一
秋の夜の長い頃であった。わたしが例のごとく半七老人をたずねて、面白い昔話を聴かされていると、六畳の座敷の電灯がふっと消えた。
「あ、停電か」
老人は
「
「それでもお宅には、いつでも蝋燭の用意があるのには感心しますね」と、わたしは云った。
「なに、感心するほどのことでも無い。わたくしなぞは昔者ですから、ランプが
ふた口目にはむかし者というが、明治三十年前後の此の時代に、普通の住宅で電灯を使用しているのはむしろ新らしい方であった。現にわたしの家などでは、この頃もまだランプをとぼしていたのである。新らしい電灯を用いて、
こんにちと違って、そのころの停電は長かった。時には三十分も一時間も東京の一部を闇にして、諸人を困らせることがあった。今夜の停電も長い方で、主人も客も夜風にまたたく蝋燭の暗い火を前にして、暫く話し続けているうちに、その蝋燭から縁を引いて、老人は「金の蝋燭」という昔の探偵物語をはじめた。
「御承知の通り、安政二年二月六日の晩に、藤岡藤十郎、野州無宿の富蔵、この二人が共謀して、江戸城本丸の御金蔵を破って、小判四千両をぬすみ出しました。この御金蔵破りの一件は、東京になってから芝居に仕組まれて、明治十八年の十一月、
その年の四月二日の夜も、やがて四ツ(午後十時)に近い頃である。両国橋の西寄りに当って、人の飛び込んだような水音が響いたので、西両国の橋番小屋から橋番のおやじが提灯をつけて出た。両国橋は天保十年四月に架け換えたのであるが、何分にも九十六間の長い橋で、昼夜の往来も
夜は暗く、殊に
橋番は多年の経験で、その水音が何であるかを知っていた。それは重い物を投げ込んだのではなく、人間が飛び込んだか、或いは投げ込まれたに相違ないと云った。但し暗夜のことであるから、不完全の仮橋から何か粗相で墜落したのかも知れない。いずれにしても、男か女か、その人間のゆくえは判らなかった。
それから六日目の朝である。神田三河町の半七の家の裏口から、子分の幸次郎が眼をひからせながらはいって来た。
「お早うございます。早速ですが、親分、両国の一件を聴きましたかえ」
「両国の一件······。四、五日前の晩に誰か落ちたというじゃあねえか。あの長げえ仮橋のまん中に、提灯一つぶら下げて置くだけじゃあ不用心だ」と、半七は顔をしかめた。「そこで、その死骸でも揚がったのか」
「まあ、揚がったようなわけで······。実はきのうの
「むむ、おかしいな。そこで、その死骸はどんな女だ」
「わっしは見ませんが、なんでも三十二三の小粋な女房で、その風呂敷包みのほかにはなんにも持っていなかったそうです。からだに疵は無し、水を
「おめえの云う通り、こりゃあ打っちゃって置かれねえな」と、半七は膝を立て直した。「おい、幸。しっかりしなけりゃあいけねえ。
「どうも唯事じゃあ無さそうですね」
「なにしろ、いいことを嗅ぎ出して来てくれた。さあ、帯を絞め直して取りかかるかな」
金の蝋燭について、半七が俄かに緊張の色を見せたのは、それが
さてその金をかくす方法は、まず自宅の床下に埋めて置くのが普通である。次は
金蔵やぶりの盗賊が一人の仕業でないのは、容易に想像されることである。少なくも二人または三人の同類が無ければならない。殊に鋳潰しなど企てたとすれば、まだほかにも同類がありそうである。半七はすぐに子分らを呼びあつめて、江戸じゅうの蝋燭屋と、金銀細工の職人を片っぱしから調べてみろと云い付けた。
「さあ、これからどうするかな」
なにしろ一応は現場を見ておく必要があるので、半七は幸次郎を連れて出た。四月はじめの大空は蒼々と晴れて、町には
「すっかり夏になりましたね」と、幸次郎は云った。
「寒い時も困るが、おれ達の商売も暑くなると楽じゃあねえ。一体、両国橋の
「五月の末······川開きまでにゃあ済むのでしょう。それでなけりゃあ土地の者が浮かばれませんよ」
「そうだろうな」
柳原
「おい、
「やあ、御免だ」
「あんまりそうでもあるめえ」
