「安政三年······十一月の十六日と覚えています。朝の七ツ(午前四時)頃に神田の柳原
半七老人は表情に富んでいる
「旦那の家は玉子屋新道で、その屋敷の門をくぐると、顔馴染の徳蔵という
きょうから八日前のことであった。例年の通りに、お茶の水の聖堂で
出頭の時刻は五ツ半というのであるが、前々からの習慣で、吟味をうける者は六ツ時(午前六時)頃までに聖堂の門にはいるのを例としていたので、屋敷の遠い者は夜のあけないうちから家を出て行かなければならない。そうして、いよいよ吟味のはじまる四ツ時(午前十時)まで待っていなければならない。たとい武家の子供だと云っても、ちょうど十二三のいたずら盛りが大勢一度に寄り合うのであるから、控え所のさわぎは一と通りでないのを、勤番支配の役人どもが叱ったり




角右衛門の主人の伜杉野大三郎もことし十三で吟味の願いを出した。大三郎は組中でも評判の美少年で、黒の


水道橋を渡っても、冬の夜はまだ明けなかった。蒼ざめた星が黒い松の上に凍り着いたように寂しく光って、鼠色の靄につつまれたお茶の水の流れには水明かりすらも見えなかった。ここらは取り分けて霜が多いと見えて、高い
「これは困った。又蔵、
中間の提灯を差し付けさせて、平助は堤の裾にしゃがんで草履の緒を立てていた。どうにかこうにかつくろってしまって、さて振り返って見ると、そばに立っているはずの大三郎の姿がどこかへか消えてしまったのである。二人はおどろいた。子供のことであるから、あるいは自分たちを置き去りにして先に行ったのかとも思ったので、二人は若さまの名を呼びながら後を追ったが、半町ほどの間にそれらしい影は見えなかった。いくら呼んでも返事はなかった。ただ時々狐の声がきこえるばかりであった。
「狐に化かされたんじゃあるまいか」と、又蔵は不安らしく云った。
「まさか」と、平助はあざ笑った。しかし彼にもその理窟が判らなかった。自分がうずくまって草履の鼻緒を立て、又蔵がうつむいて提灯をかざしているうちに、大三郎の姿はいつか消え失せたのである。わずかの間にそんなに遠いところへ行ってしまう筈がない。呼んでも答えない筈がない。殊にあたりは往来のない
「そう云っても子供のことだ。あんまり寒いので無暗に駈け出して行ったのかも知れない」
二人はここに迷っていてもしようがないので、ともかくも聖堂まで急いで行った。係りの役人に逢って訊いてみると、杉野大三郎どのはまだ到着されないとのことであった。二人は又がっかりさせられた。よんどころなく再び引っ返して、もと来た道を探して歩いたが、どこにも大三郎の姿は見付からなかった。
「いよいよ狐に化かされたか。それとも神隠しか」と、平助もだんだんに疑いはじめた。
この時代には神隠しということが一般に信じられていた。子供ばかりではない、相当の年頃になった人間でも、突然に姿をかくして五日、十日、あるいは半月以上、長いのは半年一年ぐらいも其のゆくえの知れないことがしばしばある。そうして、ある時に何処からともなしに飄然と戻って来るのである。その戻ってくる場合も常とは違って、ある者は門前に倒れているのもある。ある者は裏口にぼんやり突っ立っているのもある。甚だしいのは屋根の上でげらげら笑っているのもある。だんだん介抱して様子を聞きただしても、本人は夢のようでなんにも記憶していないのが多い。ある者は奇怪な山伏に連れられて遠い山奥へ飛んで行ったなどと云う。その山伏はおそらく天狗であろうと云い伝えられている。仮りにも武士たるものがそんな怪異を信ずべきではないと思いながら、平助も今の場合、あるいは主人の息子もその天狗山伏に掴み去られたのではないかという幾分の不安がきざして来た。
