一
久し振りで半七老人に逢うと、それがまた病みつきになって、わたしはむやみに老人の話が聴きたくなった。「蝶合戦」の話を聞いたのち四、五日を経て、わたしはこの間の礼ながらに赤坂へたずねてゆくと、老人は縁側に出て金魚鉢の水を替えていた。けさも少し陰って、狭い庭の青葉は雨を待つように、頭をうなだれて、うす暗いかげを作っていた。
「あなたはつけが悪い。きょうも降られそうですぜ」と、半七老人は笑っていた。
金魚の手がえしは
「あれはいつでしたっけね」と、老人は眼をつぶりながら考えていた。「そうです、そうです。あの太郎稲荷がはやり出した年ですから慶応三年の八月、まだ残暑の強い時分でした。御存知でしょう、浅草
「どういう訳があるんです」
「そこには
姉娘のおまんは急死したと披露されているけれども、どうも変死らしいという噂が立った。ここらを持ち場にしている下っ引の源次がそれを聞き込んで、だんだん探索を進めてゆくと、おまんは確かに変死であると判った。七月二十五日の夕方から彼女は気分が悪いと云い出した。最初はさしたることでもあるまいと思って、買いぐすりなどを飲ませていると、夜の五ツ(午後八時)頃になって、いよいよひどく苦しみ出して、しまいには吐血した。家内の者もびっくりして、すぐ医者を呼んで来たがもう遅かった。おまんは
東山堂では医者にどう頼んだか知らないが、ともかくも食あたりということで、その明くる日に
自害にしても其の事情はよく取り調べなければならない。他人の毒害となれば勿論重罪である。いずれにしても、
「おい、源次。ちょいと面白そうな筋だが、なにしろ娘はゆうべ死んで、もうすっかり後始末をしてしまったところへ乗り込んで来たんだから、場所にはなんにも手がかりはねえ。どうしたもんだろう。おめえ、なんにも当りはねえのか」
「そうですねえ」と、源次は首をひねった。誰のかんがえも同じことで、舐め筆の娘の変死はいずれ色恋のもつれであろうと彼は云った。
「そこで、自分で毒を食ったのか、それとも人に毒を飼われたのか」
「親分はどう睨んだか知らねえが、わっしは自分でやったんじゃあるめえと思います。なにしろ其の日の夕方までは店できゃっきゃっとふざけていたそうですからね。それに近所の噂を聞いても、別に死ぬような仔細は無いらしいんです」
「そうか」と、半七はうなずいた。「そこで娘に毒を食わしたのは内の者か、外の者か」
「さあ。そこまでは判らねえが、まあ内の者でしょうね。わっしは妹じゃあないかと思うんですが······。別に証拠もありませんが、なにか一人の男を引っ張り合ったとかいうような訳で······。それとも姉に婿を取って
そんなことが無いでもないと半七は思った。東山堂の店は主人の吉兵衛と女房のお松、姉妹の娘二人のほかに二人の小僧とあわせて六人暮らしであった。小僧の豊蔵はことし十六で、一人の佐吉は十四であった。主人夫婦が現在の娘を毒害しようとは思われない。二人の小僧も
「おれの考えじゃあどうも妹らしくねえな。ほかの奴が何か細工をしたんじゃあねえか」
「そうでしょうか」と、源次はすこし不平らしい顔をしていた。「そんなら東山堂ではなぜそれを表向きにしねえで、隠密に片付けてしまおうとしたのでしょう。それがおかしいじゃありませんか。わっしの鑑定じゃあ、親達も薄々それを気付いているが、表向きにすりゃあ妹の首に縄がつく。看板娘が一度に二人も無くなって、おまけに店から引き廻しが出ちゃあ、もうこの土地で商売をしちゃあいられねえ。そこを考えて、もう死んだものは仕方がねえと諦めて、
「それも理窟だ。じゃあ、ともかくもおめえは妹の方を念入りに調べ上げてくれ。おれは又、別の方角へ手を入れて見るから」
「ようごぜえます」
二人は約束して別れた。その明くる朝、半七が朝飯を食って、これからもう一度下谷へ行ってみようかと思っているところへ、源次が汗を拭きながら駈け込んで来た。
「親分、あやまりました。わっしはまるで見当違いをしていました。舐め筆の娘は、自分で毒を食ったんですよ」
「どうして判った」
「こういう訳です。あの店から、五、六軒先の
「すると、心中だな」
「つまりそういう理窟になるんですね。男と女とが舞台を変えて、別々に毒をのんで、南無阿弥陀仏を極めたんでしょう。そうなると、もう手の着けようがありませんね」と、源次はがっかりしたように云った。