作事場の役人にことわって、半七は仮橋のあたりを一応見まわった後に、西の橋番をたずねた。両国橋は東西に橋番の小屋があるが、金の蝋燭の一件は橋の西寄りであったので、すべて西の橋番の係り合いとなったのである。橋番の久八というおやじは半七の顔を見識っているので、丁寧に挨拶した。
「親分さん、御苦労でございます。まあ、おかけ下さい」
「きのうはこの川で大変な掘り出し物をしたというじゃあねえか」と、半七は腰をかけながら云った。「おれも一生に一度はそんな掘り出し物をしてえものだ」
「いえ、お前さん。あの女が散らし髪になって、恐ろしい顔をして、死んでも放すまいというように、風呂敷包みをしっかり抱えていたのを見ると、慾も得もありません。金の蝋燭でも、金の伸べ棒でも、あんな物を貰ったら、きっと執念が残って祟られますよ」
「三十二三で、小粋な女だそうだね」
「今は
「困る筈はねえ。金の棒をかかえている位だ」と、幸次郎は笑った。「まあ、その晩のことを親分にひと通り話してくれ」
二
「一体、その女は自分で飛び込んだのか、粗相で落ちたのか、誰かに突き落されたのか、おめえに心当りはねえのかね」と、半七は
「それはきのうも検視のお役人から御詮議がありましたが、まったく何も心当りが無いのです。わたくしは唯、ざぶんという水の音を聞いただけで、すぐに提灯を持って出ましたが、男か女か判らないので······」
久八は少し曖昧に答えた。身投げを見付けたらば直ぐに救うのが橋番の役であるが、今や欄干に手をかけた者を留めることはあっても、すでに飛び込んでしまった者を救い揚げることは
しかし今の半七に取っては、そんな詮議はどうでもよかった。彼は重ねて
「その晩はまあそれとして、その後にも別に気の付いたことは無かったかね」
「それがねえ、親分」と、久八は声を低めた。「実はすこし変だと思うことが無いでもないので······。その明くる日の朝、ようよう夜が明けた頃に、ひとりの男が仮橋の上に突っ立って、暫く水の上を眺めていたのです。その時はさのみ気にも留めませんでしたが、御承知の通り、その日は朝の四ツ頃から雨があがっていい天気になりました。そうすると、午過ぎになって又その男が橋の上に来て、今朝とおなじように水を眺めているのです、それが二日も三日も続いたので、いよいよ変だと思っていると······。ねえ、お前さん。きのう女の死体が揚がってみると、死体は丁度その男の立っていた橋の下あたりに沈んでいたわけで······。してみると、その男は何かの係り合いがあって、女がそこらに沈んでいることを知っていて、幾度も川を覗きに来たのじゃあないかと思われるのですが······」
「ふうむ。そんなことがあったのか。そこで、その男はどんな奴だ」
「もう四十近い、色の浅黒い、がっしりした男で、まんざら
「爺さん、
「それが判りゃあ仔細はねえ」と、半七はにが笑いした。「いや、判らねえところが面白いのかも知れねえ。その男はきょうも来たかえ」
「きょうはまだ見えないようです」と、久八は答えた。「死骸が揚がってしまったので、もう来ないのかも知れませんよ」
「むむ」と、半七は薄く眼を
「いつでも柳橋の方から来るようですから、あの辺の人か、それとも神田か浅草でしょうね」
「いや、ありがとう。御用とはいいながら、飛んだ邪魔をした。おい、爺さん。こりゃあ少しだが、煙草でも買いねえ。放し鰻の代りだ」
久八に幾らかの
「親分、女の亭主という奴はもう来ねえでしょうか」
「来ねえだろうな。困ったことには、人足どもが見付け出したのだから、方々へ行ってしゃべるだろう。そんな噂が立つと、奴らもきっと用心して証拠物を隠してしまうに相違ねえ。気の早い奴はどこへか飛んでしまうかも知れねえ。ぐずぐずしていると折角の魚に網を破られてしまう。何とか早く埒を明けてえものだな」
「橋番のおやじがもう少し気が
「あんな
女の亭主らしい男が柳橋の方角から来たというだけのことで、その方角へ向ってゆくのは甚だ知恵のない話のようであるが、柳橋の方角から来たというのに対して、本所深川の方角へ向うわけには行かない。たとい何の当てが無くとも、ともかくもその方角へむかって探索を進めてゆくのが、その時代の探索の