いずれにしてもこれは一大事である。幼い主人の供をして出て、そのゆくえを見失ったとあっては、二人ともにおめおめと屋敷へは戻られない。又蔵はともあれ、仕儀に依っては平助は申し訳に腹でも切らなければならないことになる。二人は顔の色を変えてただ溜息をつくばかりであった。
「仕方がない。屋敷へ帰って
平助はもう度胸を据えて、又蔵と一緒に引っ返した。先刻から往きつ戻りつ、よほどの時を費したので、二人が力のない足を引き摺って再び水道橋を渡る頃には、又蔵の提灯の蝋はもう残り少なくなっていた。狐の声は鴉の声に変っていた。
杉野の屋敷でもこの不思議な報告を受け取って上下ともに顛倒した。併しみだりにこんなことを世間に発表してはならぬと、主人の大之進は家中の者どもの口を封じさせた。聖堂の方へは大三郎急病の届けを差し出して、当日の吟味を辞退することにした。平助と又蔵は無論にその不調法をきびしく叱られたが、主人は物の分かった人であるので、この不調法の家来どもに対して
これは云うまでもないことで、平助と又蔵とは当然の責任者として、是非とも若殿のゆくえを探し出さなければならなかった。彼等ばかりでなく、屋敷中の者はみんな手分けをして心当りを探索することとなった。奥様は日頃信仰する市ヶ谷八幡と氏神の永田町山王へ代参を立てられた。女中のある者は名高い
「なにぶんにも屋敷の名前にもかかわること。くれぐれも隠密におねがい申す」と、角右衛門は幾たびか念を押した。
「かしこまりました」
半七は参考のために大三郎の人相や風俗を訊いた。あわせてその性質や行状をたずねると、彼は五歳から手習いを始めて、七歳から大学の素読を習った。読み書きともに
「御子息様には御兄弟がございませんか」
「ひと粒だねの相続人、それゆえに主人は勿論、われわれ一同もなおなお心配いたして居る次第、お察しください」
忠義な用人の眉はいよいよ陰った。
神隠し||この時代に生まれた半七はまんざらそれを嘘とも思っていなかった。世の中にはそんな不思議がないとも限らないと思っていた。そこで、それが真実の神隠しであるとすれば、とても自分たちの力には及ばないことであるが、万一ほかに仔細があるとすれば、何とかして探し当らない筈はないという自信もあるので、ともかくも出来るだけのことは致しますと、彼は角右衛門に約束して別れた。
家へ帰る途中で彼はかんがえた。由来、旗本屋敷などには、世間に洩れない、いろいろの秘密がひそんでいる。正直に何もかも話してくれたようであるが、用人とても主家の迷惑になるようなことは口外しなかったに相違ない。したがって此の事件の奥には、どんな入り組んだ事情がわだかまっていないとも限らない。用人の話だけでうっかり見込みを付けようとすると、飛んだ見当違いになるかも知れない。とりあえず裏四番町の近所へ行って、杉野の屋敷の様子を探って来た上でなければ、右へも左へも振り向くことが出来そうもないと思ったので、半七は神田の家へ一旦帰って、それから又出直して九段の坂を登った。
埋め立ての空地を横に見て、裏四番町の屋敷町へはいると、杉野の屋敷は可なり大きそうな構えで、午すぎの冬の日は南向きの長屋窓を明るく照らしていた。門から出て来た酒屋の御用聞きをつかまえて、半七はそれとなく屋敷の様子を訊いてみたが、別に取り留めた手がかりもなかった。近所の火消し屋敷に知っている者があるので、そこへ行って訊き出したら又なにかの掘り出し物があるかも知れないと、彼は酒屋の御用聞きに別れて七、八間ばかり歩き出すと、その隣りの大きい屋敷から
「おい、お六じゃねえか」
半七に声をかけられて、若い女は立ち停まった。背の低い肥った女で、
「あら、三河町の親分さんでしたか。どうもしばらく」と、お六はいやに
「昼間から好い御機嫌だね」
「あら」と、お六は袖口で頬を押えながら笑った。「そんなに紅くなっていますか。今ここのお部屋で無理に茶碗で一杯飲まされたもんですから」
彼は武家屋敷の中間部屋へ出入りをする物売りの女であった。かれの提げている重箱の中には