若い僧と筆屋の娘とが親しくなっても、男が
「そこで、その坊主には別に書置もなかったらしいか」と、半七は訊いた。
「そんな話は別に聞きませんでした。あとが面倒だと思って、なんにも書いて置かなかったんでしょう」
「そうかも知れねえ。それから妹の方には別に変った話はねえのか」
「妹は先月頃から嫁に行く相談があるんだそうです。
「妹には内証の
「さあ、そいつは判りませんね。そこまではまだ手が
「面倒でも、それをもう一度よく突き留めてくれ」
二
源次を帰したあとで、半七は
「おや、兄さん。相変らずお暑うござんすね」と、お
「おふくろは······」
「御近所のかたと一緒に太郎様へ······」
「むむ、太郎様か。この頃は滅法界にはやり出したもんだ。おれもこのあいだ行って見てびっくりしたよ。まるで御開帳のような騒ぎだ」
「あたしもこのあいだ御参詣に行っておどろきました。神様もはやるとなると大変なもんですね」
「時にこんな物を加賀様のお
半七は風呂敷をあけて
「ああ、
彼女は茶を
「兄さん。この頃は忙がしいんですか」
「むむ、たいしてむずかしい御用もねえが、広徳寺前にちょっとしたことがあるから、これからそっちへ行って見ようかと思っている」
「広徳寺前······。舐め筆の娘じゃないの」
「おまえ知っているのか」
「あの娘は姉妹とも三味線堀のそばにいる文字春さんという人のところへお稽古に行っていたんです。妹はまだ行っているかも知れません。その姉さんの方が頓死したというんで、あたしもびっくりしました。毒を飲んだというのはほんとうですか」
「そりゃあほんとうだが、自分で飲んだのか、人に飲まされたのか、そこのところがまだはっきりとおれの腑に落ちねえ。おまえ、その文字春という師匠を識っているなら、そこへ行って妹のことを少し訊いて来てくれねえか。妹はどんな女だか、なにか
「よござんす。お午過ぎに行って訊いて来ましょう」
「
「ほほほほほ。あたしは商売違いですもの」
「そこを頼むんだ。うまく行ったら鰻ぐらい買うよ」
妹に頼んで半七はそこを出ると、どこの店でももう日よけをおろして、残暑の強い朝の日は蕎麦屋の店さきに干してあるたくさんの
徳法寺をたずねて住職に逢うと、住職はもう七十くらいの品のいい老僧で、半七の質問に対して一々あきらかに答えた。徒弟の善周は船橋在の農家の次男で、
筆屋の娘との関係については、かれは絶対に否認した。
「なるほど、近所ずからの事でもあれば、筆屋の店に立ち寄ったこともござろう。娘たちと冗談ぐらいは云ったこともござろう。しかし娘といたずら事など、かけても有ろう筈はござらぬ。それは手前が本尊阿弥陀如来の前で
立派に云い切られて、半七も躊躇した。住職の顔色と口振りとに何の陰影もないらしいことは、多年の経験で彼にもよく判っていた。それと同時に、心中の推定が根本からくつがえされてしまうことを覚悟しなければならなかった。彼は更に第二段の探索に取りかかった。
「いかがでございましょうか。その善周さんという人のお部屋を、ちょっと見せていただく訳にはまいりますまいか」
「はい。どうぞこちらへ」
住職は故障なく承知して、すぐに半七を善周の部屋に案内した。部屋は六畳で、そこには二十二三の若僧と十五六の納所とが経を読んでいたが、半七のはいって来たのを見て、丸い頭を一度に振り向けた。
「ごめん下さい」と、半七は
「善周さんのお机はどれでございます」
「これでございます」と、若僧は部屋の隅にある小さい経机を指さして教えた。机の上には折本の経本が二、三冊積まれて、その側には小さい硯箱が置いてあった。
「拝見いたします」
一応ことわって、半七は硯箱の蓋をあけると、箱のなかには磨り減らした墨と、二本の筆とが見いだされた。筆は二本ながら
「この筆はこの頃お買いなすったんでしょうねえ。御存じありませんか」
それは善周が死んだ前日の夕方に買って来たものらしいと若僧は云った。いつも東山堂で買うのであるから、それも無論に同じ筆屋で買って来たのであろうと彼は又云った。半七は更にその筆の穂を自分の鼻の先へあてて、そっとかいでみた。
「この筆を