前にもいう通り、橋の工事で広小路はふだんよりもさびれていたが、それでも
「おい、おめえはあの女を知っているかえ」
「冗談じゃあねえ。いくらわっしだって、江戸じゅうの女をみんな知っているものか」
云いながら、幸次郎は女の横顔をのぞいて、笑い出した。
「いや、知っています、知っています。あれは
「むむ、宮戸川のお光か。道理で、見たような女だと思った。あいつ、いい
「色男でも出来たか、おふくろと喧嘩でもしたか。まあ、そんなところでしょうね」
自分の噂をされているとも知らずに、お光は
お光はそれにも気がつかないらしく、狭い仮橋の中程を行きつ戻りつしていたが、やがて立ち停まって
「爺さん、又来たよ、おれはちょいと奥を貸して貰うぜ」
半七は障子をあけて小屋の奥に身を忍ばせると、やがてお光が帰って来た。それを待ち受けていた幸次郎は声をかけた。
「おい、お光ちゃん。どこへ行った」
呼ばれてお光は驚いたように振り返った。その顔は陰って蒼ざめていた。
「どうしたえ。ひどく顔の色が悪いじゃあねえか。
お光は奥山の宮戸川という茶店の女で、幸次郎の職業もかねて知っているのであるから、呼びかけられて素通りも出来なかった。彼女は努めて笑顔を
「おや、幸さん。急にお暑くなったようでございますね。きょうはこちらで何かのお見張りですか」
「なに、見張りというわけでもねえ。あんまりからだが
「ほほ、御冗談でしょう。両国橋が
「と云うのは、世を忍ぶ仮の名で、占い者にお手の筋を見て貰って······。それから両国の川へ行ってお念仏を唱えて······。これから何処へかお寺参りにでも行くのかね。はは、お若けえのに
お光は顔の色を変えて、暫く無言で相手の顔を見つめていた。客商売に馴れている彼女も、当座の返事に困ったらしい。そこへ附け込んで、幸次郎は嚇すように云った。
「おい、お光。正直に云えよ。おめえは何でこの川へ来て拝んでいたのだ。
彼女はやはり黙って俯向いていたが、その顔色はいよいよ蒼ざめて来たので、幸次郎は
「こいつ、わる強情な女だな。おい、爺さん、縄を持って来い。この
如何にこの時代でも、単にこれだけのことで無闇に人を縛ることの出来ないのは判り切っているのであるが、若い女はその嚇しに乗せられたのか、但しはほかに仔細があるのか、縄をかけると聞いて彼女はひどくおびえた。口を利くにも利かれず、逃げるにも逃げられず、彼女は身を固くして立ちすくんでいた。
ここらで好かろうと、半七は奥からふらりと出て来た。
「何だか嚇かされているじゃあねえか。宮戸川のお光が縄付きになったら、泣く人がたくさんあるだろう。なんとか助けてやりてえものだな」
幸次郎一人でさえも受け切れないところへ、又その親分が不意にあらわれて来たので、お光の顔は蒼いのを通り越して、土のような色になってしまった。
三
「おい、お光。おれは幸次郎のように嚇かしゃあしねえ」と、半七は
「恐れ入りました」と、お光はふるえながら微かに答えた。
「おい、幸」と、半七は笑った。「恐れ入りましたと云う以上は、弱い者いじめをしちゃあいけねえ。これからはお互いに仲良くするのだ。そこで、お光。その旦那というのは何処の人だ」
「
「浅草の田町だな」
「はい。
「なんという男で、何商売をしている」
「宗兵衛と申しまして、金貸しを商売にして居ります。おもに吉原へ出入りをする人達に貸し付けているのだそうで······」
「じゃあ、
「よくは知りませんが、不自由は無いようでございます」
「おめえは宗兵衛の女房を知っているのか」
「知って居ります」と、お光は云い淀みながら答えた。「あたしの
「おめえの家はどこだ」
「
「女房が何しに来た。暴れ込んで来たのか」
「旦那を迎えに······。初めのうちは旦那も素直に帰ったんですが、しまいには喧嘩を始めて······。おっ母さんも、あたしも困ったことがあります。この二日の晩にも、旦那がよっぽど酔っているところへ、おかみさんが押し掛けて来て、とうとう大喧嘩になってしまって······。旦那はおかみさんを引き摺り倒して、乱暴に踏んだり蹴ったりするので、あたし達もみかねて仲へはいって、ともかくもおかみさんを
