつもいよいよ係り合いは抜けねえ。お鎌という女も唯は置かれねえ奴らしいな」
「そうでしょうね」と、半七は煙草を吸いながら考えていた。
秋の日もやがて暮れかかって、再び酒と肴が持ち出されたが、半七は酒を辞退して夕飯を食った。その箸をおいて茶を飲んでいる処へ、松吉が詰まらなそうな顔をして帰って来て、お鎌はいまだに姿をみせないと云った。恐らく再び帰らないのであろうと、半七は想像した。
「おれもそうだろうと思った。おめえもここで夕飯の御馳走になれ。仕事はこれからだ」
裏の田圃に秋の
「松、しっかりしろよ。さっきも云う通り、今夜の怪物は化け猫に古狐だ。引っ掻かれねえように用心しろ」と、半七は笑いながら先に立った。
竜濤寺に行き着いて、二人は暗い本堂のまん中に坐り込んだ。あいにくに宵闇の頃であるのが、二人に取っても都合がいいようでもあり、悪いようでもあった。
「ひどい蚊だね」と、松吉は左右の袖を払いながら云った。「これじゃあ遣り切れねえ」
「ひる間でさえもあの通りだ。夜は蚊責めと覚悟しなけりゃあならねえ」と、半七は云った。「まあ、我慢しろ。蚊ばかりじゃあねえ、今に化け物が出るだろう」
蚊の声、虫の声、古寺の闇はいよいよ深くなって屋根の上を
「親分。化け物はまだ来ねえかね」
「秋の夜は
「まったく秋の夜は長げえ。ここらで一服吸ってもいいかね」
「いけねえ。
「いやに暗い晩だね」
「暗いから火は禁物だというのだ」
その暗い夜を照らすような
いつの間に忍んで来たのか知らないが、自分らの眼のさきに怪しい女の顔がだしぬけに浮き出したので、二人とも思わずぎょっとする
これと同時に、かの古井戸あたりでも何か飛び込んだような水の音がきこえた。半七は暗い中で声をかけた。
「松。井戸の方へ廻ってみろ」
稲妻はまた光った。怪しい大きい人は芭蕉の蔭にかくれて、手には
五
「お話は先ずこのくらいにして置きましょう」と、半七老人は云った。「どうです。大抵はお判りになりましたか」
「まだ判りません」と、私は自分の神経の
「女ですか。ひとりは捉まえたが、一人は逃がしてしまいましたよ」
「じゃあ二人ですか」
「ひとりは匕首を持っていた女······。そいつは刃物を振りまわして、私に斬ってかかって来ましたが、こっちも商売ですから、空手でどうにか捻じ伏せてしまいました。もう一人の女······例の古井戸の方へ忍んで来た奴は、松吉を突き退けて逃げたんです。なにしろ真っ暗闇ですからね」
「井戸へ飛び込んだのは誰なんです」
「飛び込んだのじゃあない、投げ込んだのですよ。男の死骸を······」
「男の死骸······」
「元八という奴の死骸です」
「元八も殺されたんですか」
「可哀そうに殺されました」
「一体その女たちは何者です」と、わたしは
「ひとりはおまんという女で、若いように見えても二十六でした。もう一人は例のお鎌という女で、こいつは年に似合わない頑丈な婆さんでした」と、老人は説明した。「そこで、あなたも大抵お察しでしょうが、竜濤寺という古寺は悪い奴らの隠れ家で······。芝居や草双紙にもよくありますが、とかく古寺なんていうものは、山賊なんぞの
「じゃあ、虚無僧ふたりも偽物ですね」
「勿論これも偽虚無僧、芝居ならば忠臣蔵の本蔵とか
そこで、古井戸の死骸ですが、出家二人と虚無僧二人が、一度に身投げをするのもおかしい。おまけに、その死骸が水を
「そこで、そのお鎌というのはどういう人間なんですか」と、私もいよいよ興味をそそられて訊いた。
「お鎌は果たして長崎の人間でした。死んだ亭主の名は徳之助と云って、二十年ほども前から夫婦連れで国を出て、何かの縁を頼って、初めは江戸の品川に
「虚無僧は何者です。やっぱり長崎の生まれですか」
「いや、これは長崎じゃありません。二人とも北国筋の浪人だと云っていたそうですが、本当の身許はわかりません。ひと通りの武芸は出来たようですから、ともかくも大小をさした人間の果てには相違ありますまい。二人は兄弟でもなく、叔父甥でもなく、ひとりは石田、ひとりは水野と云っていたそうですが、もちろん偽名でしょう。どこでどう知り合いになったのかも知りませんが、石田と水野も竜濤寺の仲間入りをして、前にも云ったように、大きい町人や旗本屋敷を荒らし廻っていたんです。そうして幾年のあいだは、うまく世間の眼を晦ましているうちに、ここに一つの
「おまんという女の一件ですか」