「よろしゅうござる。お持ちください」と、住職は云った。
その筆を懐紙につつんで、半七は部屋を出た。
「善周さんのお
「きのうの午すぎに検視を受けまして、暑気の折柄でござれば夜分に寺内へ埋葬いたしました」
「左様でございますか。いや、これはどうも御邪魔をいたしました」
寺を出ると、半七はすぐに東山堂へ行った。娘の葬式はゆうべの筈であったが、俄かに検視が来たために刻限がおくれて、今朝あらためて、橋場の菩提寺へ送ることになったので、きょうは勿論に商売を休んで、店の戸は半分おろしてあった。戸のあいだから覗いて見ると、小僧の一人がぼんやりと坐っていた。
「おい、おい。小僧さん」
半七は外から声をかけると、小僧は入口へ起って来た。
「皆さんはお
「まだ帰りません」
「小僧さん。ちょいと表まで顔を貸してくださいな」
小僧は妙な顔をして表へ出て来たが、かれは半七の顔を思い出したらしく、急に形をあらためて行儀よく立った。
「ゆうべは騒がせて気の毒だったな」と、半七は云った。「ところで、お前に少し訊きたいことがあるんだが、
ふところから紙につつんだ水筆を出してみせると、小僧はすぐにうなずいた。
「ありました。おとといのお午過ぎに若い娘が取り換えに来ました」
「どこの子だか知らねえか」
「知りません。この筆を買って帰ってから、

「ほかには取り換えに来た者はねえか」
「ほかにはありませんでした」
「その娘は幾つぐらいの子で、どんな
「十七八でしょう。島田髷に結って、あかい帯をしめて、白い
「どんな顔だ」
「色の白い可愛らしい顔をしていました。どこかの娘か小間使でしょう」
「その娘は今まで一度も買いに来たことはねえか」
「さあ、どうも見たことはないようです」
「いや、ありがとう」
小僧に別れて、浅草の方角へ足をむけると、半七は往来で源次に出逢った。
「親分。舐め筆の娘はどっちも堅い方で、これまで浮いた噂はなかったようです」と、源次は摺り寄ってささやいた。
「そうか。時に丁度いいところで逢った。おめえこれから浅草へ行って、庄太にも手を貸してもらって、上州屋にいる奉公人の身許をみんな洗って来てくれ。男も女も、みんな調べるんだぜ。いいか」
「判りました」
「じゃあ、おめえに預けて俺は帰るぜ。大丈夫だろうな」
「大丈夫です」
それから二、三軒用達しをして、半七は神田の家へ帰った。近所の銭湯で汗を流して来て、これから夕飯を食おうとするところへ、お粂が来た。
「行って来ましたよ」
「やあ、御苦労。そこでどうだ」
「文字春さんのところへ行って訊きましたが、舐め筆の娘には姉妹ともに悪い噂なんぞちっとも無いそうです。親達も悪い人じゃあ無いようです」
それは源次の報告と一致していた。心中の事実は跡方もないに決まってしまった。
三
「でね、兄さん。文字春さんからいろいろの話を聴いているうちに、あたし少し変だと思うことがあるんですよ」と、お粂は
「どんなことだ」
「妹のお年ちゃんの方は今でも毎日文字春さんのところへ御稽古に来るんですが、なんでも先月頃から五、六度お年ちゃんが来て稽古をしているのを、窓のそとから首を伸ばして、じっと内を覗いている娘があるんですって」
「十七八の、色白の可愛らしい娘じゃあねえか」と、半七は
「よく知っているのね」と、お粂は涼しい眼をみはった。「その娘はいつでもお年ちゃんの
「それは何処の娘だか判らねえのか」
「そりゃあ判らないんですけれど、ほかの人の時には決して立っていたことが無いんだそうです。なにか訳があるんでしょう」
「むむ。訳があるに違げえねえ。それでおれも大抵判った」と、半七はほほえんだ。
「もう一つ斯ういうことがあるんです。文字春さんの家の近所に馬道の上州屋の隠居所があるんです。あのお年ちゃんという子は、上州屋から
「そこでお前はどう取る」と、半七は笑いながら訊いた。
その娘は上州屋の奉公人で、三味線堀近所の隠居所へときどき使にくるに相違ないとお粂は云った。自分の邪推かは知らないが、ひょっとすると其の娘は上州屋の息子となにか
「なかなか隅へは置けねえぞ」と、半七は又笑った。「どうだい。いっそ常磐津の師匠なんぞを止めて御用聞きにならねえか」
「ほほ、随分なことを云う。なんぼあたしだって、
「ははは、堪忍しろ。それからどうだと云うんだ」