「蝋燭が物を云うぞ······。女房がそんなことを云ったのか」と、半七は訊き返した。
「云いました」と、お光はうなずいた。「そうして、あたし達を突きのけて、
「そりゃあ
「弁天山の四ツがきこえる前でした」
「その後に宗兵衛はおめえの
「一度も来ません」
「その仮橋から身を投げたのは宗兵衛の女房だということを、おめえはどうして知っているのだ」
「今も申す通り、あの晩おかみさんが出て行く時に、あたしが死んでも蝋燭が物を云う······。それが耳に残っているところへ、きのうこの川で揚がった女の死骸は、金の蝋燭をかかえていたという評判で、その年ごろも丁度おなじようですから、きっと旦那のおかみさんに相違ないと、おっ母さんは大変に心配しているんです。あたしも気になって堪まりませんから、その様子を聞きながらここへ来て、占い者に見て貰いますと、おまえさんには死霊が祟っていると云われたので、いよいよぞっとしてしまいました」
「宗兵衛は江戸者かえ」
「いいえ、なんでも東海道の方に長くいたそうで、大井川の話なんぞをした事があります。江戸へは
お光は更に半七の問いに対して、宗兵衛はことし四十歳、女房のお竹は三十三歳、夫婦のあいだに子供は無く、田町の家はお由という山出しの女中と三人暮らしである。
「そこで、その蝋燭の一件だが······」と、半七はまた訊いた。「それに就いて何か聞いたことがあるかえ」
「二日の晩に初めて聞いたので······。それまでに誰もそんな話をしたことはありませんでした」
「そうか。じゃあ、きょうはまあこの位でよかろう。おっ
「ありがとうございます」
「宗兵衛という旦那が来ても、きょうのことは決してしゃべっちゃあならねえ。詰まらねえおしゃべりをすると飛んだ係り合いになるぞ」
半七はよく云い含めてお光を帰した。
「ねえ、親分。あの女は旦那という奴に内通しやあしませんかね」と、幸次郎は云った。
「なに、奥山の茶屋女が慾得ずくで世話になっている旦那だ。心から惚れているわけでもあるめえ。それにしても、宗兵衛という奴を早く引き挙げなけりゃあならねえ。野郎め、女房にひどい意趣返しをされたな」
「意趣返しだろうか」
「意趣返しよ」と、半七は笑った。「亭主の悪事が露顕するように、女房は金の蝋燭を抱いて身を投げたのだ」
「そんならむしろ訴えて出ればいいのに······」
「それにゃあ訳があるのだろう。訴えて出れば自分もお仕置にならなけりゃあならねえ。自分はひと思いに死んでしまって、あとに残った亭主を
「はは、わっしは大丈夫だ」
二人は両国を出て浅草の方角にむかった。
「都合によっちゃあ、それからそれへと追っ掛けにならねえとも限らねえ」と、半七は云った。
「刻限はちっと早えが、腹をこしらえて置こう」
茶屋町辺の小料理屋で
「おい、ここらに金貸しの宗兵衛さんという
「宗兵衛さんはいないよ」
「どこへ行った」
「どこへ行ったか知らないが、ゆうべから帰らないと女中が云ったんだ」
「まあ、留守でもいいや。その家を教えてくれ」
小僧に教えられて、宗兵衛の家をたずねて行くと、
「御免なさい」
女中は居睡りでもしていたらしく、二、三度呼ばせて漸く出て来た。彼女は
「おまえさんは女中かえ。お由さんというのだね」と、半七は先ず訊いた。
お由は無言でうなずいた。
「旦那はお留守ですかえ」
「ゆうべから帰りませんよ」
「馬道のお光さんのところへ泊まり込みかね」
何でもよく知っていると云うように、お由は無言で半七らの顔をふたたび眺めた。
「実はそのお光さんの
「なんにも云って行きませんよ」と、お由は
「おかみさんは······」
「おかみさんも留守ですよ」
「二日の晩から居ないのかえ」
お由は無言であった。
「隠しちゃあいけねえ。おかみさんは本当に二日の晩から帰らねえのだろう」
お由はやはり無言であった。半七は舌打ちしながら幸次郎を見かえった。