「お前、この杉野様の部屋へも出入りをするんだろう」
「いいえ。あたし、あのお屋敷へは一度も行ったことはありませんよ」
「そうか······」と半七は少し失望した。
「だって、あすこは
「ふうむ。あすこは化け物屋敷か」と、半七は首をかしげた。「そうして、あの屋敷へ何が出る」
「なにが出るか知りませんけれど、いやですわ。ここらで朝顔屋敷といえば誰でも知っていますよ」
朝顔屋敷||その名を聞いて半七は思い出した。それは杉野の屋敷であるかどうかは知らなかったが、四番町辺に朝顔屋敷という怪談の伝えられていることは、彼もかねて聞いていた。皿屋敷、朝顔屋敷、とかくに番町に化け物屋敷のようなものの多いのは、この時代の名物であった。世間の噂によると、朝顔屋敷の遠い先代の主人がなにかの仔細で妾を手討ちにした。それは
「そうか。あすこが朝顔屋敷か」
「外からはいった者にどういうこともないでしょうけれど、昔から化け物屋敷と名のついている屋敷へ出入りするのは、なんだか気味が悪うござんすからね」と、お六は顔をしかめて見せた。
「それもそうだな」
云いかけてふと見かえると、その朝顔屋敷の表門から一人の
「お前、あの人を知らねえか」と、半七は頤で示してお六に訊いた。
「口を利いたことはありませんけれど、あの人はなんでも山崎さんというんですよ」
中小姓の山崎平助に相違ないと半七はすぐに鑑定したので、彼はお六に別れてそのあとを追って行った。往来の少ない屋敷の塀の外で、彼はうしろから平助に声をかけた。
「もし、もし、失礼でございますが、あなたは杉野様のお屋敷の方じゃございませんか」
「左様」と武士は振り返って答えた。
「実はけさほどお屋敷の御用人様にお目にかかりましたが、お屋敷では御心配なことが
相手は油断しないような顔をしてこちらを睨んでいるので、半七は用人の角右衛門に逢ったことを話した。そうして、あなたは山崎さんではないかと訊くと、彼はそうだと答えた。それでもまだ不安らしい眼の色をやわらげないで、彼は自分と向い合っている岡っ引の顔をきっと見つめていた。
「若殿様のゆくえはまだちっとも御心当りはございませんか」
「一向に手がかりがないので困っています」と、平助は
「神隠しとでも云うんじゃございますまいか」
「さあ、そんなことが無いとも限らない」
「そういうことだと、とても手の着けようもありませんが、ほかにはなんにも心当りはないんでしょうか」
「なんにもありません」
半七は畳みかけて二つ三つの問いを出したが、平助はとかくに木で鼻をくくるような挨拶をして、努めて相手との問答を避けているらしい素振りが見えた。用人の角右衛門は頭を下げてくれぐれも半七に頼んだのである。まして自分は当の責任者である以上、平助は猶更にこの半七を味方と頼んで、万事の相談や打ち合わせを自分から進めそうなものであるのに、彼はいつまでも油断しないような眼付きをして、なるべく口数をきかないように努めているのは何故であろう。それが半七には判らなかった。まかり間違えば腹切り道具のこの事件に対して、彼がこんなに冷淡に構えているのを、半七は不思議に思いながら、もう一度この男の顔を見直した。
平助は二十六七の、どちらかと云えば小作りの、色の白い、眼付きの涼しい、屋敷勤めの中小姓などには有り勝ちの、いかにも
「今も申し上げました通り、もし本当の神隠しならば格別、さもなければきっとわたくしが探し出して御覧に入れますから、まあ御安心くださいまし」と、半七は
「では、なにかお心当りでもありますか」と、平助は訊き返した。
「さあ、さし当りこうという目星も付きませんが、わたくしも多年御用を勤めて居りますから、まあ何とか致しましょう。生きているものならきっと何処かで見付かります」
「そうでしょうか」と、平助はまだ打ち解けないような眼をしていた。