「もういやよ。あたしなんにも云いませんよ。ほほほほほほ。あたしもう姉さんの方へ行くわ」
お粂は笑いながら女房のいる方へ起ってしまった。冗談半分に聞き流していたものの、妹の鑑定はなかなか深いところまで行き届いていると半七は思った。自分が源次に云いつけて、上州屋の奉公人どもの
あくる朝になって、源次が来た。その報告によると、上州屋の奉公人は番頭小僧をあわせて男十一人、仲働きや飯炊きをあわせて女四人である。この十五人の身許を洗うにはなかなか骨が折れたが、馬道の庄太の手をかりて、まず一と通りは調べて来たと云った。男どもの方は後廻しにして、半七は先ず女の方のしらべを訊くと、仲働きはお清、三十八歳。お丸、十七歳。台所の下女はお軽、二十二歳。お鉄、二十歳というのであった。
「このお丸というのはどんな女だ」
「芝口の下駄屋の娘で、兄貴は家の職をしていて、弟は両国の
「よし、判った。すぐにその女を引き挙げなければならねえ」
「へえ、そのお丸というのがおかしいんですかえ」
「むむ、お丸の

「なるほど、そんな理窟ですかえ」と、源次は溜息をついた。「それにしても
「それはまだ確かに判らねえが、おれの鑑定じゃあ多分そのお丸という女は、上州屋の伜と
半七も溜息をついた。
「そうなると、その生薬屋に奉公している弟というのも調べなければなりませんね」と、源次は云った。
「勿論だ。おれがすぐに行って来る」
支度をして、半七はすぐに両国へゆくと、その薬種屋は広小路に近いところにあって、間口も可なりに広い店であった。店では三人ばかりの奉公人が控えていて、帳場には二十二三の若い男が坐っていた。
「こちらに宗吉という奉公人がいますかえ」と、半七は訊いた。
「はい、居ります。唯今奥の土蔵へ行って居りますから、しばらくお待ちください」と、番頭らしい男が答えた。
店に腰をかけて待っていると、やがて奥から十四五の可愛らしい前髪が出て来た。
「おい、おめえは宗吉というのか。ちょいと番屋まで来てくれ」
「はい」と、宗吉は素直に出て来た。その様子があまり落ち着いているので、半七もすこし案外に思った。
町内の自身番へ連れて行って、半七は宗吉を詮議したが、その返事はいよいよ彼を失望させた。自分の姉は馬道の上州屋に奉公しているが、姉はちっとも自分を可愛がってくれない。したがって今までに姉から何も頼まれたことはない。姉はお
「嘘をつくと、てめえ、獄門になるぞ」
「嘘じゃありません」
宗吉はどうしても知らないと強情を張り通していた。それがまったく嘘でもないらしいので、半七はあきらめて彼をゆるして帰した。それから馬道へ行って上州屋をたずねると、お丸は一と足ちがいで使に出たということであった。
下女を呼び出して、それとなく探ってみると、ここでもお丸の評判はよくなかった。年も若いし、虫も殺さないような可愛らしい顔をしているが、人間はよほどお転婆で身持もよろしくない。現に
半七は下女の口から更にこういう事実を聞き出した。上州屋の女房は両国の薬種屋の
毒物の出所もそれで大抵判ったので、半七は又引っ返して両国へゆくと、宗吉は店さきに水を打っていた。息子らしい男のすがたは帳場には見えなかった。
「おい、若旦那はどうした」と、半七は宗吉に訊いた。
「わたしが番屋から帰って来たら、その留守にどこへか行ってしまったんです」と宗吉は云った。
ほかの番頭に訊いても要領を得なかった。若主人の与之助はこのごろ誰にも沙汰無しに、ふらりと何処へか出てゆくことが度々ある。きょうも宗吉が番屋へ引かれて行った後で、すぐに表へ出て行ったがやがて引っ返して来た。それから又そわそわと身支度をして何処へか出て行ったが、その行くさきは判らないとのことであった。
半七は
「親分、しようがねえ。お丸の奴はきのう出たぎりで今朝まで帰らねえそうです。両国の薬屋の伜もやっぱり鉄砲玉だそうですよ」
それは明くる朝、庄太から受け取った報告であった。自分らのうしろに暗い影が付きまとっているのを早くも覚って、男も女も姿を
「
半七は庄太を連れて、その次の日に江戸を発った。
四
八月はじめの涼しい夜であった。
上州は江戸よりも秋風が早く立って、山ふところの
旅人はここらに多い