「あなたも若いだけに、そういう方へはすぐに神経が働きますね」と、老人は笑った。「お察しのごとく、そのおまんが捫著の種で······。こいつは長崎の女郎あがりで、十九の年に大阪の商人に請け出されて行ったそうですが、間もなく店の若い者と一緒に駈け落ちをして、途中で捨てたのか捨てられたのか、ともかくも自分ひとりで江戸へ出て来て、それから妾奉公や、いろいろのことをやっていたんです。何でも雪のふる日に、本所の番場辺へ行く途中、多田の薬師の前で俄かに癪が起って悩んでいるところへ、虚無僧の石田が通りかかって介抱して、自分の隠れ家の竜濤寺へ連れ込んだと云うんですが、いずれ女の方から持ち掛けたか、男の方から誘いかけたか、何かの理窟があるんでしょう。ところが、このおまんという奴は女郎あがりの腕の凄い女で、石田と水野と全達と全真の四人をみんな巧く丸め込んで、自分がこの四人組の大将分のようになってしまったんです。こうなると、男は意気地がありませんね。ははははは。しかしおまんは竜濤寺に同居しないで、深川の方に妾宅風のしゃれた暮らしをして、うわべは囲い者かなんぞのように見せかけて、時々に寺へ通って来ていたんです。
それだけなら未だよかったんですが、四人のなかでは全真が一番若い。ことし二十五で、おまんよりも一つ年下です。殊に双方が同国の長崎というんですから、おまんは誰よりも全真を余計に可愛がるような素振りが見える。それが他の三人には面白くない。その
お鎌も人情で、自分の甥は可愛いのですから、そのことをそっと知らせてやろうと思って、十五夜の昼に竜濤寺へ来てみると、おまんもいない、男四人もいない、そこで、かの十五夜御用心を書いて木魚の口へ押し込んで置いたというわけです。
しかしその木魚のポストを誰が明けるか判らない。全真かおまんが明ければいいが、他の三人が明けることになって、折角の結び文が他人の手に渡ってしまっては、御用心が御用心にならない。お鎌も内々それを心配していると、その日が暮れてから、おまんが深川から通って来て、なにかの用でお鎌の店へも寄ったので、お鎌はこれ幸いと思って、十五夜御用心の一件をおまんにささやくと、おまんも薄々それを察していたので、万事はあたしに任かせて置きなさいと云って帰った。その帰り
「元八はおまんを知らなかったんですね」
「坊主たちは格別、おまんと虚無僧二人はよほど出這入りに気をつけていたと見えて······尤も今と違って人家はまばらで、あたりには田や畑が多いんですから······近所の者もよくは知らなかったそうです。元八も知らないで化かされた。まったく悪い狐です。その狐に
これにはおまんも驚いた。というのは、例の睡り薬の一件で······。おまんは喧嘩の先手を打って、全達と石田と水野の三人に睡り薬を飲ませる積りで、その計略は成就したんですが、どうした間違いか全真にも飲ませてしまって、これも将棋倒しのお仲間入りをしたので、おまんもはっと思ったが今更どうにもならない。そこへお鎌も様子をうかがいに来たので、二人は相談の上で四人の死骸を順々に抱え出して古井戸へ沈めることにした。しかし、いつまでも其の儘にしても置かれないので、それから四日目にお鎌が偶然見付け出したような振りをして、俄かに騒ぎ始めたというわけです」
「木魚のポストは誰も明けなかったんですね」
「誰も明けなかったと見えます、御用心がなんの役にも立たないで、こんな騒ぎになってしまったので、おまんもお鎌ももう忘れていたんでしょう。私が乗り込んだ五日目まで、結び文はちゃんと残っていました」
これで事件の真相は明白になったが、まだ判らないのは二人の女が其の後も古寺へ出入りして、かの元八をも同じ井戸に葬ったことである。それに就いて、半七老人は更に説明を付け加えた。
「睡り薬の手違いで、こんなことになった以上、おまんもお鎌も思い切りよく別れてしまえばよかったんですが、二人にはまだ未練がある。四人がこれまでに盗んだ金や、右から左に処分することの出来ないような金目の品々が、寺の何処にか隠してあるに相違ないというので、二人は人目に付かないように忍び込んで、墓場や床下を掘ってみたり、
「元八の死骸は誰が運んで来たんです。女たちの手には負えないでしょう」
「元八は小柄の男で、お鎌は頑丈な女ですから、自分が負って行ったということになっているんですが、実際はどうでしょうかね。緑屋の甚右衛門は堅気になっていますが、昔の子分のうちには今でもぶらぶらしているやくざがいる。そんな奴が幾らかの鼻楽を貰って、お鎌に手を貸してたんじゃあないかとも思われますが、甚右衛門の顔に免じて、そこはまあ
「おまんはあなたに捉まって······。それから、お鎌はどうしました」
「一旦は逃げましたが、五、六日の後に深川の
「問題の睡り薬は、どっちの女が持っていたんです」
と、私は最後に
「いや、それがおかしいので······」
と、老人は笑った。
「おまんはお鎌から受け取ったと云い、お鎌はおまんから受け取ったと云い、両方で押し合いをしているんです。もうこうなった以上は、誰が持って居ようとも、罪科に重い軽いは無いわけですが、それでもお互いに強情を張って、しまいまで素直に白状しませんでした。しかし私の鑑定では、おまんが持っていたんでしょうね」