「これからどちらへ······」
「どこという
「承知いたしました」
半七に別れてすたすた行き過ぎたが、平助は時々に立ち停まって、なんだか不安らしくこちらを見返っているらしかった。その狐のような態度がいよいよ半七の疑いを増したので、彼はすぐに平助のあとを
これからどっちへ爪先を向けようかと半七は横町の角に立ち停まって考えていると、たった今別れたばかりのお六がほかの女と二人づれで、その横町からきゃっきゃっと笑いながら出て来た。
「おや、又お目にかかりましたね」と、お六はやはり笑いながら声をかけると、連れの女も黙って
「御縁があるね」と、半七も笑った。
お六の連れは十七八のすらりとした女で、これも同じような提重を持っていた。
「親分さん。この安ちゃんが朝顔屋敷のお出入りなんですよ」と、お六はからかうように笑いながら、連れの女の背中をたたいた。
「あら、いやだ」と、女も肩をすくめて笑った。
「
「安ちゃん······。お安さんというんです」と、お六はその女の手をとって、わざとらしく半七の前に突き出した。「親分さん、ちっと叱ってやってください。
「あら、嘘ばっかり。ほほほほほほ」
いかに人通りの少ない屋敷町でも、往来のまん中で提重の惚気を聴かされては堪らないと、半七も
「なにしろお楽しみだね。で、その惚気の相手というのはやっぱり朝顔屋敷にいるのかえ」
「いるんですとも」と、お六はすぐに引き取って答えた。「お部屋にいる又蔵さんという小粋な
又蔵という名が半七の胸にひびいた。
「むむ。又蔵か」
「お前さん、御存じですかえ」と、お安は少しきまり悪そうな顔をして訊いた。
「まんざら知らねえこともねえ」と、半七は調子をあわせて云った。「だが、あの男はなかなか道楽者らしいから、
「ほんとうにそうですよ」と、お安は
飛んでもない怨みを云われて、半七はいよいよ持て余したが、それでもやはり笑いながら其の相手になっていた。
「まあまあ、堪忍してやるさ。そう云っちゃあ何だけれど、一年三両の給金取りが一両、二両の
「だって、又さんの話じゃあ、なんでも近いうちに纏まったお金がふところへはいると云うんですもの、こっちだって
「そう訊かれても返事に困るが、あの男のことだから丸っきりの嘘でもあるめえ。まあ、もう少し待ってやることさ」
受け太刀に困っている半七を、お六が横合いから救い出してくれた。
「まあ、安ちゃん。もう好い加減におしよ。親分さんが御迷惑だあね。又さんのことはあたしが受け合うから安心しておいでよ」
それを
「少しだが、これで蕎麦でも食ってくんねえ」
「おや、済みません。どうも有難うございます」
二人が頻りに礼をいう声をうしろに聞き流して、半七は早々にそこを立ち去った。なんだか落ち着かないような平助の眼の色と、近いうちにまとまった金がはいるという又蔵の噂と、朝顔屋敷の怪談と、半七はこの三つを結びあわせていろいろに考えたが、すぐには取り留めた分別も浮かび出さなかった。彼はふところ手をしてぼんやりと九段の坂を降りた。
家へ帰って長火鉢のまえに坐って、灰を睨みながらじっと考えているうちに、冬の短い日はもう暮れかかった。半七は早く夕飯を食って、九段の長い坂をもう一度あがって、裏四番町の横へはいると、どこの屋敷の
「お部屋の又蔵さんはいますかえ」
又蔵はたった今、門番にことわって表へ出たが、きっと近所の藤屋という酒屋へ飲みに行ったのであろうとのことであった。中小姓の山崎さんはと訊くと、これも昼間出たぎりでまだ帰らないと門番が教えてくれた。半七は礼を云って表へ出ると、路の上はすっかり暗くなって、遠い辻番の蝋燭の灯が薄紅くにじみ出していた。藤屋という酒屋を探しあてて、表から店口を覗いてみると、小皿の
半七は手拭を出して頬かむりをした。店の前に積んである
「今夜は頼むよ。その代り二、三日中にこのあいだの分も一緒に利をつけて返さあ。ははははは」