「また両国と同じ芝居を打たにゃあならねえ。女を嚇かすのはおめえに限る。まあ、頼むよ」
四
お由は
「旦那とおかみさんとは去年の夏頃からたびたび喧嘩をしていました。去年の暮に一旦別れるような話もありましたが、まあ其の儘になっていたのです。今月の二日の晩に、おかみさんは宵から出て行きましたが、出先でまた旦那と喧嘩をしたと見えて、散らし髪になって真っ蒼な顔をして帰って来て、癪が起ったと云って暫く横になっていました。それから奥へはいって何か探し物でもしている様子でしたが、やがてわたくしを呼んで、本所まで駕籠を一挺頼んで来てくれというので、すぐに表通りの辻倉へ呼びに行きました。おかみさんがその駕籠に乗って出たあとへ、ひと足違いで旦那が帰って来ましたから、おかみさんはこうこうですと話しますと、旦那はすぐに奥へはいって、これも何か探し物をしているようでしたが、わたくしには何も云わずに、あわてて表へ出て行きました。その晩の四ツ過ぎに、旦那はひとりで帰って来ましたが、おかみさんはそれぎり帰りません。旦那の話では、おかみさんは体が悪いので箱根へ湯治にやったということでした」
「それは二日の晩のことで、旦那はそれから毎日どうしていた」と、半七は訊いた。
「それから毎日どっかへ出て行きました。ゆうべも日が暮れてから帰って来て、わたくしにお湯へ行って来いと云いますから、近所のお湯屋へ行って来ますと、その留守のあいだに旦那は着物を着かえて、小さい包みを持って、旅へ出るような支度をしていて、おれもこれから箱根まで行って、
きのうの今日であるから、お由はまだ両国の噂を聞いていないのであった。正直者の彼女は旦那のいうことを
「おかみさんは駕籠に乗って、本所のどこへ行ったか知らねえか」
「本所と聞いたばかりで、どこへ行ったか存じません」
「本所に親類か
「本所からは増さんという人が時々に見えますが、
「おかみさんの駕籠は辻倉だね」
「そうでございます」
「じゃあ、表の辻倉まで行って来てくれ」と、半七は幸次郎に云いつけた。「二日の晩にここのおかみさんを
幸次郎はすぐに出て行った。その帰るのを待っている
「おい。この紙屑はこのごろ売ったかえ」
「屑屋さんは先月の
半七は紙屑籠をおろして、念のために紙屑をつかみ出した。それを一々ひろげて丹念に調べているうちに、底の方から半紙の屑を発見した。半紙は幾きれにも引き裂いて丸めてあるので、その皺を伸ばして継ぎ合わせてみると、女の筆の走り書きで、書いては消し、消しては書き、どうも思うように書けないので、中途で引き裂いて紙屑籠へ押し込んでしまったらしい。したがって、文意はよく判らないが、ともかくも、「五年前のことを忘れたか||不人情な男||死んで恨みを晴らしてやる||蝋燭が物を云う||」と、これだけの事はおぼろげに推察された。
蝋燭が物を云うは、お光の口からも洩らされているので、別に新らしい発見でもなかったが、五年前のことを忘れたか||この一句は半七の胸に強く響いた。それによると、金の蝋燭に
勿論、一つの犯罪を探索しているうちに、その見込み違いから、更に犯罪を発見するような例は、これまでにもしばしば経験があるので、半七は今さら驚くという程でもなかったが、見込み違いは確かに見込み違いである。彼は一種の失望を感じた。
そこへ幸次郎が威勢よく飛び込んで来た。彼は半七を座敷へひき戻して口早にささやいた。
「親分、
ゆく先が錺屋というので、彼は大いに意気込んでいるらしいが、今の半七の考えはもう違っていた。然し金の蝋燭をかかえて身を投げた女||それが、古今に例のない不思議の出来事であるだけに、彼の職業的興味は再び湧き起った。それが五年前の出来事であるにもせよ、金蔵やぶりと無関係であるにもせよ、進んでその秘密を
「おい、本所から来る増さんというのは、錺屋かえ」
「はい。錺屋さんだそうでございます」
「なんの用で来るのか知らねえか」
「やっぱりお金を借りに来るようです」
「この女じゃあ
「むむ。出かけよう」
お由には当分おとなしくしているように云い聞かせて置いて、半七と幸次郎は更に本所へむかった。