「おまえさんの手は白いのね。まるで女のようだよ」と、おこんは男の腕を薄い紙で拭きながら云った。
「怠け者の証拠がすぐにあらわれた」と、男は笑っていた。「今夜はなんだか急に寒くなったようだ」
「そりゃあ此の通りの山の中ですもの。それにきょうは霧が深かったから、あしたは降るかも知れない」
「山越しに降られちゃあ難儀だ。お天気になるように妙義様へ祈ってくれ」
「いやさ」と、おこんも笑った。「山越しの出来ないように、あしたは抜けるほど降るがいい。妙義の山の女に吸い付かれたら、山蛭よりも怖ろしいんだから、そのつもりで腰を据えていることさ。ねえ、そうおしなさいよ」
「いや、そうは行かねえ。少し急ぎの道中だから」
「急ぎの道中なら坂本から
男はもう黙ってしまって、山風にゆれる行燈の火にその蒼白い顔をそむけながら、冷えた
「なにを考えているの、おまえさん」と、おこんは膝をすり寄せた。「あたしはおまえさんが可愛いから内証で教えてあげる。さっきおまえさんがこの
男の顔はいよいよ蒼くなった。
「その二人はどうもお前さんの為にならないお客らしいから、その積りで用心おしなさいよ」
「よく教えてくれた。ありがたい」と、男は拝むようにしてささやいた。「じゃあ、もうここにうかうかしちゃあいられねえ。夜の更けないうちにそっと
「ああ、よござんす。あたしがほかの座敷へ廻っている間に、この窓からそっとぬけ出して······。今のうちに荷物をよく纒めてお置きなさいよ」
この相談が廊下に忍んでいた庄太の耳にも洩れたので、彼はすぐに自分の座敷へ引っ返して半七にささやいた。
「女が味方をしているらしいから、油断すると逃がしますぜ」
「それじゃあ俺は外へ出ている。おめえはいい頃に座敷へ踏ん込め」
打ち合わせをして置いて、半七はそっと表へ出ると、眼のさきに
「与之助。御用だ」と、半七はその影を捕えようとして駈け寄ると、影はあと戻りをして坂路を一散に駈け降りた。半七はつづいて追って行った。
杉林に囲まれた坂路をころげるように駈けてゆく与之助は、途中から方角をかえて次の坂路を駈け上がろうとするらしかった。半七はふと気がついた。この坂の上には黒門がある。妙義の黒門は上野の輪王寺に次ぐ寺格で、いかなる罪人でもこの黒門の内へかけ込めば
逃げる者も勿論一生懸命である。与之助は暗い坂路を
半七はもう気が気でなかった。この坂一つを無事に越すか越さぬかは、与之助に取っても一生の運命の
「あのときには全く汗になりましたよ」と、半七老人は云った。「なにしろ、あの長い坂を夢中で駈け上がったんですもの、その翌朝は足がすくんで困りましたよ。そこで、だんだん調べてみると斯ういう訳なんです。前にも申し上げた通りそのお丸という女は顔に似合わない、
「で、そのお丸はどうしました」と、わたしは訊いた。
「お丸は使いに行くと云って主人の家を出て、与之助のところへ逢いにゆくと、弟が丁度わたくしに引っ張られて番屋へ行ったあとで、与之助もなんだか薄気味が悪いので、店をぬけ出してうろうろしているところへ、お丸がたずねて来たという訳です。お丸もその話を聴いてさすがに不安心になって来たので、与之助をそそのかして何処へか駈け落ちすることになったのですが、こいつよくよく悪い奴で、なんでも中仙道を行く途中、熊谷の宿屋で男の胴巻をひっさらって姿を隠してしまったんです。捨てられた男は一人ぼっちになって信州へ落ちて行くところを、妙義の町でわたくし共に追い付かれて、もう一と足で黒門へ逃げ込むところを運悪く捕まったのですが、当人ももういけないと覚悟したものか、それとも転ぶはずみに我知らず咬んだのか、私が襟首をつかまえた時には、舌を咬み切って口から真っ紅な血を吐いていました。もとの女郎屋へ引き摺って来て、いろいろに手当てをしてやりましたが、もうそれぎりで息を引き取ってしまいましたよ。そういう訳ですから、死人に口無しで、お丸がなんと云って与之助から毒薬を受け取ったのか、その辺はよく判りませんでした」
「お丸のゆくえは知れなかったんですか」と、わたしは又訊いた。
「お丸はそれから何処をどうさまよい歩いたのか知りませんが、やっぱり上州の赤城の山のなかに素裸で死んでいたそうです。着物も帯も腰巻も無しで······。誰かに身ぐるみ
老人の予言通り、帰る頃には雨となった。