彼はもう余ほど酔っているらしく、寒い夜風に吹かれながら好い気持そうに鼻唄を歌って行った。半七も草履の音を忍ばせて、そのあとを
「山崎さん。たった二
「それが
「火消し屋敷へ行ってみんな取られてしまいましたよ」
「博奕は止せよ。
「いやもう、一言もありません。叱られながらこんなことを云っちゃあ何ですが、お前さんも御承知のお安の阿魔、あいつにこの間から春着をねだられているんで、わっしも男だ、なんとか
「ふふん、立派な男だ」と、平助はあざ笑った。「春着でも
「だから、その、なんとか片棒かついでお貰い申したいので······」
「ありがたい役だな。おれはまあ御免だ。おれだって知行取りじゃあねえ。
「お前さんにどうにかしてくれと云うんじゃあねえ。お前さんから奥様にお願い申して······」
「奥様にだってたびたび云われるものか、このあいだの一件は十両で仕切られているんだ。それを貴様と俺とが山分けにしたんだから、もう云い分はねえ筈だ」
「云い分じゃあねえ。頼むんですよ」と、又蔵はしつこく口説いた。「まあ、何とかしておくんなせえ。女に責められて全く遣り切れねえんだから。お前さんだって、まんざら覚えのねえことでもありますめえ。ちっとは思いやりがあっても好いじゃありませんか」
相手が黙って取り合わないので、又蔵も
「じゃあ、どうしてもいけねえんですかえ。もうこうなりゃ仕方がねえ。御用人がけさ八丁堀へ出かけたということだから、わっしもこれから八丁堀へ行って、若殿様はこういうところに······」
「嚇かすな」と、平助はまたあざ笑った。「両国の
まだ宵の口ではあるが、世間がひっそりと鎮まっているので、こうした押し問答が手に取るように半七の耳に伝わった。いずれこの納まりは
「河童野郎。八丁堀へでも、
着物の泥をはたいて、平助は悠々と立ち去ってしまった。なぐられて、毒突かれて、提重の色男は意気地もなく其処に倒れていた。
「
「なにを云やあがるんだ。うぬの知ったことじゃあねえ」と、又蔵は面を
「まあ、いいや。そんなにむきになるな」と、半七は笑った。「どうだい、
手拭をとった半七の顔を、月の光りに透かしてみて又蔵はおどろいた。
「や、三河町か」
あくる朝、半七は八丁堀の槇原の屋敷へゆくと、けさも杉野の用人の角右衛門が来ていた。忠義一途の用人は、きのう中にすこしは何かの手がかりは付いたかと問い合わせに来たのであった。あまり性急だとは思ったが、相手がまじめであるだけに、槇原もまじめで云い訳をしているところへ、丁度に半七が顔を出した。
「御用人もしきりに心配しておいでなさる。どうだ、少しは当りが付いたか」と、槇原はすぐに訊いた。
「へえ。もうすっかり判りました。御安心なさいまし」と、半七は
「判りましたか」と、角右衛門は膝を乗り出した。「そうして、若殿はどこに······」
「お屋敷の中に······」
角右衛門は口をあいて相手の顔をながめていた。槇原も眉を寄せた。
「なに、屋敷の中にいる。それは又どういう訳だ」
「お屋敷の中小姓に山崎平助という人がございましょう。このあいだの朝、若殿様のお供をして行った人です。その人はお屋敷のお長屋に住まっている筈ですが······」
角右衛門は機械的にうなずいた。
「そのお長屋の戸棚のなかに若殿様は隠れておいでの筈です。三度の
併しその説明だけでは、二人の腑に落ちなかった。槇原は又きいた。
「なぜ又、若殿をそんなところに隠して置くんだろう。一体、誰がそんなことを考えたんだろう」
「それは奥様のお指図のように聞いています」
「奥様······」と、角右衛門はいよいよ呆れた。
すべてが余りに案外なので、いろいろの経験に富んでいる槇原も
「まことに失礼でございますが、お屋敷は朝顔屋敷······朝顔を大層お嫌いなさるように承って居ります。そのお屋敷のお庭にことしの夏、白い朝顔の花が咲きましたそうで······」