「あの店におしゃべりらしい
半七に指図されて、幸次郎は路ばたの魚屋へ立ち寄った。店さきで盤台を洗っている女房に話しかけて、錺屋の噂を聞き出すと、果たして彼女は口軽にいろいろのことをしゃべった。錺屋の増蔵は三十二三で、去年の春に女房に死に別れ、今では小僧と二人暮らしの男世帯である。腕はなかなかにいい職人であるが、女房をなくしてから道楽を始めて、諸方に義理の悪い借金が出来たらしいという。それで大抵の見当も付いたので、二人は錺屋へたずねて行くと、小僧がぼんやりと店に坐っていて、親方は二階に寝ていると答えた。
呼びおろされて出て来た増蔵はほろよい機嫌であったが、これは山出しのお由とちがって、江戸生え抜きの職人であるだけに、半七らが唯の人でないことに早くも気がついたらしく、俄かに形をあらためて丁寧に挨拶した。
「わたくしは増蔵でございますが、なんぞ御用でございますか」
「おれは三河町の半七だが、内の者はまだ誰も来ねえかね」
「いえ、どなたも······」と、増蔵は不安らしく相手の顔をみあげた。
「まだここらまでは廻って来ねえか。遅い奴らだな。じゃあ、すぐに御用に取りかかろう。本来ならば番屋へ引っ張って行くのだが、近所の手前もあるだろうから、ここで訊くことにするよ」
小僧を奥へ追いやって、半七は店にあがり込んだ。よもやとは思うものの
しかし相手は案外におとなしく、半七の調べに対して正直に答えた。
「まことに恐れ入りました。実はきのう両国の仮橋の下から女の死骸が揚がって、それが金の蝋燭をかかえていたという噂を聞きまして、すぐに訊きに行きますと、確かに見おぼえのある人でしたから、そこで正直にお係りのお方に申し上げようかと思ったのですが、なんだか気が咎めて其のままそっと帰って来てしまいました。それがためにいろいろお
「おめえは以前から田町の宗兵衛を識っているのか」
「いえ、去年の九月頃からでございます。実は去年の正月に女房をなくしまして、それからちっとばかり道楽を始めたので、ふところがだんだん苦しくなりまして······。そのうちに、吉原の若い者の喜助という者と懇意になりまして、その喜助が袖摺稲荷の近所にいる宗兵衛という金貸しを識っているというので、喜助の世話でそこから小金を借りることになって、それからまあ足を近く出這入りをするようになりました」
「宗兵衛からよっぽど借りたか」
「一度にたんと借りたことはございません。せいぜい二
「七、八両······。職人にしては大金だ。それを宗兵衛は催促しねえのか」
「ちっとも催促しないで、いつもいい顔をして貸してくれました。あとで考えると、それには少し
「宗兵衛はなんと云った」
「おまえは知るまいが、京大阪の金持は泥坊の用心に、こういう物をこしらえて置く。どんな泥坊が徒党を組んで押し込んで来ても、蝋燭なんぞには眼をかけないから、こうして隠して置くのが一番確かだ。もう一つには、それが通用の小判であると、自分もとかくに手を付けて使い勝だから、地金のままで仕舞って置くのが無事だということになっている。
そんなことが本当にあるか無いかを、半七もよく知らなかった。幸次郎は勿論知らなかった。二人は唯だまっていると、増蔵は猶も語りつづけた。
「それでまあ不審は晴れたのですが、わたくしのような貧乏人が金のかたまりを持ち歩いても、どこでも
「その蝋燭はどうした」
「女房がやかましいから一旦返してくれと宗兵衛が云うので、わたくしも厄介払いをしたような心持で、すぐに返してやりました。その時におかみさんは、まだ何本かの蝋燭を重そうに抱えているようでした」
「それからどうした」
「それから先のことはなんにも知りません。夫婦は無事に田町へ婦ったものだと思っていると、実に案外の始末でびっくりしました。たぶん帰り路で二度の喧嘩をはじめて、おかみさんは両国の仮橋から飛び込んだのだろうと思います。宗兵衛はどうしたのか、田町へ様子を見に行こうと思いながら、うっかり出て行って飛んだ係り合いになっても詰まらない。といって、知らん顔をしているのも義理が悪いようで、なんだか心持が好くないもんですから、昼間から湯にはいって一杯飲んで、二階で横になっていたところです」