角右衛門は
「つまりその朝顔の花が今度の事件の起りでございます」と、半七は云った。
朝顔の花が咲けば必ず家に凶事があるというので、屋敷の人達も顔を陰らせた。主人はあまりそんなことに頓着しない気質であるので、ただ笑って済ませてしまったが、奥方はひどくそれを気に病んで、なにかの禍いがなければよいと明け暮れに案じているうちに、先月の末、些細なことから奥方の神経をおびやかすような一つの事件が
ある日のことである。若殿大三郎が中間の又蔵を供に連れて、赤坂の親類をたずねた。その帰りに自分の屋敷の近所まで来ると、そこに三四十俵から五六十俵取りぐらいの小さい御家人たちの組屋敷があって、十二三を
「おぼえていろ。素読吟味のときにきっと仕返しをするぞ」
玄関へ
すでに吟味の願書を差し出したものを、今更みだりに取り下げることは出来ない。たといその事情を訴えたところで、夫が日頃の気性としてとても取り合ってくれないのは判っているので、奥方は一人で胸を痛めた。そのうちに吟味の日がだんだんに迫ってくる。苦労が畳まって毎晩いやな夢を見る。
女の浅い知恵と中小姓の小才覚とが一つになって、組み上げられたのが今度の狂言であった。又蔵もこの事件には関係があるので、
「これだけの
「でも仕方がねえ。
それでも又蔵は平助の着服をうすうす察しているので、いろいろの口実を作って後ねだりをしたが、彼よりも役者が一枚上であるだけに、平助は
「なにしろ長屋でがあがあ云っちゃあ面倒だ。今夜お堀端で逢うことにしよう」
二人は日の暮れるのを合図に堀端で出逢った。その結果はかの掴み合いになったのである。半七はそれから又蔵をだまして近所の小料理屋の二階へ連れ込んで、カマをかけて訊いてみると、又蔵は口惜しまぎれに何もかもべらべらとしゃべってしまった。
「まあ、こういう訳なんでございますから、どうかその
「なにしろ奥様も御承知のことですから、あまり荒立てると又面倒でございましょう。なんとかあなたのお取り計らいで、そこを円く済みますように······」
「いや、いろいろ有難うござった」と、角右衛門は夢の醒めたようにほっと息をついた。「それで何もかもわかりました。就いてはあとの始末でござるが、どういうふうに取り計らうのが一番
相談をかけられて、槇原もかんがえた。
「さあ、やはり神隠しでしょうかな」
この秘密を主人の耳に入れるのは良くない。どこまでも奥方の計画を成就させて、神隠しとして万事をあいまいのうちに葬ってしまう方がむしろ御家の為であろうと、槇原は注意した。
「成程」
角右衛門は厚く礼を述べて帰った。それから三日ほど経って、かれは相当の礼物をたずさえて槇原の屋敷へたずね来て、若殿大三郎殿は無事に戻られたと報告した。
「では、杉野の主人は結局なんにも知らずにしまったのですか」と、わたしは訊いた。
「やはり神隠しということになってしまったのでしょう」と、半七老人は云った。「しかし用人や山崎に睨まれて、又蔵はどうも居ごこちが悪くなったと見えて、なにか屋敷の物を持ち出して、提重のお安という女と駈け落ちをしてしまったそうですよ」
「山崎の方は無事に勤めていたんですか」
「それがね。なんでも一年ばかり経ってから、主人に手討ちにされたということです」
「神隠しの秘密が露顕したんですか」
「そればかりじゃありますまい」と、半七老人は苦笑いをした。「旗本屋敷の渡り奉公なんぞしている者はどうも悪い奴が多うござんすからね。こいつらに弱味を掴まれて、執念ぶかく食い込まれると、飛んだことになりますよ。山崎は手討ちになって、奥様は里へ帰されたそうです。子ゆえの闇から悪い奴に
「そうすると、朝顔は息子より
「そうかも知れません。その屋敷は維新後まで残っていましたが、いつの間にか取り