気の弱い職人の申し立てはこれで終った。
五
「そうすると、その宗兵衛という男は、何処からか金の蝋燭を盗んでいたんですね」と、私は訊いた。
「そうです」と、半七老人はうなずいた。「しかし宗兵衛が増蔵に話して聞かせたのは出たらめで、
どなたも御承知でしょうが、東海道の大井川、あの川は江戸から行けば島田の宿、上方から来れば
その看病の
「それが例の蝋燭なんですね」
わたしは待ち兼ねて、思わず口を出した。話の腰を折られても、老人は別にいやな顔を見せなかった。
「その男の云った通りにしたならば、夫婦も余計な罪を作らずに済んだのかも知れませんが、折角くれた蝋燭を今すぐに使ってはいけないと云う。それが何だかおかしいばかりでなく、その蝋燭があんまり重いので、夫婦が不思議がって眺めているうちに、どっちの粗相だか土間に落として、そこにある石にかちりとあたると、蝋は砕けて芯が出た。それが金色に光ったので、夫婦は又おどろきました。それが即ち金の蝋燭の由来······」
「その旅の男というのは何者ですか」
「まあ、お待ちなさい。まだお話がある。その蝋燭を見て、夫婦は考えたんです。中間ふうの旅の男がこんな物を持っている筈がない。殊に病い挙げ句のからだで、今ごろから
それからひと先ず京都へ行って、どういうふうに誤魔化したか、ともかくも一本の蝋燭の芯を売って通用の金に換え、それを元手にして二年ほど何か商売をやっていたんですが、その商売が思うように行かなかったのか、何かのことで足が付きそうになったのか、京都を立ちのいて江戸へ出て来て、浅草の田町で金貸しを始めることになったんです。吉原に近いところですから、小金を借りに来る者もあって、商売は相当に繁昌したんですが、相手が相手だから貸し倒れも多い。おまけに宗兵衛は江戸の水に浸みて、奥山の茶屋女に熱くなるという始末だから、夫婦喧嘩の絶え間が無いばかりか、宗兵衛のふところも次第にさびしくなる。そこで錺屋の増蔵をうまく手なずけて、例の蝋燭をなんとか処分しようとしているうちに、女房のやきもちから椿事
「宗兵衛はどうしました」
「宗兵衛は女房をなだめて、一緒に増蔵の家を出て、両国まで帰って来ると、お竹はかねて覚悟をしていたものか、仮橋の中ほどを過ぎた頃に、亭主の
わたくしが本所の錺屋へ出張ったのは七日の午過ぎで、宗兵衛はその前夜に飛んでしまったんですから、その間に一日の差があります。どっちの方角へ逃げたかは知らないが、逃げる方は一生懸命だから、一日おくれては容易に追い着かれそうもない。どうしたものかと思案しながら、幸次郎と一緒に錺屋を出て、両国の方へぶらぶら引っ返して来ると、仮橋の中ほどに一人の男が突っ立って、ぼんやりと水をながめている。その年頃や人相風俗が
それが丁度、橋番の小屋の前でしたから、おやじの久八を呼んで首実検をさせると、毎日この橋の上へ来て大川を眺めていた男は、たしかにこいつに相違ないというので、もう一言もなく恐れ入ってしまいました。そこで、だんだんに調べてみると、宗兵衛は前の晩に田町の
これでこの事件の顛末は判ったが、最後に残っているのは金の蝋燭の問題である。それについて、半七老人はこう説明した。
「旅の男は宗兵衛に
それがなぜ世間へ知れずにいたかというに、その大名も元来秘密の仕事ですから、たとい途中でどんな事があろうとも、表向きの詮議は出来ません。江戸の幕府の役人たちに蝋燭を贈ったなぞということが世間へ知れては、その屋敷の大迷惑になりますから、何事も泣き寝入りにして、闇から闇へ葬るのほかはない。それを承知で、持ち逃げをした奴もあるわけです。昔はそういうたぐいの秘密がいろいろありました。いや、今日でも『珍物』なぞという贈り物があるとか聞いていますが······。はははははは。
ついでに申し上げますが、御金蔵やぶりの藤十郎と富蔵は、安政四年二月二十六日に召し捕られ、五月十三日に千住の小塚ッ原で